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『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』感想(ネタバレ)…揺れる女の世界

The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ

揺れる女の世界…映画『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:The Beguiled
製作国:アメリカ(2017年)
日本公開日:2018年2月23日
監督:ソフィア・コッポラ

The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ

ざびがいるど よくぼうのめざめ
The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ

『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』あらすじ

南北戦争期のアメリカ南部。女子寄宿学園で暮らす7人の女たちの前に、怪我を負った北軍兵士の男が現われる。いつもは女性だけで成り立っていた静かな空間。そこにふと存在するようになった男性。女性に対し紳士的で美しいその兵士を介抱するうちに、全員が彼に心を奪われていく。

『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』感想(ネタバレなし)

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視点を変えてみた

女性への差別や暴力が問題になる中、こんな論争がたびたび持ち上がります。

もし世の中の人間が女性だけだったら、世界は平和だろうか」

きっといろんな人のいろんな意見があることでしょう。ユートピアだと考える人もいれば、ディストピアだと考える人もいるはずです。

このテーマはSFの分野ではよく取り上げられることのあるもので、とくに「フェミニストSF」というサブジャンルで描かれることが多いです。フェミニストSFの歴史は非常に古く、1800年代初めにメアリー・シェリーが生み出した「フランケンシュタイン」など、SFの創成期からすでに存在しています(この「フランケンシュタイン」誕生の秘話を描いた『メアリーの総て』という映画が最近公開されました)。

近年だと、1985年の小説「侍女の物語」をドラマ化した『ハンドメイズ・テイル 侍女の物語』が高い評価を集めていました。なにはともあれ今後も存在感を強めていくジャンルでしょう。

そして本作『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』もフェミニストSFでは厳密にはないかもしれませんが、それに近い雰囲気を携えた作品といっていいのではないでしょうか。

物語は非常にシンプル。1864年、南北戦争3年目を迎えた、南部に位置するバージニア州。人里離れた森にひっそりたたずむ女子だけの学園が舞台。男性は全て戦争に出兵しており、しばらく女性だけで過ごしてきた空間。そこに北軍の男の兵士が負傷してやってきたことで、その女性だけの調和は乱れ始める…そんなサスペンスフルな流れになっています。

本作は小説が原作ですが、実は1971年に一度映画化済みで、邦題は『白い肌の異常な夜』。しかし、『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』と決定的に違うのは、1971年版は男性視点になっているということ。主演はあのクリント・イーストウッド。監督はそのクリント・イーストウッドを一躍有名にした『ダーティハリー 』を手がけたドン・シーゲル。『白い肌の異常な夜』自体は興行的に成功しなかったものの、その次の『ダーティハリー』が大ヒットしたため、それにつなげたという意味では大きい価値のある作品といえるかもしれません。ドン・シーゲル監督といえば、西部劇から『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』のようなSFまで、いわゆるジャンル映画的側面が強めの作風が特徴の人。『白い肌の異常な夜』も基本はそういうスタンスで楽しむ映画でした。

その男性視点だった1971年版を女性視点に変えるというのは、言葉で説明する以上に大きな変化をもたらします。具体的には後半の「ネタバレあり感想」で書くとして、ともかく別物レベルと考えるべきでしょう(ストーリーは同じですけど)。

1971年版を知っている人は、味が薄くなったと思うかもしれません。でもそれは「とんこつラーメン」が「塩ラーメン」に変わったようなものなので、味自体の違いの問題です(わかりやすいんだかわかりにくいんだかよくわからない例え)。

本作の監督は、女性コミュニティを描く作品を多く手がけ、才能を高く評価されている“ソフィア・コッポラ”。まさに本作にぴったり。というか、“ソフィア・コッポラ”監督じゃないと、女性視点にしたいなんてアイディアは生まれなかったかもしれません。本作によって2017年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞し、ますますその評価を不動のものにしていますが、明確な作家性ゆえの賜物ですね。

視点を変えれば全く違う見方もできる。そんなことを教えてくれる映画です。

↓ここからネタバレが含まれます↓

『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』感想(ネタバレあり)

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女性視点とはどういうことか

男性視点の1971年版は、前述したとおり、ジャンル映画的な色が強めです。基本は「男vs女」という画一的な二項対立になっています。ゆえに男の醜さと女の醜さが衝突する映画だと評されることもあります。

でも、それはアンフェアで極端じゃないですか。なぜなら、作中では男はジョン・マクバニーしかメインでは出てこないわけです。なので彼を男性の代表みたいには扱えません。ジョン・マクバニー個人の性格として理解するほうが自然です。

だったら作中で7人も登場する女を全部「女性」の一括りで扱うのはもっと不可能です。彼女たちは全員コピペみたいな女性の特徴を共有しているわけではなく、個々人で性格を持っていると考えるのが普通のはずです。ましてや「女性=ヒステリック」といったようなイメージだけで語れるわけもない。

あの学園の彼女たちは、女性1、女性2、女性3、女性4、女性5、女性6、女性7ではなく、マーサ、エドウィナ、アリシア、エイミー、ジェーン、マリー、エミリーというれっきとした個人。

『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』はその視点に則って、原作小説を映像化しています。

つまり、女性視点で描くということは、本作の場合、個人的な要素に重きが置かれるということになります。

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女性それぞれ抱えるものは違う

脚に怪我を負って保護されたマクバニーという存在の乱入によって、ファーンズワース女子学園の女性たちは大きく心を揺れ動かされます。

重要なのはこの女性たちは女性と言っても年齢も立場も性格もバラバラということ。表向きは全員がマクバニーに気にいられようとしますが、その思惑や葛藤はそれぞれ異なります。

“ニコール・キッドマン”演じるマーサは、校長という学園を統べる長としての責任がまずは圧し掛かります。敵の兵士を救護するのは危険ではないのか。でも男手は正直、学園の維持のためにも助かる。一方で宗教的な責任も同時に発生します。慈愛の精神でたとえ敵でも救うのが当然ではないのか。相反するジレンマ。これに異性としての邪念が入り込み、それがまた自分の学園の長として立場と信仰者としての立場とせめぎ合います。

“キルスティン・ダンスト”演じるエドウィナは、教員ですがマーサほどのキャリアに依存していません。それよりも今のままだとこのキャリアを突き進むことになるけど、それとも別の道があるんじゃないかと悩んでいます。マクバニーに「この世であなたが一番のぞむことは?」と聞かれ、「ここから出ていくこと」と答えるエドウィナ。彼女にとってマクバニーは自分を別の世界に導いてくれる存在に見えるのでしょう。

“エル・ファニング”演じるアリシアは、子どもの中では年長ですが、マーサやエドウィナと違って責任ある立場ではありません。しかも、この学園の生活に全く有意義な価値を見出してすらいません(あれほどやる気のない土の耕し方はなかなかないですね)。一方で、性的に成熟したばかりであり、そういうバイタリティーは溢れんばかりに思っています。ただ、快楽を求めてマクバニーにも積極的にアタックしていきます。

エイミー、ジェーン、マリー、エミリーの4人の子どもたちは、年齢が低いこともあり、当然、キャリアや将来の人生、性的な快楽などは考えていません。彼女たちにとってマクバニーは自分を可愛がってくれる格好の存在。そのため、鳥や音楽など自分の好きな話題を話しては、興味をもってもらおうと必死。学園は明確な序列で厳格にコントロールされていますが、マクバニーだけは幼い自分でも出し抜いて独り占めできるチャンスがあるわけです。

なので決してエロスな欲望だけが触発の理由ではないので、「欲望のめざめ」という邦題は不適切だったかもしれないですね。

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自分で自分を騙す男

一方の“紅一点”のマクバニー。

“ソフィア・コッポラ”監督はインタビューで「私は彼女たちが誘惑を始めたのではなく、彼が誘惑したのだと考えて演出しました」と語っており、そのとおりにマクバニーは巧みに女性たちをコントロールしていきます。ちなみに原題の「beguile」は「騙す、楽しませる、魅了する」という意味です。

ちゃんと各女性たちごとに対応を変えているのが巧妙。ときに強いリーダーシップを見せたかと思えば、平和を愛する優しい男を演じたり、はたまたセクシーで魅力的な雰囲気を醸し出したり、ときには気さくなおじさんのように懐を広げる…まるで一人で何役もしているようです。“コリン・ファレル”の器用な演技力が光っていました。

無論、そこには油断があります。怪我をしたのだからもう戦争とはおさらば。あとは女性たちを相手して上手く立ち回ればいいだけ。責任を抱えるマーサを利用して自分の保護を獲得し、若く熟したばかりの体を持つアリシアで快楽を満たし、この世界から出たいという行動力を持つエドウィナを焚きつけて脱出する。完璧な作戦。

しかし、ひとつだけ誤算がありました。それはこの学園にも脅威があるということ。そしてその暴力性を引き出してしまったのが他ならぬ自分だということ。ましてや女性が連携して自分を陥れるとは考えてもみなかったこと。

切断された脚は彼の唯一の男としての誇りさえも失ったことを意味するようですが、マクバニーは負傷兵になってしまった冒頭の時点で男としての居場所を失ってしまっていたようにも思います。そう考えるとマクバニーは自分で自分を“騙して”いたのかもしれません。俺はまだ男としてやれる…と。

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自分で自分を騙す女

では、マクバニーが毒キノコで死亡したラスト、あの学園は再び元の平穏に戻ったのでしょうか。

少なくともそうではないでしょう。とくにひとり抜け駆けに成功しかけたエドウィナと他の女性たちとの関係性はヒビが入っていますし、他の女性たち同士も同様。

そもそも彼女たちは仲が良いからあのコミュニティで一緒にいるわけではありません。戦争に明け暮れる男社会であの屋敷という牢獄に閉じ込められているだけ。それを示すように本作のラストカットは、外から柵越しに見える屋敷と女性たちを映して終わります。

本作は、文学的なジャンルで言えば「南部ゴシック」ですが、白とか薄ピンクなど幽霊のようにデザインされた女性たちのリアルから離れた独特の浮遊感といい、SFっぽさが印象に残るのは私だけでしょうか。

男性のために生きる「オンナ」という名の生き物として檻に入れられた彼女たち。その実態は個性豊かな中身を持つ、エネルギッシュな野生動物です。彼女たちが解放されるのはまだまだ先のこと。それまでは女性たちもまた自分で自分を“騙す”ほかないのでしょう。

“ソフィア・コッポラ”監督の鮮やかな手際で見せられる、男社会の中の女社会。本作を鑑賞したことで、あんな映画やこんな映画も女性視点にすると面白いのじゃないかと妄想が捗ります。

『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 79% Audience 48%
IMDb
6.3 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 6/10 ★★★★★★

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以上、『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』の感想でした。

The Beguiled (2017) [Japanese Review] 『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』考察・評価レビュー