ホンマもんの芸は…映画『国宝』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2025年)
日本公開日:2025年6月6日
監督:李相日
性描写 恋愛描写
こくほう

『国宝』物語 簡単紹介
『国宝』感想(ネタバレなし)
これが”KABUKI”です
日本では「国宝級」という言葉が枕詞のようにメディアに濫用されがちですが、私は「国宝」の概念を軽視するみたいであまり好きじゃない表現です。
一方のアメリカでは「Kabuki」という言葉が意外な場で濫用されてきました。
この「Kabuki」は英語では政治的ポーズ(政治家が世論やイメージ戦略のための行動しかとらないこと)を揶揄する意味合いで使われてきたのです。なんでも1960年代に日本がアメリカでの印象回復のために歌舞伎の巡業を行っていたことに由来するらしいのですが、これまた歌舞伎の軽視でしかないですよね。
当時のアメリカ人には歌舞伎を目の前で見てもなんのことやらさっぱりわからなかったというのもあるのでしょうけど…。
でも2025年以降、もう「Kabuki」のイメージも大幅に向上しやすくなったかもしれません。なにせこの入門的な歌舞伎映画が世界の人々に観られるようになったのですから。
ということで本作『国宝』の感想です。
日本で2025年6月6日に劇場公開された『国宝』は、あれよあれよという間に、日本の実写映画では国内歴代1位の興行収入「207.8億円」を達成(以前は2003年の『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』がトップでした)。これはかなり異例の出来事で、日本では人気のフランチャイズが映画の興収を席捲するのが恒例の中、そこまで知名度があるわけでもなかった原作を映画化した、しかも3時間近い映画時間なのに…。
とは言え『国宝』自体がヒットする見込みゼロだったわけでもありません。このタイプの日本映画としては比較的珍しい高額予算で製作され、人気俳優が主演していて、何よりも日本の伝統芸能をがっつり真摯に主題にしている…。じゅうぶんヒットできるポテンシャルはありました。日本人にとっても歌舞伎の入門映画になったはず。
『国宝』がなぜこれほど特大ヒットしたのかはすでにいろいろ分析されているので、私もこれ以上は踏み込みませんけど、日本の映画製作者にとっては元気のでる現象だったことでしょう。
米アカデミー賞でメイクアップ&ヘアスタイリング賞にノミネートされたのは、完全に海外からのオリエンタリズム目線の評価なので、私はそこはちょっと「う~ん…」ですけども…(映画自体のメイク含めた歌舞伎は文句なしに良いですよ)。
アカデミー賞よりも監督の“李相日”のほうが海外の注目は高いと思います。“李相日”監督が“吉田修一”の原作小説を映画化するのは、『悪人』(2010年)、『怒り』(2016年)に続いて3度目ですが、“李相日”監督はドラマ『Pachinko パチンコ』でエピソード監督を務めるなどの経験もあり、たぶん今後は世界に活躍の場を伸ばせるクリエイターでしょうから。
これだけ日本の伝統芸能ど真ん中を描き切った『国宝』を監督したのが、在日朝鮮人ルーツの“李相日”であるということも、ひとつの象徴的な出来事だった気もします。「血筋に縛られずに表現する」というのがこの作品のテーマであるわけですし…。
これだけ話題になった映画なので私の感想も書かなくていいかと思っていましたが、記念がてらに残しておくことにします。
後半の感想ではとくにジェンダーの視点に注目しながら書いています。
『国宝』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 身体障害をトラウマ的に描くシーンがあります。 |
| キッズ | 性行為の描写があります。 |
『国宝』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
1964年の長崎、雪降る中、ある屋敷で新年会の宴会が行われていました。そこに到着したのは大阪の上方歌舞伎の名門当主である花井半二郎。
花井半二郎はこの会場の中心にいるある男に腰低く丁寧に挨拶します。その男とはヤクザ「立花組」の立花権五郎でした。隣には立花マツが座っています。
すると余興として舞踊劇「関の戸」が始まります。裏からゆっくりでてきた女の姿に、花井半二郎は注目します。誰かは知りませんが、若いながら魅惑的です。
「あんな芸妓はんが長崎におりまんねんな」と感想を漏らすと、立花権五郎はあれは自分の息子の喜久雄だと言い、驚きます。15歳らしいですが素人には全く見えず、驚愕します。
劇が終わり、裏の部屋で喜久雄は緊張が解け、リラックス。一緒に演じた徳次とお喋りします。徳次は背中に刺青がありますが、喜久雄は組長の息子ということで一目置かれており、周囲には何かと遠慮されがちのようです。
そのとき、急に外が騒がしくなります。敵対する組の殴り込みのようです。立花権五郎は一切逃げず、その宴席の場に残ります。
花井半二郎は喜久雄を抱え、隠れます。窓から立花権五郎が殺される瞬間を目にして…。雪積もる地面に父の体が倒れ、赤い血で染まり…。
そんな事件の後、父を失った喜久雄は背中にミミズクの刺青を入れ、心の中では復讐心を煮えたぎらせていました。幼馴染の福田春江は心配してくれますが、喜久雄の手には刃物が…。
1年後、大阪。喜久雄は花井半二郎に引き取られ、堅気となっていました。組はもうありません。実の両親も原爆症で亡くなり、身よりはないのです。
大垣幸子に連れられ、歌舞伎の裏側へ。本場の世界をこんなに間近にみたのは初めてで、きょろきょろとしながら、好奇心を刺激されます。大垣幸子は素人なのに歌舞伎役者にさせる気なのかと不安そうです。花井半二郎は気にしておらず、自分の息子ですでに歌舞伎役者の道を歩んでいる俊介を紹介。
そして喜久雄に「東一郎」という芸名を与えます。しかし、俊介はなぜ自分は「半弥」なのに部外者で新参者のコイツのほうが立派なのかと不満顔。いずれ花井半二郎を襲名するのは俊介なのだからとその場でなだめられます。
親の仇を討ったもののの、しくじった喜久雄はもう長崎に帰れません。ここで第二の人生を始めるしかありません。
厳しい稽古が始まりますが…。

ここから『国宝』のネタバレありの感想本文です。
ジェンダーの超越は究極の到達点
世界各地の伝統的な芸術文化には、ジェンダーの境界を越えるものが多くみられ、その男性や女性といった既存のジェンダーの壁を超越することは「神聖的なもの」とみなされることも珍しくありません。なぜこうした価値観が世界中で観察されるのかはわかりませんけど、大昔からあるので、ある種の畏敬の対象だったのか…。
日本の伝統芸能のひとつである「歌舞伎」にみられる「女形」は、本作『国宝』の冒頭で軽く触れられるように、1600年代にもともと女性がやっていた歌舞伎が「風紀を乱す」という理由で幕府に禁じられ、男性がやるようになったことに由来するとされています。規制ゆえに生まれた異性装文化だったわけですが、結果、歌舞伎を象徴する存在になったのは不思議な運命ですね。
女形を主役にした日本映画と言えば、1935年からシリーズ化した『雪之丞変化』がとても有名です。『国宝』は女形映画の2025年以降の新たな顔になりました。
『国宝』はその全体的な構成からして、ジェンダーの作用を色濃く浮き彫りにさせます。とくに主人公の“吉沢亮”演じる喜久雄と、そのライバルである“横浜流星”演じる俊介の属する世界です。
2人とも同じ日本でも生まれついた世界は全く違っていました。ヤクザと歌舞伎。しかし、この2つの世界は、極端に保守的な日本社会が先鋭化したようなコミュニティであり、通じるものがあります。どちらも様式的に美化された男らしさを軸とし、階級制が絶対視されます。
喜久雄と俊介は明らかにこの歌舞伎の世界で生きがいを感じつつも傷つけられてもいきます。二代目花井半二郎の接しかたは相当に残酷です。わざわざ2人を争わせて才能を伸ばし、ときに一方を犠牲にするのですから。
一方で、この2人にとって女形を極めることは、今まさに立たされている極端に保守的な男らしさのコミュニティからの脱出でもあります。少なくとも汚点を残すことなく堂々と脱するにはそれしかありません。
その2人が崇める究極に到達した存在として作中で映し出される人間国宝の小野川万菊。この“田中泯”演じる小野川万菊は、芸の場ではないときでも女性らしい口調と振る舞いを自然にしており、あの竹野もつい「婆さん」と形容してしまうほどです。
喜久雄と俊介は『鷺娘』で主役に立つ小野川万菊を「美しいばけもん」と評し、畏敬の念を感じていました。2人のまだ若き男にとってこのジェンダーの超越こそが、最高峰の目標。
ちなみに小野川万菊のモデルになっているのは、人間国宝だった「六代目 中村歌右衛門」と思われ、実際に私生活でも女性のように振舞っていたらしいですが、あのクィアとして知られる“三島由紀夫”とも交友がありました。その“三島由紀夫”の執筆した小説『女方』の主役「佐野川万菊」がこの『国宝』の小野川万菊の名前の由来なのでしょう。『女方』自体がクィア文学の趣がありますが、『国宝』はそのエッセンスまで完全に引き出せてはいないですが、ほんのり受け継ぐくらいの感じには思えました。
男と男の契交
『国宝』の冒頭で喜久雄はそのコミュニティが有する暴力性によって居場所を失うのですが、次に行きついた歌舞伎の世界でも、まるで「抗争」のような対立に直面するハメになります。それが俊介との対峙です。
ただ、喜久雄と俊介はそんなあからさまに互いを憎悪して対立へと一直線に突き走るわけでもありません。内心では2人の間には2人しかわかりえない非常に親密な関係性(リレーションシップ)があります。本作はこの同じ界隈に身を投じてきた若い男と男の契交を、本当に3時間近く濃密に堪能できます。
別にこの喜久雄と俊介が同性愛の関係であるとは言いませんが、ゲイネスはじゅうぶんに感じられる語り口ではありました。
とくに象徴的なのは作中で「死ぬる覚悟が…」のセリフを強調する『曽根崎心中』です。ジェンダーの超越こそが2人の最高峰の目標なわけですが、『二人藤娘』、『二人道成寺』ときて、ここまでは対等な女形同士。しかし、作中では作劇上は女と男の役に分かれることになります。そもそも『曽根崎心中』は、相愛の若い男女の心中の物語であり、まるで異性愛の皮を被りつつ、内部では男同士の情愛が迸るかのようです。
実際、歌舞伎というのは女形の成立した初期から男色を想起させており、この男色の想起も一時的に禁止されたことがあるので、この視点自体はそこまで特異なものでもないです。
開幕直前に、俊介が震える喜久雄にメイクしてあげるシーンで、「今欲しいのは俊ぼんの血やわ」と欲望を吐露するあたりも、見ようによってはかなりセクシャルです(吸血鬼はホモセクシュアリティの暗示の定番ですので)。
また、1986年の場面では、俊介が戻ってきたこととは対照的に喜久雄は小さな宴会の余興でしか芸を披露できず、そこで客の男らから異性装を「気持ち悪いんだ」と嘲笑われ、暴行されることにもなります。あそこはホモフォビアとトランスフォビアの入り混じる蔑視と重なる現代的なシーンでした。
喜久雄と俊介は基本的に女性(つまり異性愛)が絡むと、人生が転落していき、男同士の絆に亀裂が生じるのも意図した構図なのかもしれません。
まあ、本作の女性キャラクター(春江、藤駒、彰子など)はややステレオタイプというか、メインの男性を物語の都合よく揺さぶる役しかないのはあれですが…。最後の綾乃の言葉といい、歌舞伎の歴史で犠牲になった女性の声の代弁だと深読みするにしても、さすがにとってつけた感じは否めないかもな、と。それでも、今回は監督の“李相日”が脚本も兼ねず、“細田守”監督作『時をかける少女』でおなじみの“奥寺佐渡子”に任せているためか、過去の“李相日”監督作よりは女性の表象はマシだったかなとも思ったけど。
ともあれ映画『国宝』は「日本、スゴイ!」というお決まりの安直なフレーズで片づけるにはもったいない作品ですし、今後も多角的に批評されて語り継がれてほしいですね。
シネマンドレイクの個人的評価
–(未評価)
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
以上、『国宝』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)吉田修一/朝日新聞出版 映画「国宝」製作委員会
Kokuho (2025) [Japanese Review] 『国宝』考察・評価レビュー
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