その期待は危うい…映画『黒衣の処女』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:ドイツ(1933年)
日本では劇場未公開
監督:フランク・ウィスパー
自死・自傷描写
こくいのしょじょ

『黒衣の処女』物語 簡単紹介
『黒衣の処女』感想(ネタバレなし)
ドイツのクィア表象は沈黙していく
1930年代はアメリカではヘイズ・コードが原因で映画におけるクィア表象が衰退していった…という話を『モロッコ』の感想でしましたが、ドイツも同様でした。ドイツの場合は、ナチスの検閲がその理由ですが…。
1933年に“アドルフ・ヒトラー”が首相となり、新政権はクィア表象を「退廃的」とみなし、抑圧しだします。
なのでこのあたりの時期からドイツ映画のクィア表象はかなり暗示的なものにとどまっています。
この映画もまさにその真っ只中に公開されました。
それが本作『黒衣の処女』。
原題は「Anna und Elisabeth」で、英題も「Anna and Elizabeth」。これは主人公となる2人の女性の名前です。
じゃあ、なんでこんな邦題なのか。確かに主人公のひとりは黒い服を身にまとっていますけど、別にそこが重要ではないですし、処女にいたっては全くの物語の論点ですらありません。
このミスマッチな邦題になっているのは、『黒衣の処女』が1931年に公開されて日本でも話題となった『制服の処女』に主演していた“ドロテア・ヴィーク”と“ヘルタ・ティーレ”の2人の女優の再共演作になっているからです。
『黒衣の処女』もレズビアン映画として分析されているので、『制服の処女』の後継作のような印象ですが、前の映画と同じような期待はしないほうがいいでしょう。
『制服の処女』は印象的なキス・シーンといい、規範に抗う若い女子たちの眼差しで満ちていましたが、『黒衣の処女』は基本的にそういうのはありませんし、控えめも控えめな描写ですから…。文句はナチスに言ってください。
でもこんな控えめな描写なのに、当時は公開後にナチスによって上映禁止となったらしいので、どれだけナチスは気に入らなかったんでしょうね…。
『黒衣の処女』を監督したのは、ドイツ人の“フランク・ウィスパー”(フランク・ヴィスバール)。この映画製作後はナチスの下でプロパガンダ映画を監督したりもしましたが、戦後はアメリカで映画を作り、キャリア後半はヨーロッパに戻りました。
ちなみに、主演の“ドロテア・ヴィーク”と“ヘルタ・ティーレ”はこの映画公開後に運命がハッキリ分かれてしまいました。
“ドロテア・ヴィーク”のほうは、ナチス側と親しくなりながら、ドイツで女優業を続け、プロパガンダ映画にもでました。
一方の“ヘルタ・ティーレ”は、国民啓蒙を担っていたナチスの“ヨーゼフ・ゲッベルス”に真っ向から反抗し、反体制的とみなされたので、1937年にドイツを離れてスイスに移りました。
国が特定の芸術表現を「この国にふさわしくない」と指差し、クリエイターや表現者を「反体制的だ!」と野次るようになると、こうなってしまう…。そんな政治と映画の関係を考えさせられる作品でもあります。
『黒衣の処女』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 自殺行為を描くシーンがあります。 |
| キッズ | 子どもにはややわかりにくいです。 |
『黒衣の処女』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
とある村。大きな屋敷に暮らす独り身のエリザベートは車椅子生活を送っていました。再び歩けるようになることを望んでいましたが、無理だろうという声が彼女の気持ちを砕きます。医師の男たちは不治の病だと言い放ち、もう諦めるように諭します。絶望して落ち込む日々です。
村の人たちもそんなエリザベートを哀れみの目でしかみておらず、屋敷で働いている者たちですら「女主人様は可哀想だ」「こんな家はもう出ていくほうがいいのでは?」と言いたい放題です。
そんな村にて、アンナという若い女性が悲しみに暮れていました。弟が亡くなったばかりなのです。死亡確認も済みました。もう弟が元気に隣にいてくれることがない…。
家に横たわる弟の亡骸の手には十字架。アンナは傍に寄り添い、天を見上げ、祈りを捧げます。これだけ愛していた家族のひとりなのに…。
そして弟の手をじっと見つめると、その指が動き出します。驚いて転んでしまうアンナ。そんなことが起きるはずはない…。
ありえない出来事に村人は驚愕。瞬く間にアンナの祈りが神に届いたという噂へと発展し、アンナを「奇蹟を起こせる聖女」として崇め始める者が現れました。アンナの信者は家にまで押しかけるほどで、玄関前でまるで教会のように歌を捧げ始めます。アンナはうんざりしていました。
村人はもう本来の教会には足を運びません。あまりにも助けてほしいとせがまれ、手を少し触れただけだったのですが、その人は「癒された」と満足して帰っていくのでした。
アンナ自身にはさっぱり理解できません。自分に特別な能力があるとはとても思えませんでした。
けれども、そんなことがあるとますます信者はアンナに陶酔します。奇蹟の実在を確信する人たちは増えていくばかりです。
その頃、完全に孤独に自暴自棄に陥っていたエリザベートは噂のアンナに頼るしかないと考えます。
そして藁にも縋る想いで、困惑するアンナを呼び寄せますが…。

ここから『黒衣の処女』のネタバレありの感想本文です。
愛を向けることと信仰すること
『黒衣の処女』は服装が黒いだけでなく、映画全体が暗く、遅いテンポのストーリーの中で、ひたすらに陰鬱で悲痛なテンションが続きます。冒頭で曲がりなりにも嬉しい出来事があっただろうに、この空気…。
この主人公であるアンナも真面目なんですよね。
「私ってスゴイ能力があるんだ! 神じゃん!」とか「ふふふ、これでバカな連中を騙して私の天下になるぞ!」とか、そういう調子に乗ったり、悪巧みとか全然しない人です。
治癒の奇蹟の目当てで「アンナ教」が本人の意図せず沸き起こってしまって、すっかり頭を抱えるアンナ。ここまでくると可哀想です。こんな町、飛び出してしまえばいいのに…。
アンチ宗教というほどではないですが、ここまでの描写となると、本作はなかなかに宗教に対してシニカルですよね。
そんな中、アンナと対峙することになるエリザベート。『黒衣の処女』におけるこの女性2人の関係性は明示的な恋愛や性愛はみえません。せいぜい至近距離で見つめ合う2人の姿が、どことなくサフィックな絵になる構図を一瞬みせる程度。
エロティシズムはないし、かといってプラトニックというわけでもない。ハッキリ言えば、一方通行な狂信的な眼差しが、エリザベートからアンナに対して向けられます。『制服の処女』のときとは、俳優の役の立場が逆転していますね。
人によっては「これのどこがレズビアンなんだ」と思うでしょうし、それも無理はないのですが、こういう「ひとりの女性が特定の女性に異様な執着をみせる」という表象は、この時代ではレズビアンのサブテキストの定番としてみなされているんですね。もちろんそれはレズビアンというセクシュアリティに対する偏見も混じってはいるのですけども、その良し悪しはさておき、こうやってレズビアンは表現されていたという事実があるわけで…。
村の他の人々もアンナに対して狂信的な眼差しを向けますが、エリザベートというキャラクターはやや年齢差がありながらも女性同士の共通項があり、演出的により接近した関係性として映し出されています。常にアンナと一緒にいたいという願望まで持ち合わせてしまっているのですから。
見方を変えるなら、恋愛(性愛)は信仰とそう変わらないとも描かれているとも受け取れなくはないかもですけど…。
治さなくてもいい
ここで感想を終えてもいいのですが、もう少し踏み込んでみることにします。
『黒衣の処女』でもうひとつ描かれているもの…というよりは、クィアネスよりもはるかにあからさまに描かれているものがあります。それが「障害」です。
作中であんなに治してほしいと頼んでくる人たちは、そこまで詳しく述べられていませんが、どれも何らかの病気、もしくは障害を抱えているようです。エリザベートの場合は、立って歩くことはできないようで、車椅子が手放せません。
つまり、エリザベートを含む村人たちは、これら障害を治してほしいと願っています。明白な完治願望があります。
一方でエリザベートについては、先ほどから書いたようにこの映画ではセクシュアリティも投影されているように思える描写になっているので、深読みするなら、クィアネスすらも完治すべきものとしてみなしているとも受け取れます。
もちろん、現在において性的指向を矯正するのは深刻な人権侵害であり、生命や健康に甚大な悪影響を与えるものなのは承知の事実ですが、それは置いておくとして…。
でも当時は同性愛も精神疾患とみなされ、「治療」の対象にされていた現実があったわけですからね。
『黒衣の処女』が描く障害に「同性愛」が暗黙のうちに内包されている可能性を論じるのもそこまで無理筋ではないと思います。
しかし、聖女として祭り上げられるアンナは治療を拒否します。この解釈で言えば、その同性愛は治せません…治す必要がありません…とでも態度で示すかのように…。
そう考えると、宗教のアイコンとして(勝手に)民に支持されたアンナが、実際には「同性愛は治せる」という保守的な宗教の主張を拒絶する象徴になっている…なんとも皮肉な立ち位置になっているんですね。
要するに、身体的な機能であれ、セクシュアリティであれ、ありのままのものを受け入れるしかない…そういう考え方を肯定しています。障害者の権利とクィアの権利、その双方に根差しているとするのは大袈裟かもですが、アンナは安易な治療を良しとはしていないのは確かです。
肝心のエリザベートはアンナに会って、半ば偶然に勢いまかせで「立って歩ける」ようになるのですが、結局のところ、それはアンナの外的な作用ではなく、自身の内的な作用にみえます。アンナの傍にいたい、置いていかないでほしい…そんな思いがエリザベートを立ち上がらせます。本人はそれを自分の力ではなく、アンナの力だと思ってしまうあたりが、愛ゆえに視野が狭くなっている感じですね。
でも、エリザベートはまた「障害」に戻ろうとする…いや、「死」にすら身を投げてしまう…。それもこれもアンナを肯定するためですが、歪んだすれ違いです。アンナを必死に肯定しようとするのではなく、自分が幸せでいればそれでいいはずなのに…。
最後はエリザベートは亡くなってしまいますが、その魂はアンナの愛を口にし、セクシュアリティの自己肯定は果たされたようにもみえます。表面上はバッドエンドですが、内面的には愛を受け入れたエンディングなのかもしれません。
シネマンドレイクの個人的評価
–(未評価)
LGBTQレプリゼンテーション評価
?(匂わせ/一瞬)
以上、『黒衣の処女』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)Terra Film アンナ・アンド・エリザベート
Anna and Elizabeth (1933) [Japanese Review] 『黒衣の処女』考察・評価レビュー
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