そのひとりの記録…ドキュメンタリー映画『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2019年)
日本では劇場未公開
監督:ジニー・フィンレイ
LGBTQ差別描写
しーほーす
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』簡単紹介
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』感想(ネタバレなし)
トランスジェンダー男性が妊娠して出産する
「男性が出産する」…それは奇妙な響きかもしれません。
そう感じてしまうのは「出産する人=女性」という固定観念があるからです。一部の社会では、特定の生殖能力をもとに「男」と「女」を分けるという性別二元論が根深く、それは「女の役割を子を産むことだ」というステレオタイプなジェンダーロールを助長し、女性差別の土台にもなってきました。
なので「男性が出産する」というのはもっぱら笑い者にされるギャグか、あり得ないことを想像するSF的な世界観の中だけの話にされてきました。
しかし、急速に発達する生殖医療にともない、男性が妊娠して出産することも現実に実現が近づいてきました。案外とその未来はすぐそこかもしれません。
でも私たちの社会はそれに対応する準備が全くできていません。
実は「男性が出産する」という事象は現在すでに起こっており、それをひと足先に経験している人はその社会の「想定されなさ(周縁化)」に直面しています。
その「男性が出産する」を身をもって経験しているのが、トランスジェンダー男性です。
何かと誤解されやすいトランスジェンダーですが、その妊娠も理解されにくいことのひとつとなっています。
完全な医療処置によって性別移行を終えた人をトランスジェンダーと呼ぶのだと思っている人も少なくないですけども、そんなことはなく、2022年のアメリカの大規模調査ではホルモン療法を受けたのは56%…という結果がでていることからもわかるように(PinkNews)、トランスジェンダーの身体的状態は個人で千差万別です。なのでトランスジェンダー男性の中には子宮を持っている人も珍しくありません。
そして子宮を持つトランスジェンダー男性は妊娠がじゅうぶんに可能です。
実際に出産したトランスジェンダー男性も意外と数はいるのですが、なかなか可視化されることはなく、知られていません。
今回紹介するドキュメンタリーはそんな妊娠出産する経験をしたあるひとりのトランスジェンダー男性に密着したドキュメンタリーです。
それが本作『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』。
タイトルの「SeaHorse」はタツノオトシゴのことです。タツノオトシゴはオスが出産することで有名です。厳密には哺乳類のような妊娠出産ではなく、タツノオトシゴは魚で卵生なのですが、タツノオトシゴのオスは育児嚢という袋型の器官を持っていて、そこでメスが産みつけた卵を保持し、数日後に孵化して父親のオスから幼生が水中に放たれます。その姿がまるで出産しているみたいなので、そんなイメージになっています。
そうした背景もあって、この「seahorse」は「妊娠したトランスジェンダー男性」を指すスラングにもなっています。
本作『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』は2019年の作品で、フレディ・マコーネルというイギリス人のトランスジェンダー男性が、当時30歳で妊娠出産を決意し、その姿を追いかけ、個人の葛藤や社会的なハードルを浮き彫りにさせていくものです。
「男性が出産する」からといってセンセーショナルに煽り立てるようなことは一切せず、丁寧に寄り添いながらそのプライベートを見守るスタイルのドキュメンタリーになっています。
私の後半の感想では、このドキュメンタリーのその後や、主題に関連する補足的な話も交えて書いていますので、良かったらどうぞ。
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | ミスジェンダリングなど偏見に苦しむ姿が描かれます。 |
キッズ | 社会勉強の教材に利用できます。 |
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』予告動画
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』感想/考察(ネタバレあり)

ここから『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』のネタバレありの感想本文です。
妊娠・出産するには…
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』でスポットライトがあたるのは、フレディ・マコーネルというひとりのトランスジェンダー男性です。
フレディ・マコーネルは幼い頃から性別違和を経験していましたが、トランスジェンダーであると自覚したのは23歳と成人になってから。2010年でした。
2013年にホルモン療法を受け始め、2014年には両乳房切除手術を受けて、身体的にかなり典型的な男性に近づきました。そして2017年に法的な性別でも「男性」となりました。
ドキュメンタリー内では、そんなフレディの子ども時代に好きだった品々などを振り返りつつ、以前からのジェンダー・アイデンティティの模索の痕跡を振り返るという、わりとベタな導入があります。住んでいるケント州ディールの穏やかな沿岸沿いの景観も相まって、とても静かな味わいです。
そのフレディはどうやらかねてから「将来的に子どもを自分で産みたい」という意思があったようで、子宮摘出はしていませんでした。
しかし、ここで個人的な問題が浮上します。
普段から作中でも「Sustanon 250」の箱が映っていたように、テストステロン値を高める複合薬を注射するホルモン療法を受けているわけですが、妊娠のためにそれを一旦中止しないといけないわけです。
ここから本作で説明されていない医療的な話も補足しておくと、ホルモン療法でテストステロンを高めると生理が来なくなりますが、だからといって妊娠しないわけではありません。これはトランスジェンダー当事者も誤解していることも多々あるのですが、ホルモン療法は避妊効果は完全に期待できないことが実態からわかっています。
ただ、ホルモン療法が妊孕性にどのような影響をもたらすかという知見は不足しています。医学界でもホルモン療法を受けた後の妊娠はほぼ不可能だと以前は考えられていました(Case Rep Endocrinol.)。妊娠できると事例として判明したとしても、ではどれくらいのホルモンバランスだと安定的に妊娠(もしくは胎児を維持)できるのか…といった確実な情報は整理されていません。
なのでフレディも普段からジェンダークリニックに通っていますが、そこでも「妊娠したいのならばテストステロンのホルモン療法は一時中断しましょう」と現状の医学的知見で言える範囲のベターな助言をもらいます。
一方でそれはフレディにとっては本意ではない望まぬ「部分的なディトランジション」でもあります。「ディトランジション」というのは性別移行(トランジション)を止めることを指します。本当だったらホルモン療法を受けながら妊娠できたら良かったのですけど、そうもいかない…。
そもそも「妊娠・出産」というのはかなりの大変さで、何よりもメンタルヘルスの悪化が命取りになることが多いです。だから妊娠した人のメンタルケアが重要だと昨今も盛んに言われているわけですから。
それなのにフレディは明らかに自分のメンタルヘルスに悪影響が生じるであろう「ホルモン療法の中止」に挑まないといけない。
妊娠出産しようとする者にとってはこれ以上ないほどにハードモードな苦行に突き進むことになるんですね。
苦悩と喜びが同時に押し寄せる
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』はその通常のトランジションとは異なる新たな道に進むことになったフレディ・マコーネルの旅路に同行します。
立ちはだかるのは、ホルモン療法を止める辛さだけではありません。
当然ながら妊娠した人が通う医療機関は「産婦人科(Women’s Health Clinic)」。しかし、そこは専門医療所でありながら「女性が行く場所」という想定しかされておらず、明らかに見た目が男性のフレディにとっては非常に居心地が悪いです。加えて、そこで配布されるような“妊婦”向けの資料はすべてが「妊娠した人=女性」という前提でしか作られていません。
事実上のミスジェンダリングになる資料の語句を適切な代名詞やジェンダーニュートラルな表現に自分で逐一修正しながら、なんとか自分のアイデンティティを保ち、それでいて妊娠と出産という難行に臨む過程は険しい悪路です。
母親(あと愛犬)の支えがなければきっと挫折していたかもしれない…。あまりに支援の乏しい現実が本作には映し出されていました。
しかしながら、何もかもが絶望ではありません。何よりも「妊娠したい/出産したい」という願望も本心であり、妊娠したときの喜び、出産して赤ん坊を抱いたときの嬉しさは本物です。
本作を観ていると、「ジェンダー・アイデンティティ」というよく使い回される言葉だけでは具現化しきれないような複雑なその人独自のアイデンティティの在り方がみえる気がします。
トランス男性は男性的になれれば、トランス女性は女性的になれれば…それが肯定なのだ…という一方向的に単純化されたジェンダー・ユーフォリアはあくまで机上の空論でしかないというか…。実際の肯定感の在り方は各個人で本当に複雑ですよね。
作中でフレディが自分の心境を「エイリアンになったみたい」という言い回しで表現するのですが、まさにその複雑さがそのまま素直に口からでたみたいな発言だったな、と。
世間はフレディを矛盾した存在とみなすかもしれません。しかし、矛盾しているのはこの社会です。強引に二元論を押し通そうとするばかりで、人を型にあてはめ、そこからはみ出た存在は“いなかったこと”にする。
でもフレディのような存在は確かにいる。その否定しようのない実在性がこのドキュメンタリーの映し出す一番の価値だったと思います。
ドキュメンタリーのその後、そしてその他の物語
『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』では、フレディ・マコーネルが2018年に無事に出産する姿が映りますが、彼は2022年に2人目の子どもを産んでいます。「我が子を産んだ父」として…。
しかし、出産後にある問題が浮上しました。妊娠中はミスジェンダリングに悩まされていたのですが、出産後もそこにぶつかったのです。
というのも、フレディは法的な性別は「男性」になっているのですが、出生証明書にその子の「父親」とは記載できず、「母親」と扱われたそうです。何でもそういう慣習だからということらしいのですけど、これはイギリスのトランスジェンダーの法的地位の矛盾がハッキリ浮き彫りになったかたちですね。
それだけ「子を産む=女だ!」という世の中の固定観念が濃すぎるってことでもありますが…。家父長社会は絶対に「男が子を産んだ」という実例を書類上で認めたくないのか…。
今作のフレディは自分で「妊娠・出産したい」という意思のもと、専門家のもとで体外受精で妊娠に到りましたが、他の多くのトランスジェンダー男性もそうだとは限りません。
むしろ「妊娠するつもりは全くなく、予期せぬかたちで妊娠が発覚した」というパターンのほうが多いようです。これは前述したとおり、テストステロンのホルモン療法をしていれば妊娠しないと思い込んでしまっていることも背景にあります。
さらに命の危険に晒される体験をした人もいます。
とある32歳のトランスジェンダー男性が激しい腹痛を訴えて救急外来を受診したところ、数時間後に妊娠していることが判明した…という事件があったそうです。本人も妊娠を知りませんでした。しかも、患者は救急外来に入院した際に男性と正しく扱われたのですが、その症状は妊娠中の腹痛という緊急症例として扱われず、高血圧症と誤って診断され、それが処置の遅れに繋がってしまいました(The 19th)。
つまり、医療従事者もトランスジェンダー男性の妊娠を全然想定できていません。
周縁化というのはどの現場で起きても当事者にとっては恐ろしいことですが、生命に直結する医療の場ではことさらあってはならないことです。
トランスジェンダー男性の妊娠という事例を稀有な感動エピソードとして消費するのではなく、しっかり社会を適応させていきたいですね。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
◎(充実)
関連作品紹介
トランスジェンダーの個人に焦点をあてたドキュメンタリーの感想記事です。
・『ジェーンと家族の物語』
作品ポスター・画像 (C)GRAIN MEDIA シーホース
以上、『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』の感想でした。
SeaHorse: The Dad Who Gave Birth (2019) [Japanese Review] 『SeaHorse: The Dad Who Gave Birth』考察・評価レビュー
#伝記ドキュメンタリー #父親 #出産 #トランスジェンダー