ザ・スクエア 思いやりの聖域
映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:The Square
製作国:スウェーデン(2017年) 
日本公開日:2018年4月28日
監督:リューベン・オストルンド

あらすじ

現代アート美術館のキュレーターとして働くクリスティアン。彼が次に手がける展示「ザ・スクエア」は、思いやる人間としての役割を訴えかける参加型アートだと自信満々に話す。ある日、スマホと財布を盗まれたことで、予想外の状況に陥ってしまう。

ネタバレなし感想

気まずい気分に最近なりましたか?

昔、こんな経験がありました。

ある田舎の村。人口も非常に少ない閑散としたこの村に建つ「元は学校だった公共施設」に行ったときのこと。その建物の廊下の壁にこんな紙が掲示されていました。内容は「●●村は、核兵器廃絶に賛同し、戦争のない平和な世界の実現を目指します」みたいな宣言書でした(詳しい文章はうろ覚え)。

それを見た時、私は複雑な気持ちになったんですね。もちろん平和を願う気持ちはよく理解できます。でも、人口流出と高齢化によって今にも財政破綻しそうなこの地方の村が掲げる目標にしてはあまりにも不釣り合いだとも思ったのです。たぶんこの村にそんな力はないし、ましてや核兵器がなくても滅びそうな村ですから。

それと同時に、これは今の日本社会の風刺しているじゃないかとも思いました。唯一の被爆国という肩書で平和を訴えてはいるものの、具体的な成果も能力も何も発揮できずに、国際社会の席には真面目な顔で座っている日本人。とりあえず表面だけは「正しさ」で取り繕う。批判するわけじゃないですけど、皆、あらゆる面でそういうことをついついしていますよね。

そんなことを思った記憶を呼び覚ましたのが、本作『ザ・スクエア 思いやりの聖域』です。

この映画は2017年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した作品です。この年のコンペティション部門の審査員長は、スペインの映画監督ペドロ・アルモドバル。そう聞くと納得です。ブラックな風刺を効かせた作品が有名な彼がいかにもベストに推しそうな映画がこの『ザ・スクエア 思いやりの聖域』でしたから。

監督はスウェーデン人の“リューベン・オストルンド”という人で、前作となる『フレンチアルプスで起きたこと』はカンヌ国際映画祭のある視点部門で審査員賞を受賞しており、すでに注目の才能でした。私自身、『フレンチアルプスで起きたこと』で初めてこの監督の作品を拝見しましたが、その独自の視点で描く映画の作品性にすっかり魅了されました。

“リューベン・オストルンド”監督作の特徴は、とにかく「気まずい」ということ。例えば、バスに乗っているときに自分が座っていたら高齢の老人が乗ってきて、席を譲るべきか悩んでいるうちに終点に到着し、あとあと後悔を引きずる…みたいなやつです。そういう日常で起こりうる「気まずさ」を独特なアプローチで観客に延々見せつける、なんとも悪趣味な監督。

本作は“リューベン・オストルンド”監督の嫌らしい「気まずさ攻撃」がさらに過激化しており、観ているとどんどん自分が委縮していくような気分になります。逆に本作を観て「これ、何の映画なの?」とか言っているような人がいたら、それは相当な鈍感ですよ。良いんだが悪いんだかわかりませんけど…。

「そんなの何が楽しいんだ」という話ですが、まあ、その終始漂う嫌な感じが病みつきになる人は楽しいのです。でも、たまにこういう映画を観て自分の「気まずい」と思う感情がマヒしていないかチェックするのもいいと思います。気まずく思わなくなったら、いろいろな意味でおしまいですからね…。

予告動画






↓ここからネタバレが含まれます↓





ネタバレあり感想

芸術を否定しているのか?

まず真っ先に気になっていたのは「なぜタイトルが“スクエア(square:四角)”なのか」ということです。あの主人公クリスティアンの提案するアート「ザ・スクエア」は「信頼と思いやりの聖域です。この中では誰もが平等の権利と義務を持ちます」という説明文にあるように、人々に意識を芽生えさせるための仕掛け。仕掛けとしての空間があればいいだけなので、別に四角じゃなくても、三角や丸でも良かったはずです。

でも、これは四角だからこその意味があるわけです。その狙いを考えてみようと思いましたが、本作の日本の公式サイトに掲載されているゲームクリエイターの小島秀夫氏の推薦文がまさに納得の的確な文章だったので、引用させていただきます。
丸い地球に暮らす僕らは、実は四角い“聖域”に生きている。
建物、公園、扉、窓。法律、規範。家族、仕事、恋愛、教育。
本、絵画、演劇、映画。携帯、タブレット、モニター、
SNSまでもが四角スクエアで切り取られている。
四角い“日常”を、映画スクリーンという
“フレーム”を駆使してじわじわと問い詰め、
カクカクになった僕らの価値観や偏見を丸く吹っ飛ばす。
最後には丸裸にされた思いやりの“聖域”がまた額装され、
奇妙にもアートとして見えてくる不条理劇。
幾重にもフレーミングされた頭のいい映画。

小島秀夫(ゲームクリエイター)
全くこのとおりだなと私も思うのですが、追記するなら四角という形は非自然的だと思います。自然界に円形や六角形(ハニカム)はありますけど、四角形というのは案外ありません。つまり、人工的な雰囲気が強いカタチなんですね。

クリスティアンが意図的にせよ非意図的にせよ、あのアートに四角を選んだことで、特定の思想や意識で相手をなかば強制的に固めようとする、社会の見えざる構造まで具現化してしまっているともとれます。

結果、あのアートは炎上騒ぎを起こすほど世論を刺激します。まあ、直接的な原因は、自分がチェックせずに投稿されてしまった宣伝動画だとも言えますが、あのアート自体の潜在的な影響力も効果を出しているでしょう。だから皮肉なことにあの「ザ・スクエア」はアートとして最大の役割を見事に果たしたんですね。クリスティアンの想像を超えて。

本作は最初観た時は「芸術を批判する」という部分ばかりが印象に残ります。X-Royal美術館にあるアートの数々の何とも言えない“微妙さ”、そこで働くスタッフの“無気力さ”。セックスをしたアンという女性記者の部屋にいた猿(チンパンジーではなくボノボ)が絵を描いていたりするシーンも、芸術の価値を嘲笑うかのようです。

しかし、そんな安直な芸術否定の映画ではないのが本作。

マーケティング部のあの二人はいみじくも言ったつもりかもしれませんが、序盤の会議での「(ザ・スクエアは)問題提起にはなるけど、伝えたいことは普通過ぎる。すでに合意形成された見解なんて興味を持たれない」いうのは間違いだったわけで…。

アートというのは関係者の想像を飛び越えて影響力を発揮するものである…つまり、四角にはおさまらない…ということを端的に表現した見事な映画が『ザ・スクエア 思いやりの聖域』だったのではないでしょうか。

ザ・スクエア 思いやりの聖域

誰でも感じる気まずさ

監督の前作となる『フレンチアルプスで起きたこと』は「夫婦」「家族」がテーマであることは明白で気まずさを感じるエリアも想定しやすい作品でしたが、対する『ザ・スクエア 思いやりの聖域』はかなり対象が抽象的な気がします。

あえて言うなら、社会において金と地位をそれなりに持った支配層、とくにリベラルの権力者層に“気まずさ攻撃”の矛先が向けられているように思います。

クリスティアンなんかは典型的な裕福な上流市民です。冒頭の演出で察することができるように日々パーティ三昧なのでしょうし、インタビューにも引っ張りだこで、人生を謳歌しています。そんな支配層の人たちが世界に平和だとか平等を語り、指導的立場にいる。まあ、よくあることです。

本作はその滑稽さをストレートに描き出します。冒頭のインタビューで「この美術館を運営する上で最も難しい点は?」と聞かれ、クリスティアンは「金銭面です。いかに資金を調達するか、芸術品は高価で獲得競争も熾烈です」と答えます。でも、その後に映し出されるアートは、“砂利の山”とか、“組み上げられたたくさんの椅子”とかで、明らかに高価には見えないです。「I TRUST PEOPLE」「I MISTRUST PEOPLE」の判断展示とか、あれはただのボタンですよ。それでいて、路上で物乞いをしている人に対してはスルーするのがいつもの日常。語っていることと、やっていることがチグハグです。

でも、表面上のカタチには異様にこだわります。スピーチ練習でメモをしまうくだりまで台本になっていたり、脅迫状のフォントにまで気をつかったり…。

その取り繕った綺麗さでも対応できない瞬間が描かれるとまた気まずくて…。ステージで公開対話しているときに観客の中にひとり汚い言葉を連発している人がいるシーン。あれはトゥレット障害(チックの一種)という本当にある症状なのですが、相手が障がい者だとわかるとそれはそれでどうしたらいいかわからずオロオロするだけ。

極めつけは、後半にあるセレブが集まるパーティでの、猿っぽい行動をとる上半身裸の男のパフォーマンス・ショーの場面。ここで本作は“気まずさ攻撃”を全開。最初は笑いの漏れる会場だったのに、完全に下をうつむいて沈黙するしかない上流階級の無力さ。

けれども、私は彼ら彼女らを全然バカにはできなくて。だって、トゥレット障害の場面、私もきっとオロオロするだけですよ。猿パフォーマンスも、集団で群れることでヘラヘラ笑えるような人間ですよ。こういう誰でも気まずさはありますよね。

クリスティアンは自分に余裕が出てくると良いことをしようとします。スマホと財布が見つかったら、急に物乞いに気前よくお金を渡したり。私たち日本人も、災害が起きたらそのときだけ急に支援したくなる精神を発揮するじゃないですか。ふだんは募金も手助けもしないくせに。同じです。

面白いのは、これが映画業界にも当てはまるということ。映画で賞を与えるのは決まって上流階級に属する人たち。煌びやかな会場で豪華な服装を身にまとい、「う~ん、この映画は社会問題を見事に風刺している価値ある芸術的な作品だね。よし、最高賞だ」とやっている行為は、本作の滑稽な人たちと重なります。

そういう意味では、本作がパルム・ドールを獲ったのは最高の皮肉。いいオチです。

ただその一言が言えれば…

本作はひたすら気まずい気分にさせるだけでなく、一応、救いというか、こうしたら?みたいな提案も描かれているとは思います。

そのひとつは、まず相手と真正面から向き合うこと。アートだとかそういうものを介さず直接、面と向かって話すということ。

クリスティアンは、脅迫状の一件で「風評被害」を受けたとして家にまで押しかけてきた激怒する少年を無視しようとし続けます。それでも良心の呵責に耐えられなかったのか、今度はビデオメッセージで「あれは間違いだ。利己的だった」と謝罪したかに見えますが「これは富の再分配の問題だ。社会構造の話だ」と理論という“四角”で自分を覆うことはやめません。

最終的に脅迫状を一軒ずつ投函するという愚行を犯したアパートに自らおもむき、例の少年の家族の住む部屋をどこかと聞くために、とある玄関をノックします。出てきたのは貧乏そうな移民のおじさん。そこで脅迫状めいた手紙を受け取ったか尋ねると「名前のないものは捨てる」と返答。少年は最近見ないし、引っ越したのではという情報をなんとか聞き取ります。

そこで初めてクリスティアンは現実の相手の姿を知るんですね。それは自分の考えていた“正しさ”でどうこうなるようなものではなく、あまりの歴然としたギャップが同じ国で暮らすはずの二人の階層を隔ているのでした。たぶんあのおじさんは、炎上アート騒ぎなんて知らないでしょう。全然世界が違います。

この映画から学ぶべきことがあると強引に言い聞かせるのだとしたら、私たちは気まずさに直面したとき、どうすればいいのかということ。

猿パフォーマンスのパーティ会場のように、黙って耐えるのでもなく、「はいはい、わかったよ!」と開き直って捨て台詞を吐くのでもなく、はたまたクリスティアンのように理論詰めで防御するのでもなく…。一番に参考にすべきは、クリスティアンの娘たち、とくに妹かもしれません。あの子のようにこう言えばいいんです。

「ごめんなさい」と。

ROTTEN TOMATOES 
Tomatometer 84% Audience 70%
IMDb
7.3 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★

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