正義は無力なのか…映画『女は二度決断する』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:ドイツ(2017年)
日本公開日:2018年4月14日
監督:ファティ・アキン
女は二度決断する
おんなはにどけつだんする
『女は二度決断する』あらすじ
ドイツのハンブルグ。トルコ移民のヌーリと結婚したカティヤは幸せな家庭を築いていたが、ある日、白昼に起こった爆発事件で、夫と息子のロッコが犠牲になってしまう。その事件は、人種差別主義者のドイツ人によるテロである可能性が浮上するが…。
『女は二度決断する』感想(ネタバレなし)
現代社会で感じる正義の限界
とある“まとめサイト”に書かれた差別的な内容をめぐり、名誉を毀損されたとして在日朝鮮人の女性が同サイトを訴えていた裁判で、最高裁により損害賠償200万円の支払いを命じる判決が確定したというニュースが2018年12月にありました。まとめ行為は「表現行為」であり、責任をともなうとした裁判所の判断は今後の他のまとめサイトの在り方にも大きな影響を与えるものだとして注目を浴びました。
それだけ聞いて「ああ、良かった」とホッとしている人。残念なことにそうは言ってもいられません。というのもこの問題のまとめサイトは運営を続けているし、さらに支援団体が現れ、資金サポートまで始まっているのです。
このように、ヘイトをばらまく者には大金が集まり、融和を訴える者には金など雀の涙という状態。これが今の世の中です。そして、正義のために罪を問いただしたことで、相手が余計に勢いづく。こういうことが起こるのも、今の社会の動かぬ事実です。
日本だけではない、世界のこの社会構造をストレートに描いた作品として高く評価されたのが、本作『女は二度決断する』でした。
本作はドイツ映画ですが、監督の“ファティ・アキン”はトルコ系ドイツ人で、親が移民です。そのため、“ファティ・アキン”監督作はそのアイデンティティを非常に色濃く反映したものが多くなっています。『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』『消えた声が、その名を呼ぶ』と立て続けに、トルコ系移民の苦難の歴史を克明に表現してきた監督。まさにこのコミュニティの声を映画で届ける伝道者といえるでしょう。
そんな“ファティ・アキン”監督もおそらく今のヘイトが過激に渦巻く社会に考えることがあったと思います(もちろんヘイト自体は昔からありますが)。そして作り出したのがこの『女は二度決断する』であり、現代のドイツが舞台になっています。話自体はフィクションですが、2004年にケルンで起きた事件がベースになっており、監督の過去作と比べても現代人に突き刺さるパワーが強めです。
ゴールデングローブ賞では最優秀外国語映画賞に輝き、カンヌ国際映画祭では主演を演じた“ダイアン・クルーガー”に女優賞が贈られました。本作はこの“ダイアン・クルーガー”演じる主人公の女性の力だけで物語をぐいぐいと引っ張っており、凄まじい“圧”があります。意味深な「女は二度決断する」という邦題にも注目ですね。
本作の物語は、冒頭で私が書いたように「正義のために罪を問いただしたのに全然報われない」ということに対する怒りそのものです。本作の評価の高さは、つまるところ、そういう怒りを感じている人が世界中に多いことの表れだとも思います。もはや勧善懲悪なんて言葉は何の役にも立たなくなった時代。私たちは何を信じ、何を成せばいいのか。そして、映画が描くべきは何なのか。本作が最後に投げかける強烈な結末は、観た者を否が応でも考えさせる力があります。
本作はただの社会派映画ではない、別の重さのある一作。この言葉をどうしても連発してしまいますが、「いま見るべき映画」なのは確かです。
『女は二度決断する』感想(ネタバレあり)
差別の追い打ち
『女は二度決断する』は観客に情報をすべて提示せず、徐々に明かしていくので最初はかなり探り探りの鑑賞になります。
冒頭いきなり「なんだ?」と思うような賑やかなシーンから始まります。「やったな」「いいぞ」と次々と口々に祝福めいた言葉をかける男たち。明らかに場所は刑務所。出所なのか?と思いますが、なぜかその言葉を受ける屈強そうで幸せそうな男は白いスーツ。そして、奥の部屋にいくとそこには花嫁姿の女性。あ、結婚式だったのねとここでわかります。
ここで中心にいるヌーリという男を演じた“ヌーマン・アチャル”。なかなかのタフネス・ガイな見た目で、私は初めて見た俳優だったのですが、公開予定の実写版『アラジン』で悪役ジャファーの右腕となる男を演じるそうですね。
話を映画に戻します。時期はおそらく飛んで、街中にいる女性と子どもを映します。この二人こそ、先ほどのヌーリの妻のカティヤと息子のロッコであり、カティヤは自分のオフィスらしき建物で仕事しているヌーリにロッコを預けて、友人とお出かけ。
このカティヤがロッコを連れているシーンで車に轢かれそうになるのですが、この後の展開を知っていると、ここで轢かれて死なない程度の怪我で病院に行けば別の未来が…と考えてしまいますね。
とにかくカティヤが夜に帰ってくると、夫と息子のいた建物の部屋は爆発事件で跡形もなく…。警察から二人の死亡が知らされ、慟哭するカティヤ。
大切な家族を失って独りとなった妻の苦しみがここから描かれるわけですが、同時に犠牲者の夫とその家族がトルコ系であったことを理由とした差別の問題が追い打ちのようにのしかかってきます。警察さえも「どうせ移民同士の抗争でしょ?」と犠牲者の夫が麻薬の前科持ちであることを口実に舐めてかかっている状況。しかも、女性差別的な言動さえも見せる。被害者なのに責められているというやるせなさ。
そんな状況に生きる意味を無くすのも無理ありません。カティヤは風呂場で手首を切って自殺を図るも、その最中にダニーロ弁護士から電話が。カティヤの予想していたとおり、ネオナチの容疑者が捕まったとの報告。生きる意味が生まれたカティヤは立ち上がります。
“疑わしきは罰せず”の追い打ち
ここまでが第1章「家族」のパート。本作は3部構成であり、それぞれで雰囲気もガラリと変わります。そしてこの後は第2章「正義」がスタート。中身は王道な法廷劇です。
警察に捕まったエダ・メラーとアンドレ・メラーという男女は無実を主張。カティヤはダニーロ弁護士とともに法廷で戦います。
このパートで観客としては初めて第3者による情報の開示が行われるので、やっと事件や背景の全容がわかってきます。カティヤ自身はもちろん、ヌーリの前科、事件の全容、犠牲者の生々しい被害まで、克明に説明されていきます。
しかも、法律的な解釈や議論で進行していく過程もかなりリアルに描いています(私はその分野について全然詳しくないのですが)。本作の共同脚本の“ハーク・ボーム”は弁護士でもあるそうで、その点については抜かりないのでしょう。
ここで重要なのは、このパートを含む作品全体では「犯人側の動機」は一切描かれません。もちろんあのメラーという男女は事件の犯人なのは間違いなく(元になった事件を考えれば自明)、その犯行理由も人種差別的なヘイトに起因するのは察することはできますが、ここまで個人の背景が見えてこないのも特殊です。これは監督としても意図してやっていることらしく、本作はあくまでカティヤの物語であり、ドキュメンタリーチックにするつもりはないのでしょうね。
で、案の定、第1章でもすでに予感はしていましたが、警察は無能です。対する容疑者側の弁護士はなかなかのやり手。演じる“ヨハネス・クリシュ”の風貌もあって凄い気迫でカティヤ側も圧倒されます(明らかに見た目が怖そうな奴がスーツを着ているって最悪ですよね)。ギリシャの極右政党関係者もアリバイづくりに参戦して孤独な戦いを強いられます。議論のすり替えによる陽動戦術で、公の場で薬物中毒者呼ばわりされて人格さえも傷つけられてボロボロ。
それでもカティヤは毅然とした態度で挑みます。演じた“ダイアン・クルーガー”は撮影に入る前に約6ヶ月かけて30ほどの家族のテロや殺人事件の犠牲者となった人たちに話を訪ねて回ったそうで、自分でも演技なのかわからなくなったという熱演は凄まじいです。
そして、下された判決は無罪。「疑わしきは罰せず」による決定でした。
この第2章の結末は奥歯を噛みしめるしかないやるせなさをまた増長させますが、正論を隠れ蓑に逃げる差別主義者という構図は実際に起こっているので(表現の自由で差別を正当化するなど)、辛くもあり、それでも現実を直視させられて、何とも言えなくなります。
己の体の追い打ち
最後の第3章「海」。このパートは先ほどの感情ほとばしる連続展開から大きくチェンジして、とても静かな時間が流れます。
裁判で容疑者に有利な発言をしたギリシャの極右政党関係者のマクリスについて調べたカティヤは、ひとり旅立ち、彼のホテルの場所にたどり着きます。そこで呑気に優雅な隠れ生活をおくるメラー男女を発見。
カティヤは行動に出ます。息子のラジコンカーを分解し、買ってきた肥料と釘で、釘爆弾を製作。自分の大切な家族を奪ったその狂気で犯人を殺めようとします。が、思い直し、仕掛けた爆弾の入ったリュックを回収。
一度、離れてから落ち着こうとしていると、ダニーロ弁護士から電話で上告しようと持ち掛けられますが、「もうやりたくない」と弱気なカティヤ。見ている観客としては、最初はいわゆる「ビジランテ(自警団)」的な、個人の復讐劇に変わっていくのかなと思うわけです。でも、それだと普通のジャンルだよね…なんて思っていると、復讐をやめてしまうので、ああ、ここで映画は終わりかなと考えていたら…。
結局、カティヤはまた思い直したのか、メラー男女のいる車に爆弾の入ったリュックを前に背負って立ち入ります。そして、爆発、炎上…。衝撃のラストでエンディングです。
このパートはまさに邦題のとおり「女は二度決断する」を表すシークエンス。第1章の自殺を中断して法廷で闘うことを決めるシーンも“決断”ととれるので、第3章で二度の“決断”とするか、第3章を一度の“決断”として第1章と合わせて二度とするかは観客の解釈しだいです。
非常に心を揺さぶられるカティヤの行動の変化。どう考察するかは人それぞれですが、私としては章を重ねるほとにやるせなさを増していく展開で、この最終章で極致に達したのだと思います。
対比として面白いのは、第1章では死ぬのを止めて闘うことにした主人公が、第3章では闘うのを止めて死ぬことにしたという構図。その変化を示す要素としてさりげなく描かれるのは「生理」でした。事件以降、生理が止まっていたカティヤが、犯人を殺すのを止めてベンチに座っていると、生理が再開していることに気づくシーン。事件は風化するといいますが、自分でさえも無自覚に事件をどこかで過去のものにしているのか…そう思わずにはいられない体の変化。
この自分自身に許せなくなったからこそ、カティヤは自らを爆破した…そんな考えもできました。私としては最後のあの爆発は“復讐”ではなく“死”です。ヘイトを浴びせられ、膨れ上がった彼女の心が行き着いた必然の結末です。
ただ、どこか清々しいエンディングでもあります。炎上する煙を追うように青空が映り、水面に変わるシーンは、鎮魂と溜まった怒りの総量を示すような、そんな相反するものも感じました。
今の社会なら、私たちもいつ何時、“決断”しなければいけないことになるかわかりません。そのとき、あなたはどうしますか。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 76% Audience 70%
IMDb
7.1 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★
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以上、『女は二度決断する』の感想でした。
In the Fade (2017) [Japanese Review] 『女は二度決断する』考察・評価レビュー