そして映画もまた声になる…「Disney+」映画『わたしの心のなか』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2024年)
日本では劇場未公開:2024年にDisney+で配信
監督:アンバー・シーリー
わたしのこころのなか
『わたしの心のなか』物語 簡単紹介
『わたしの心のなか』感想(ネタバレなし)
脳性麻痺を映画で描く
1990年、“ダニエル・デイ=ルイス”がその前年の映画を対象としたアカデミー賞で主演男優賞を受賞しました。『マイ・レフトフット』で脳性麻痺の人物を演じたことが評価されたからでした。
脳性麻痺は脳の一部の損傷などによって生じる一群の症状のことで、何かしらの運動障害などがともなうことがありますが、人によって状態はさまざまです。乳児1000人のうち1~2人に起こるとされ、完全な治療法はありません。
英語の「Cerebral palsy」の頭文字をとって「CP」と称されることもあります。最近は「脳性麻痺スペクトラム障害」というような言い方も提案されています。
前述した主演男優賞を受賞した俳優は「そんな難しい役を見事に熱演した」ということでオスカーを獲得したわけですが、俳優業界にとって脳性麻痺は「難易度の高い演技題材」にすぎませんでした。
しかし、もうそんな考え方は時代遅れだと言い切っていいでしょう。
2024年のこのアメリカ映画は清々しく未来を切り開く一歩となりました。
それが本作『わたしの心のなか』です。原題は「Out of My Mind」。
本作は児童文学作家“シャロン・M・ドレイパー”による2010年の小説を原作としており、脳性麻痺の10代前半の少女を主人公にした青春物語となっています。主人公は車椅子生活をしており、歩くことはできないほか、手もそこまで滑らかには動きません。そして発話することもできず、コミュニケーションはもっぱら文字表を指さしている…という状況です。
そんな主人公が特別支援学級から一般の学級に移って、脳性麻痺ではない(いわゆる世間では「健常者」と呼ばれる)同年代の子と同じ空間で成長していく…というのが基本の流れです。そこでどんな困難があり、それをどう受け止め、何をもたらすのか…脳性麻痺に限らない障害者当事者の視点で「健常」な身体を尺度に作られた社会に問いを突き付けていきます。
2024年にディズニーで長編映画化され、「Disney+(ディズニープラス)」で独占配信となったのですが、やはり気になるのは誰が脳性麻痺の主人公を演じるか…です。
結果、本作の製作陣は「いや~、脳性麻痺なんて、今までにない難しい挑戦でした」と俳優が誇らしげに語ってスタスタ去っていく機会を与えませんでした。当事者を起用したからです。
映画『わたしの心のなか』で主人公に抜擢されたのは、“フィービー・レイ・テイラー”という同じく脳性麻痺の10代でした。もちろん同じ脳性麻痺とは言え、細かい身体の状態は違いますので、そのあたりは役柄に合わせて演技することになるのですが、俳優経験は無し。本作は初めての体験となります。
でも“フィービー・レイ・テイラー”がインタビューで語っていた言葉が印象的でした。
「そもそも俳優になるなんて考えたこともなかった」と…。
その言葉がまさに脳性麻痺の当事者が普段からこの「健常」な身体を尺度に作られた社会の中でどうコントロールされてしまっていたかを物語っているのですけども、本作は主題を真摯に受け止め、その社会が作為的に作っていた障害を解体してみせました。脳性麻痺の当事者が俳優をするのは普通に実現していいことなんだ、と。
もちろん簡単だったわけではなく、何よりキャスティングの際に通常の俳優リストの中に脳性麻痺の当事者なんてほぼいないので、病院や支援団体などに声をかけて、あちこちから候補を探したそうです。
そうやって見いだされた“フィービー・レイ・テイラー”。抜群にハマっており、それは脳性麻痺の当事者だったら誰でもいいわけではなく、“フィービー・レイ・テイラー”以外あり得ないなと思えるくらいの納得力のある起用だったと思います。
脳性麻痺の当事者が脳性麻痺のキャラクターを演じるのは別にこれが初というわけではなく、例えば、2019年のドラマ『スペシャル 理想の人生』などがありました。
しかし、こういう王道の青春映画のティーンエイジャーの主役という表象はまだまだ貴重です。
映画『わたしの心のなか』が特別な一作として扱われるのではなく、これが社会や業界を変えるきっかけになるといいのですけども…。
本作を監督したのは、2008年に『A Plus D』で長編映画監督デビューした“アンバー・シーリー”です。
目立たない一作ですが、ぜひ鑑賞してみてください。
本当なら、もっと車椅子ユーザーとか、それこそ脳性麻痺の当事者とか、そういう人たちにレビューしてもらいたい映画なのですが…。
『わたしの心のなか』を観る前のQ&A
A:Disney+でオリジナル映画として2024年11月22日から配信中です。
鑑賞の案内チェック
ひとり | 障害者差別的な発言の描写があります。他にも全般的に社会による障害者の抑圧が描かれます。 |
キッズ | 主題を適切に学ぶうえで親の補足がいるかもしれません。 |
『わたしの心のなか』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
2002年、メロディ・ブルックスは12歳となり、いろいろなことを考えていましたが、その頭の中の言葉は誰にも伝わりません。
なぜなら脳性麻痺で、言葉を発せないからです。コミュニケーションは単語表とアルファベット文字表を使うことでやっとこなせます。
そのうえ、普段は車椅子で生活しており、移動も制限が多いです。
メロディにはペニーという幼い妹がいて、両親のチャックとダイアンは手のかかる妹相手に忙しそうで、メロディ本人は車椅子に座ってただ佇んでいました。そういう状況が家ではほとんどなので、もっぱらお気に入りのドラマを観るくらいしかできません。
両親はペニーを連れてまずは車に乗せます。家にはメロディひとり。そのとき、近くの水槽で飼っていた金魚のオリーが水槽からぽちゃんと飛び出し、床に落ちてしまいます。このままでは死んでしまうと慌てるメロディ。でも声を上げられず、体を左右に動かすの精いっぱい。ぎこちなく手で水槽を持ち上げようとするも落とすだけでした。
父のチャックがたまたま戻ってきて、すぐに水浸しの事態に気づいて片付けます。メロディは必死に「自分のせいじゃなく、金魚が自ら飛び出したの」と伝えようとしますが、父はイライラして怒鳴るだけでした。
その父に連れられて車で学校へ。立派な校舎ではなく、隣の小さな建物に向かうのがいつものことです。そこには「H4-6」の特別支援学級。障害者の子たちが年齢に限らずそこに詰め込まれて過ごしています。
ここでメロディがやることと言えば、『神さま、わたしマーガレットです』の本を音声で聴くくらい。窓から外を眺め、運動しながら遊ぶ同年代を見つめます。
しかし、今日は知らない人が話しかけてきました。キャサリン・レイという大人です。博士課程の学生で、見学に来たようで、本の感想を語り合ってくれます。
父はメロディに見合ったもっとレベルの高い教育を求めていました。知的で学習意欲も旺盛なのでずっと特別支援学級で過ごすのはもったいない、と。けれども、先生はマニュアルどおりのプログラムを優先。一方で同席していたキャサリンには何か案があるようです。ペニーを幼稚園に送ってきた母も合流し、話はそこまでとなります。
でもキャサリンがすぐに家に来ました。特別支援学級ではなく通常学級に入れるという提案でした。
ただ、母は今の状況で落ち着くのにも苦労したと、気が乗らない様子。玄関で会話する両親の声に聴き耳をたてるメロディ。
別の日、通常学級の提案を知って、メロディは行きたいと訴えるも、その思いは届きません。父は母を説得。母はかなり不服そうではありましたが、許可されました。メロディは嬉しさを隠せません。
こうしてメロディはディミング先生のクラスに送られます。無数の好奇の目がジロっと見つめてきます。
それでも初日のメロディは授業の質問に答えてみせますが…。
私は金魚じゃない
ここから『わたしの心のなか』のネタバレありの感想本文です。
『わたしの心のなか』は表面的には青春学園モノらしい王道のジャンルです。アメリカの一定のティーンエイジャーにとってクイズ大会は晴れ舞台なんだなぁ…。
その一方で、本作はハッキリと障害者の当事者が受けている抑圧を描いてもいます。とくに脳性麻痺の当事者が普段からこの「健常」な身体を尺度に作られた社会の中でどうコントロールされてしまっているのか、そしてそれを脱するのがいかに難しいのか…ということです。まさに障害は社会が作っている…という視点ですね。
まず冒頭、主人公のメロディは家でも学校でも非常に退屈そうです。人生を持て余しています。
家では同年代の兄弟姉妹などはおらず、かなり幼い妹がいるだけ。そのため、両親はそちらに世話が付きっきりで、あまり自分にかまってくれる余裕はなくなっています。
そして学校では特別支援学級に在籍していますが、こちらもメロディに適しているとは言えない状況。メロディは学力も学習意欲もそもそもは高いのです。脳性麻痺は学習障害や知的障害をともなうこともありますが、実際は人それぞれ。にもかかわらず脳性麻痺というだけで学力は低いのだろうとみなされがちです(作中で描かれる保険会社の意味不明な知能テストとか)。メロディは友人関係はもちろん、学習面でも飢えています。もっと学びたいことがあるのに…と。
もしテストを受けてくださいと言われたのに、ペンを持つことを一切禁止されたら、「どうやって解答すればいいんだ!」とフラストレーションが溜まるのは当然だと思いますが、メロディはそれと類似の状況にあります。学力を証明する機会さえないのですが…。
メロディの置かれている状態は一種の隔離です。障害者は専用のスペースだけで過ごすほうが、きっと安全で平穏だろう…という社会の決めつけ。一見するともっともらしく聞こえるオブラートで正当化した、でも実質は束縛と同じ。
世間の本音は違います。それは作中でもボロボロとこぼれだします。担任の先生が障害者をどう扱えばいいのかもわからずにオロオロするばかりで採点すらしなかったり。校長が「この通常学級で障害者の子が過ごせる成功例ができたら、障害のある子が殺到するので困る」と言い放ったり。これらの本心が結局は全てだったというわけで…。
キャサリン・レイが懸命に取り組もうとしているのはそういう障害を生み出している社会構造の改善です。
メロディは水槽から飛び出したら死んでしまう金魚とは全然違う存在なのだ、と。
『わたしの心のなか』の物語は、メロディを中心にその社会構造の問題を扱うことに徹しているので、単に思いやりとか、優しい友人・恋人ができればいいとか、そういうフワっとした人間関係の問題にとどまっていないのが良かったです。
映画が障害者に声を与える
『わたしの心のなか』はその状況下にあるメロディが「声」を獲得することで、文字どおり声を上げ始めるプロテストでもあります。
ここで映画ではどう描くのかという問題が浮上します。小説は文字情報なので読者の想像力にお任せでしたが、映画が映像ゆえに音声情報が必要です。
そこで裏技的に起用されているのが、“ジェニファー・アニストン”。メロディがドラマ『フレンズ』が好きだからという理由で、この“ジェニファー・アニストン”の声を脳内で当てはめており、それがナレーションとして作中でそのまま“ジェニファー・アニストン”本人が喋っています。
しかし、「メディ・トーカー」という補助代替コミュニケーション(1万7000ドルもするの?)という道具の登場で、メロディの声は変化します。
なお、本作は2002年が舞台なので、技術もその当時のものです。今だったらスマホなどのネット環境をもっと駆使したツールがあるでしょうけども…。
ただ、ここで「メディ・トーカー」さえあれば平等になれました!…とはいかないところを本作は容赦なく描くというのが重要で…。ツールはあくまでツール。障害者にツールを与えることは補助になりますが、社会構造の改善には根本的に繋がらない。むしろ社会はそうやってツールを使うことを余儀なくされている当事者をみて、社会のどこに問題があるのかを気付けるか…そこにかかってきます。
作中でもクラスメイトのローズ・スペンサーが、最初はあからさまに困惑しながら接していたものの、「メディ・トーカー」を通して認識が変わっていくあたりの描写がリアルに感じました(完璧なベストフレンドじゃないところがまた正直にリアルだなと)。
「メディ・トーカー」じゃないですけど、この映画も障害者に「声」を与える役割を事実上は果たしていると思います。その声をどう観客が受け止めて、現実に活かすか。
日本では1960~1970年代にかけて「青い芝の会」による脳性麻痺当事者の障害者運動が活発に行われましたが(“原一男”監督が『さようならCP』というドキュメンタリーにまとめてもいる)、それから数十年、大きく改善されたとは言えないです。2020年の『37セカンズ』がレプリゼンテーションでは大きなインパクトがありましたが、もっと日本でも花型の青春映画のステージに立つ者がたくさん現れてもいいのでは?
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
作品ポスター・画像 (C)Disney アウト・オブ・マイ・マインド 私の心の中
以上、『わたしの心のなか』の感想でした。
Out of My Mind (2024) [Japanese Review] 『わたしの心のなか』考察・評価レビュー
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