障害者の権利を描く映画の先駆けとなった?…映画『フリークス』(1932年)の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(1932年)
日本公開日:1933年11月
監督:トッド・ブラウニング
恋愛描写
ふりいくす

『フリークス』物語 簡単紹介
『フリークス』感想(ネタバレなし)
『フリークス』を今こそ見る
劇場公開当時は大不評だったのに、年月が経過して後にカルト映画として熱烈に支持されるまでになる映画というのは、たびたび生まれます。
今回紹介する映画は、そんな劇的な評価の反転を経た一作ですが、それは時代における社会の価値観を如実に反映したがゆえでした。嫌悪と拒絶という不名誉な酷評から一転、障害者の権利を描く映画の先駆けとなっていたとの再評価となり…そしてクィア映画との重なりもある…。
それが本作『フリークス』です。
カルト映画なだけあって有名だと思うのですが、知らない人のために簡単に紹介すると、『フリークス』は1932年のアメリカ映画で、カーニバルのサーカス・ショーに所属する演者(パフォーマー)たちを主題にしています。
この演者(パフォーマー)たちというのは曲芸みたいなものもありますが、映画でメインとなるのがタイトルにもあるとおり、いわゆる「フリーク・ショー」です。俗に(差別的な言葉ですが)「奇形」と呼ばれる、「普通」とみなされない身体的特徴を持った人たち。彼らは中世以降からずっと見世物にされてきた歴史がありますが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米ではフリーク・ショーが大人気で、エンターテインメントの覇権となっていました。
興行師(プロモーター)は、フリーク・ショーに登場させる人たちをあの手この手で集め、大袈裟な設定を盛り付けて、仰々しく見世物にしました。当然、これは極めて差別的な搾取であり、中には特定の人種や民族さえも異形の存在として“売り出し”ていました。
大戦後にフリーク・ショーは流行らなくなります(やはり戦争で身体障害者が増え、さすがに障害者を見世物にするのは可哀想だという社会認識が高まったのか)。
1932年の『フリークス』はフリーク・ショーの盛況の終盤の時期に公開されたわけですが、この映画は出演者の大半に当事者を起用したことが異例でした。実際にフリーク・ショーで活躍していた人たちを積極的にキャスティングしました。
監督したのは、『魔人ドラキュラ』(1931年)の“トッド・ブラウニング”で、彼は10代の頃からサーカスのフリーク・ショーで雑用係をしており、曲芸師として働いたこともある経歴の持ち主。業界に詳しいのでした。
そういう座組だったので『フリークス』という映画自体がフリーク・ショーそのもののようなメディア的立ち位置もあったのですけど、物語は障害者差別…もっと言えば障害者を劣ったものとして扱う社会の闇を射抜くような鋭い批評性を持ち合わせていました。
しかし、当時はそういう視点で本作を評価する反応はほぼなく(優生思想が当たり前の時代だったのでそれも当然)、試写の時点で大不評で本編が大幅にカットされて約64分のバージョンになりました(本来のノーカット版は現存していません)。それでも一般公開されると「グロテスクだ」との理由で酷評が相次ぎ、イギリスでは上映禁止になるほど。「プレコード(Pre-Code)」の時代の作品としてここまで忌み嫌われる映画は他にそうそうありませんでした。
結局、再評価されたのは1960年代になってから…。今やアメリカ国立フィルム登録簿に保存されるくらいの名作扱いです。私もプレコード映画の中では個人的に大好きな一作でもあります。
この映画『フリークス』はもちろん障害者の表象として評されることが多いですが、クィア批評もできます。そもそも障害者の権利と性的マイノリティの権利は交差的なものというのもありますが、本作には男女二元論に当てはまらないジェンダー規範から逸脱した“フリーク”も登場するからです。
ということで、後半は『フリークス』をクィア批評していこうと思います。
『フリークス』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 障害者が差別的に扱われる場面がいくつかあります。 |
| キッズ | 障害者差別を描いているので、保護者のサポートが必要です。 |
『フリークス』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
ある場所で、シルクハットの呼び込み屋が好奇心で群がる客たちを調子よくトークで惹きつけています。そしてとっておきの“見世物”があるところに案内します。その区切られた小さなエリアを覗き込むと、ひとりの女性が思わず絶叫してしまいます。みんながザワつく中、呼び込み屋は裏にある物語を語り始めます。
フランスのカーニバルのサーカス・ショーに所属していた小人のハンスは同じく小人のフリーダと婚約していたにもかかわらず、美しい空中ブランコ乗りのクレオパトラに魅了されていました。
ショーでまさにクレオパトラが空中パフォーマンスを披露している最中です。ハンスは「彼女は今まで見た“大きい女性”の中で最も美人だ…」と惚れ惚れしており、隣のフリーダはすっかり不機嫌です。
実はクレオパトラにも狙いがありました。莫大な遺産を相続したというハンスのその資産を奪うべく、休憩中にハンスをさりげなく誘惑します。
クレオパトラには協力者もいます。同じサーカスに所属する怪力男のヘラクレスです。2人でこっそり計画を確かめ、共謀していました。ハンスと結婚してしまえば、もう用済みです。結婚パーティーの最中に飲み物に毒を盛って殺してしまおうという作戦でした。
何も知らないハンスはまんまと引っかかってしまい…。

ここから『フリークス』のネタバレありの感想本文です。
豪華な当事者キャスティング
『フリークス』は世間的にはホラー映画にジャンル分けされていますが、その中身は、シットコムのような日常の姿をコミカルに映す場面も多く、またロマンスも主軸にあります。たぶんカットされていない本来のフルバージョンにはもっとそういうシーンがあったんじゃないのかな。
“トッド・ブラウニング”監督が業界で実際に働いていた身というのもあって、本当にフリーク・ショーの裏側はこんな“のほほん”としていたのだろうなという感じの描写です。
せっかくなので、当事者としてキャスティングされた出演者を軽く紹介していきましょう。
物語の主軸となる重要なキャラクターのハンスを演じたのは、“ハリー・アールス”で、“トッド・ブラウニング”監督とは1925年の『The Unholy Three』でも一緒でした。今回の『フリークス』もこの2人の企画で始まり、“トッド・ロビンス”の短編小説『Spurs』の映画化に至りました。そのためか、映画はハンスの人生の幸福に着地します。
“ハリー・アールス”は「LP」(俗にいう小人症)で、兄弟姉妹も同じで「ドール・ファミリー」という4人組の芸名で、エンタメ業界で仕事をしていました。今作でフリーダを演じる“デイジー・アールス”も「ドール・ファミリー」の一員です。
本作には他にもLPの俳優として“アンジェロ・ロシェット”が出演しており、“アンジェロ・ロシェット”は俳優活動を続け、LP俳優の大ベテランになっていきます。
団長のマダム・テトラリニ(演じるのは“ローズ・ディオン”)とよく一緒にいて、序盤で森で楽しそうに遊んでいるのは、小頭症の人たちで(フリーク・ショーでは「ピンヘッド」や「ミッシング・リンク」と呼ばれた)、中でも“シュリッツ”は当事者として有名でした。小頭症は知的障害をともなうことが多く、“シュリッツ”もそうでしたが、本作では聞き取れないものの楽しそうに会話している姿がみられ、微笑ましいです。
また、鳥女(バード・ガール)という役名で演じているのは“エリザベス・グリーン”で、実際に「バード・ガール」の芸名で活動しており、その独特な顔つきも何かしらの遺伝的な疾患によるものだと思われますが、詳細は不明です。
当時はああいう独特の顔つきの人は「バード・ガール」の名でフリーク・ショーで仕事していることが多く、本作には他にも「クー・クー・ザ・バード・ガール」として知られる“ミニー・ウールジー”も出演しています。“ミニー・ウールジー”はセッケル症候群だと報じられています。結婚披露宴のシーンでテーブルの上に立っておどけるなど、本作でも見せ場があります。
出番は少ないですが、ガリガリに痩せた“ピーター・ロビンソン”も「骨人間」として歩いているのが見えます。
そして、下半身のない“ジョニー・エック”、両腕のない“フランシス・オコナー”、両手足のない“プリンス・ランディアン”といった面々。本作の良いところは、彼らが見世物にされる商業的瞬間ではなく、日常の姿を映しているところで、食事したり、タバコを吸ったり、リラックスしている光景がそこにあります。
この中でもアイドル的に当時話題だったのは“デイジー・ヒルトン”と“ヴァイオレット・ヒルトン”の姉妹で、結合双生児です。3歳のときからツアーしていたそうで、脚光を浴びていましたが、年齢とともにショービジネスでの人気は衰え、1952年に主演映画『Chained for Life』もあったものの、影を潜め、1969年に2人とも亡くなります。2012年のドキュメンタリー映画『Bound by Flesh』でこの姉妹の人生がまとめられているようですが、私は未見です。
なお、吃音の人もいますが、彼を演じている“ロスコー・エイツ”は実際に吃音を抱えていたものの、当時は治っており、それをあえて演じて再現してみせることで持ちネタの演技にしていました。
クィア・フリーク・ショー
こんなふうに当時に「フリーク」とみなされ、その前提で仕事を得るしかなかった人たちが大勢出演している『フリークス』。ここからは男女二元論に当てはまらないジェンダー規範から逸脱した当事者をさらにピックアップします。
ひとりは、「半分男で半分女」と紹介される”ジョセフィーン・ジョセフ”。”ジョセフィーン・ジョセフ”は本当にそういうプロフィールを掲げて、フリーク・ショーで活動していました。体の左右で性別が異なり、片側は女性、もう片側は男性だと主張していました。
しかし、本当にそれが真実だったのかは怪しく、パフォーマーとしての設定にすぎないとい見方も強く、詐欺で起訴されたりもしました。
ただ、”ジョセフィーン・ジョセフ”が片側では女扱いで、もう片側では男扱いとなり、ちゃんと区別しながら接している姿は、どことなくジェンダーフルイドやバイジェンダーと重なる感じもあり、堂々としていることもあって清々しいです。
もうひとりは、髭女の“ジェーン・バーネル”(“オルガ・ロデリック”とも)。髭の生えた女性はフリーク・ショーでは定番で、その多くは多毛症だと思われます。多毛症はいろいろな背景があるのですが、その中にはインターセックスであるケースもあり、“ジェーン・バーネル”もそうだったのかもしれません。
注目してほしいのが、”ジョセフィーン・ジョセフ”は作中で他者と性的関係を持っていることを示唆する発言をしており、髭女にいたっては出産までしているということです。
繰り返しになりますが当時は優生思想が当たり前の時代で、その考えに基づけば、こうした人間は「出生してはならない」存在でした。それをあえて逆らうあたり、本作は非常に反“優生思想”の作品としてカウンターをキメまくっています。
もちろん最後の復讐も忘れてはいけません。まあ、あの復讐のやりかたはだいぶ露悪的ではありますが…。
個人的には復讐前のフリークたちの静かな視線のシーンが印象的です。今まで楽しそうにしていたのに、ここだけグっと感情が変わります。まるで自分たちに対する社会の認識を無言で批判するような目。映画として観客が観る側だったのに、ここで急にフリークたちが観る側に反転する…。フリークと呼ぼうが、障害者と呼ぼうが、そのラベルよりも、社会は自分たちを対等な人間として扱っているのか?…という問いが突き付けられるようです。
そんなフリークたちを見下し、殺しても構わない存在として(また同列に扱われることに嫌悪感がある存在として)扱ってくるクレオパトラとヘラクレス。この2人が、ジェンダー規範における女らしさと男らしさの究極の理想をその名に掲げて仕事しているのがまた皮肉ですね。要するに、これは紛れもなく「規範 vs 規範から逸脱した者たち」の構図であり、ジェンダーの要素は障害者を下等とみなす際に最も際立ちますからね。
あのクレオパトラとヘラクレスの顛末は、今でいう「ジェンダーパニック」の意趣返しとも言えるでしょう。ジェンダーの規範にしがみつく奴らほどパニックを起こして内面的に見苦しいエンディングを迎えるという…。
本作『フリークス』が当時の観客から大不評を受けたのも、やはり自分たちの無自覚な偏見が直視させられる…というのもあったんじゃないかなと思います。優生思想は障害者への優しさなんかじゃないし、同情も当事者のためにならない。そう指摘されてイラっとくるような…。
私たちのことは私たちが決め、私たちは私たちで幸せと自由を手にする…。そのために周縁化された者たちで連帯していく…。『フリークス』が映し出すその真髄は、あらゆるマイノリティの社会運動の基礎なのは間違いありません。
シネマンドレイクの個人的評価
–(未評価)
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
以上、『フリークス』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)Metro-Goldwyn-Mayer
Freaks (1932) [Japanese Review] 『フリークス』考察・評価レビュー
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