私に何が残るのか…映画『顔を捨てた男』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2024年)
日本公開日:2025年7月11日
監督:アーロン・シンバーグ
性描写 恋愛描写
かおをすてたおとこ
『顔を捨てた男』物語 簡単紹介
『顔を捨てた男』感想(ネタバレなし)
神経線維腫症の男が語る“違い”
「Visible difference」という言葉を知っていますか?
直訳すると「目に見える違い」という意味になりますが、これだと何が何だかわかりません。
これは何らかの理由で顔や体などが「通常」と世間でみなされている状態とは違っていることを意味します(Changing Faces)。例えば、白斑、乾癬、痣、重度の火傷、口唇裂、手足の切断、生まれつき身体の形状が異なるなど…。
外見ですぐにわかってしまう「Visible difference」ゆえに、ときにその当事者が差別を受けることがあります。これもまた「ルッキズム」のいち形態です。
その「Visible difference」のひとつが「神経線維腫症」です。神経系で腫瘍が増殖する遺伝子疾患で、個人によっては顔面に大きな変化が生じることがあります(すべての神経線維腫症の人がそうなるわけではないです)。それだけ極端にひと目でわかる身体上の違いがあると、奇異の目で見られやすくなります。
今回紹介する映画は、そんな神経線維腫症の男がコンプレックスに苛まれてある行動に出てしまう心理サスペンスです。
それが本作『顔を捨てた男』。
原題は「A Different Man」で、これは前述した「Visible difference」を意識したタイトルなのだと思いますが、結構、意味を多重に込めていると推察できます。
というのも本作は、当事者が抱える苦悩、それも単純に差別の被害者としての側面だけでなく、もっと言葉に言い表しづらい複雑な心情が巧みなストーリーテリングとともに練り込まれているからです。
メタな構造があるので「んん?」とやや混乱するかもですが、人間関係を整理しつつ、当事者のコンプレックスを考えながら想像すると腑に落ちるかもしれません(とは言ってもこの当事者性に親近感を感じるどうかは人それぞれですけど)。
なんとなく“デヴィッド・リンチ”監督の手で映画化もされた『エレファント・マン』を彷彿とさせますが(あちらはプロテウス症候群という疾患の当事者を描いています)、それと比べても別格で差があります。このテーマにおける頭ひとつ飛びぬけた傑作じゃないかと個人的には思います。
『顔を捨てた男』で重要な役割を担う俳優が、“アダム・ピアソン”というイギリス人です。“アダム・ピアソン”は神経線維腫症1型の当事者であり、BBCなどで司会者の仕事をしつつ、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』で俳優としても仕事の幅を広げました。また、障害者権利活動家としても近年は活躍しています。
そして『顔を捨てた男』を監督するのが、“アーロン・シンバーグ”。2013年に『Go Down Death』で長編映画監督デビューしたのですが、2作目の『Chained for Life』(2018年)にて“アダム・ピアソン”を主演に抜擢。すっかりクリエイティブなパートナーです。
これだけ聞くと、“アダム・ピアソン”という当事者起用だからこの映画は賞賛されているのかと思ってしまうかもですけど、そう単純な話ではありません。何度も言うように、メタな話なので…。
ましてや主人公を演じるのは、“アダム・ピアソン”…ではなく“セバスチャン・スタン”なのです。近年も『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』から『サンダーボルツ*』まで多彩に映画界を走りまわっていますが、今作でも攻めた役割に進んで身を投じていますね。
物語は、神経線維腫症の男がその顔を綺麗に激変できる画期的な治療に手をつけ、だんだんと予期せぬ人生に翻弄されていく…そんなブラックユーモアもあるサスペンス・ドラマとなっています。
『顔を捨てた男』は『ANORA アノーラ』を抑えて2024年のゴッサム・インディペンデント映画賞の作品賞を受賞するなどその年の顔となる映画になりました(でも、アカデミー賞ではメイクアップ&ヘアスタイリング賞にノミネートされるにとどまり、ほぼ無視されましたけど)。
本作が語る“違い”とは何なのか。じっくり考えながら鑑賞してみてください。
『顔を捨てた男』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 身体障害者への差別的な言及の描写があります。 |
キッズ | 直接的な性行為の描写があります。 |
『顔を捨てた男』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
エドワード・レミュエルは安定した俳優のキャリアを築こうと今日も撮影セットで演技に励んでいました。監督から演技の細かい指示を受けるも、なかなか上手くいきません。そもそも大きな仕事を得ることすらできませんでした。
エドワードは神経線維腫症であり、その顔は他の人の注目を嫌でも集めてしまいます。電車の中でも視線を向けられ、街を何気なく歩いていても同じ。居心地が悪いのが日常です。
ある日、住んでいるアパートの隣の部屋に新しい人が引っ越してきます。慌ただしく荷物の搬入をしている横を通り過ぎるも、その夜、その隣人が挨拶に部屋のドアをノックして現れます。
劇作家を目指しているらしい隣人イングリッドは親切で、指の怪我を手当てしてくれます。たちまちエドワードはイングリッドに惹かれますが、親密な人間関係を築くのは苦手で、いまいち勇気はでません。母が亡くなってずっと独り暮らしであり、エドワードは他者との触れ合いに慣れていませんでしたが、なんとか互いの仕事を紹介し合ったりして、それなりのコミュニケーションはできました。
しかし、恋愛関係となるとさすがに一歩を踏み出せません。イングリッドは部屋に男を連れ込んでいる姿はたまに見かけました。もちろんエドワードのような顔の男ではありません。
イングリッドはたとえ優しく振る舞ってくれていても、やはり自分を恋愛対象とすることはあり得ない…。そう思い詰め、苛立ち、オーディションも焦りがでます。
そんなとき、最新の技術で顔を劇的に整形できるという治療方法があることを知ります。通常の物理的な整形ではありません。見違えるように顔面を世間的に「普通」とみなすレベルにまで「改善」できると知り、興味が湧きます。
これが自分の人生を変える最終手段であると信じ、思い切って試してみることにします。
効果がでるのはいつになるのかよくわかりません。
しかし、そのときは突然訪れました。
顔の皮膚がめくれていき、念願の新しい顔が現れ…。
自己嫌悪が天井から滴り落ちる

ここから『顔を捨てた男』のネタバレありの感想本文です。
『顔を捨てた男』、自己批判的というか自己嫌悪の膿をわざと潰して感情をドロっと滲みこぼれさせるような嫌~な感じの物語でした。
大雑把な設定としては、『サブスタンス』を思い出させる感じもあります。主人公は同じ俳優ですし、未知の怪しげな治療に手をだして外見を劇的に変えて別人に生まれ変わるという点も一緒。しかし、ルッキズムはルッキズムでも、アプローチと内面の心情の因果関係はまるで違います。
そもそも『顔を捨てた男』のプロットの着想として、“アーロン・シンバーグ”監督が“アダム・ピアソン”に出会ったことが大本にあるそうです。“アーロン・シンバーグ”監督は別に神経線維腫症ではないのですが、実は生まれつき口蓋裂があり、多くの当事者がそうするように外科的な治療で見た目を“治し”ました。
やはりそういう外見はコンプレックスであり、社会で生きるうえでの不安や劣等感に繋がる…という考えを前提に…。
ところが、口蓋裂よりもはるかに外見が際立っている“アダム・ピアソン”に会ってみると、彼は全くそんな後ろめたさを感じず、社交的で、あまりの堂々とした存在感に、“アーロン・シンバーグ”監督はちょっとショックを受けたようです。「自分のあの自身の外見への後ろめたさは不必要に思い込みすぎていただけなのだろうか?」と…。
もちろん外見に対してどう感じ、それどう受け止め、どう生きるかは当事者でも人それぞれ異なります。正しい在り方なんてものはないです。
でも同じ広い意味での「当事者」であっても「こんなにも向き合い方が違うのか!?」と驚くことは、「Visible difference」に限らず、さまざまなマイノリティにおいてありがちですよね。
本作『顔を捨てた男』は、外見の違いというよりは、外見に対する意識という内面の違いを浮き彫りにさせる…そういう意味での「A Different Man」なのでした。
前半はエドワードのコンプレックスがこれでもかと描かれます。
イングリッドと出会うとそれはさらに混迷し、彼の心を体現するかのように天井の染みが悪化していきます。
あの突如人生の前に現れたイングリッドは、偏見のない眼差しの持ち主なのか、それとも恋愛対象とはみていないからこそ無邪気に平等に接しているだけなのか…。
こういう際に、一部の男性は、「どうせ女は男の見た目しかみていないんだ」と“わかった気になる”心理に過度に依存することも多々見受けられますが(それこそインセル的な「真のルッキズムの被害者は男なんだ!」という考え方)、実際は男側の自己嫌悪をこじらせているだけです。
第一、「自分を恋愛対象とみてくれる=偏見がない」という図式自体が恣意的に都合よく歪められていて変ですからね(別に偏見がないけど恋愛的に惹かれない場合も普通によくあること)。
エドワードの場合、恋愛が介入することでコンプレックスが破滅的に自己崩壊していくというのは、有害な男らしさの定番でもありますが…。
これをこじらせたまま本作を眺めると「人は外見か内面か」みたいな安易な二項対立でしか分析できなくなると思います。しかし、本作の語り口はそんな二項対立に収まらず、とても実直に複雑さに向き合っていたのではないでしょうか。
当事者性のグロテスク
『顔を捨てた男』の後半は、治療によって別人になり、「ガイ・モラッツ」として生きていくことに決めたエドワードの第2人生から始まります。
一応、ビジネスとしては成功をおさめたようですが、その不動産業はどうも胡散臭そうです。
そんな中、またイングリッドと再会し、未練がましく、彼女が取り組んでいるエドワードとの出会いを基にしたオフ・ブロードウェイ劇に首を突っ込んでいくことに…。
ここで登場するオズワルドがエドワードのアイデンティティ・クライシスを引き起こします。先に述べた“アーロン・シンバーグ”監督が“アダム・ピアソン”に出会った際のショックと同一ですね。
人は自分に近しいロールモデルに出会えればエンパワーメントされると一般に言われがちですけど、「なんだアイツ、自分より恵まれてやがる!」と対抗心が芽生えてしまうと途端にややこしいことにもなる…そういうリスクもあるわけで…。
オズワルドは神経線維腫症でありながら全く恥じることなく人前で堂々としています。エドワードには絶対になかった性格です。しかも、しだいに演劇でもエドワードの役割を奪ってしまいます。まあ、イングリッドら関係者的には当事者の声を取り入れるほうが絶対に良い作品になるだろうという至極まともな姿勢なのですが…。
しかし、当のエドワードは「俺の人生を基にした作品なのに!」という私物感情がありますから、執着心があるので許せません。自分で自分を殺したことにしたくせに…。
ここでメタ的に面白いのは、エドワードを演じているのはあくまで“セバスチャン・スタン”であり、当事者ではない…ということですね。要するに、当事者でもない人が当事者性を知ったかぶって演じることのグロテスクさ…みたいなのが風刺されているとも言えます。
同時にアイデンティティというのは複雑に絡み合ったものであり、ある(気に入らない)部分を剪定したりなんて都合のいいことはできない…という現実も物語っています。
エドワードは自分が(ある意味では社会がそう思わせた)自分の汚点とみなした顔だけを捨てたつもりでしたが、自分でも想定していないほどに当事者性を丸ごと廃棄してしまったのでした。イングリッドとの繋がりも、実は自分があの顔であるからこそ成り立たせていた存在感すらも、手放してしまった…。
皮肉なことに別人になっても残ったのはあの劣等感の衝動です。だからあの顔が無くてもまたしてもコンプレックスが沸き上がってきてしまいます。
『顔を捨てた男』はそのラストといい、非常に自嘲的な幕引きですが、ここまで当事者性を遠慮なしにエグるような作品はなかなかないので、心を惹きつけられました。やはり“アダム・ピアソン”というキーパーソンが配置されているからこそ、この映画は成立しています(“アダム・ピアソン”のような当事者抜きだとこの映画みたいな構造の作品は作れませんから)。“アダム・ピアソン”がまさにオズワルドのような生き方を実行してみせているという説得力も欠かせませんし…。
私はこういう当事者性の暗部を見つめる物語もかなり好物だなとあらためて噛みしめました。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
作品ポスター・画像 (C)2023 FACES OFF RIGHTS LLC. ALL RIGHTS RESERVED. ア・ディファレント・マン
以上、『顔を捨てた男』の感想でした。
A Different Man (2024) [Japanese Review] 『顔を捨てた男』考察・評価レビュー
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