どんなカメラでも…映画『OXANA/裸の革命家・オクサナ』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:フランス・ウクライナ・ハンガリー(2024年)
日本公開日:2026年5月22日
監督:シャルレーヌ・ファヴィエ
自死・自傷描写 性描写 恋愛描写
おくさな はだかのかくめいかおくさな

『OXANA 裸の革命家・オクサナ』物語 簡単紹介
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』感想(ネタバレなし)
ウクライナ発祥の異彩を放つフェミニズム
紛争の最中である2022年2月から始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、2026年になっても収束していません。それどころか、2026年の最初の3か月は、侵攻が始まって以来、ウクライナの女性(女子児童含む)にとって最も死者数の多い冬となったとのこと(UN Women)。今のウクライナにとって女性の安全を脅かす最大の脅威のひとつは間違いなく戦争です。
そんなウクライナは実はかなり特異なフェミニスト団体の発祥の地でもあります。日本を含め世界中に多種多様なフェミニスト団体が存在し、「フェミニスト」とひとくちに言っても、その在り様はさまざまです。それでもこのウクライナ発祥の団体は際立っていました。
その団体の名前が「FEMEN(フェメン)」というのですが、この団体の活動の最大の特徴は、所属する女性たちが乳房を完全に曝け出して公の場でパフォーマンスするというもの。この「胸を丸出しにする」スタイルは、メディアの注目を集め、世界各地のフェミニズム抗議活動の場でマネされました。
この「FEMEN」が大々的に駆使した「女性の身体(裸体)を社会運動の武器にする」という手法は「Sextremism」とも呼ばれましたが、これは当然ながら物議を醸しました。興味深いのは、反フェミニズムな保守的な人たちから反発があっただけでなく、他のフェミニストの女性たちからも批判があるということで…(openDemocracy)。
まあ、今回はそんな賛否両論を整理したいわけではないので、そこはさておくとしましょう。
今回紹介する映画は、そんな団体「FEMEN」がウクライナでどう生まれ、どんな活動をしていったのかにも触れられつつ、その団体の中心にいたひとりの人物の人生をみつめていく作品です。
それがフランス・ウクライナ・ハンガリー合作の『OXANA 裸の革命家・オクサナ』。
主題になっているのは、タイトルにあるとおり、「オクサナ・シャチコ」というウクライナ人の女性で、伝記映画となっています。
物語のトーン自体は、(詳細はネタバレのために伏せますが)オクサナ・シャチコがたどる人生の顛末ゆえに、かなり暗めなのですけども、全体的には史実におおまかに沿って進んでいます。
なお、この「オクサナ」という名前自体は、ウクライナでは非常にありふれた名前です。
ドラマ『ミセス・アメリカ 時代に挑んだ女たち』など、これまでもいろいろな実在のフェミニストを取り上げた作品がありましたが、ウクライナに起源があるという時点でも他と違っています。
この『OXANA 裸の革命家・オクサナ』を監督したのは、“シャルレーヌ・ファヴィエ“(シャルレーヌ・ファビエ)というフランス人。2020年に『スラローム 少女の凍てつく心』で長編映画監督デビューしたばかりです。2023年にはテレビ映画『La Fille qu’on appelle』を手がけており、『OXANA 裸の革命家・オクサナ』は劇場公開作としては監督2作目になります。
『スラローム 少女の凍てつく心』はスポーツ界における性暴力を描き、『La Fille qu’on appelle』では行政の性暴力を描いており、フィルモグラフィーの中で常に暴力に晒される女性をテーマにしているので、『OXANA 裸の革命家・オクサナ』も“シャルレーヌ・ファヴィエ“監督にぴったりです。
主演のオクサナ役に抜擢されたのは、戦禍のウクライナの女性を起用しようとミサイル警報が鳴り響く最中にオンラインのオーディションを実行して掘り出された“アルビーナ・コルジ”。映画初主演らしいですが、素晴らしい存在感を放っています。
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』は、フェミニズム史やウクライナにおける女性をめぐる社会問題、またはプロテストとアート批評に関心がある人には強くオススメできますし、日本で初めて劇場で広くお目見えになる“シャルレーヌ・ファヴィエ“監督作を興味本位で覗いてみるだけでもいいでしょう。
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 拷問や体型を誹謗中傷するシーンがあります。また、自死を示唆する展開があります。 |
| キッズ | ヌードや性行為の描写があります。 |
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
2018年7月23日、フランスのパリ。シャワーからあがり、体を拭きながら服を身に着けるオクサナ・シャチコは、まだ暗い街をひとりで出歩きます。そして辿り着いたのはアトリエで、一心不乱に絵具で描いていきます。スマホが鳴り、集中させてくれないですが、それでも無視しながら…。学期最終日ですが、今夜は自身の初の個展の最初の日でもありました。落ち着きません。
そんな中、母とビデオ通話をします。そこで母は少し言いづらそうに、でも意を決したかのようにあることを報告してきます。離婚した、と。それを聞いてオクサナは「ママは私の誇りだよ」と優しく口にするのでした。
2002年、ウクライナの西部にあるフメリニツキーの田舎で、オクサナは家族と暮らしていました。工場の閉鎖で職を失ったアルコール依存症の父は今は飲んだくれで、その父を母は献身的に世話するのみ。正教会の家庭で、家に司祭が来ます。司祭はオクサナが描くイコン画を褒めてくれ、オクサナの描く絵を洗礼式と結婚式に使うために買ってくれますが、わずかな金額にしかなりません。司祭は両親の現状を「しょうがない」のひと言で濁します。
女性がこのウクライナの家庭や社会で置かれている現状に不満を溜めるオクサナは、社会運動に関心を持つようになりました。そして、街中での若い女性たちの集まりに参加。みんな腐敗した国家の社会には従わないと意思を示し、「結婚か売春か、その選択肢しか女にはない」と現実を指摘。オクサナたちは、ドイツの女性解放運動の先駆者であるクララ・ツェトキンやドイツの社会主義者であるアウグスト・ベーベルなどの偉人から刺激を受けていました。
けれども、こうやって路上で集まるだけでは埒が明かないです。
2008年、20歳になったオクサナは、ある日、病院の医者の不手際で女性の患者が死んでしまった事件に抗議するために、その病院の外側に仲間とともに真っ赤な血染めのようなアートを掲げてみせました。芸術を学んでいたオクサナにとってそれは革命のための道具でした。
この抗議に達成感を感じ、仲間とラダやアンナ、サシャとともに自分たちの団体を作ろうと思いつきます。その名前は「FEMEN」。インナなど仲間は増え、活動は拡大していきます。
その中で、さらに注目を高めるために、ある方法を思いつくことに…。

ここから『OXANA 裸の革命家・オクサナ』のネタバレありの感想本文です。
消えた男の代わりに
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』は、前述したとおり、全体的には史実におおまかに沿って進行します。ただし、明白に脚色されているところもあり、「オクサナ・シャチコ」を描くにあたってこの映画がとったアプローチが浮き彫りになる点でもあります。
一番にわかりやすいのは、「FEMEN」の出発と活動の動力です。映画では、屈辱に耐えてきたウクライナの若い女性たちのエネルギーが爆発するようにアクティビズムに昇華されていく過程が映し出されており、抑圧的な影のある撮り方から一転してそのパフォーマンス風景は解放感があります。このパフォーマンスの様子も実際と同じで、まあ、なにせカメラに撮られて映像資料に残っているので、再現はしやすかったのかもしれません。
一方で、“キティ・グリーン”監督が「FEMEN」を密着取材して撮った2013年のドキュメンタリー映画『Ukraine Is Not a Brothel』で指摘されている、「ヴィクトル・スヴィアツキー」という男性の存在は『OXANA 裸の革命家・オクサナ』ではまるまるカットされています。このヴィクトルは「FEMEN」の創設から活動にまでかなり影響力があった男性で、『Ukraine Is Not a Brothel』では「あれだけ女性らしさを前面に打ち出していながら、内部ではひとりの男性に依存している」という実態があるのか…という、やや批判的な眼差しも向けているのですが…。一応、このヴィクトルは2012年に「FEMEN」の活動から離れ、インナ・シェフチェンコが中心人物になった…ということに団体の立場上はなっています。
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』は、そのヴィクトルを一切描かずに、オクサナとインナの対立を強調しています。
そのせいか、オクサナとインナのすれ違いの理由が、アーティスト志向が強いオクサナに対して、インナは組織拡大へとコントロールする方向に腐心しているという二極的な描かれかたになっています。前半からインナの立場の違いが匂わされていましたけど、私は本作を観ていて、今作のインナはちょっとヴィクトルのキャラクター性まで背負わされている感じはあるなとは思いました。どうしたってこの映画ではインナの印象が悪いですよね。
あくまでオクサナが主役だからというのもありますが、本作『OXANA 裸の革命家・オクサナ』は、団体の実態をある程度脚色しているがゆえに特定の人物との対立が目立ちやすくなっていることは頭に入れながら観るといいかもしれません。
裸のプロテストの理想と現実
では『OXANA 裸の革命家・オクサナ』はオクサナ・シャチコを主役として描くにあたって、どう表現したのか。本作のオクサナ像は、早い話が「理想と現実の狭間に苛まれる儚いヒロイン」という定型をなぞっているのですが、ミステリアスさをまとわせつつ社会運動のアイコンとして神秘性を保持しています。
ちょうど作中でも2018年のオクサナが冒涜的な偶像崇拝破壊とも言えるイコン画を描いていますが、この映画がやろうとしていることはそれとは似て非なる偶像崇拝の強化なのかもしれません。一方で、オクサナのリアルな苦悩に迫っているとも解釈もできます。というよりは、オクサナはそのどちらにもなりうる曖昧な境界線の上に立っていて、本人もそこに悩んでいるような感じと言いますか…。
象徴的なのは、例の「裸」です。正確にはパフォーマンスでは「胸を曝け出す」わけですが、ただ、作中では2009年のキーウで議員の前で買春ツアーに抗議する際にオクサナが衝動的にその場でトップレスになってみせたように描かれていますが、その前から露出度の高い格好をして抗議することが多く、トップレスになってからは全裸でパフォーマンスしたこともありました。別にことさら胸ありきの抗議運動をしていたわけでもないのは、念のために注釈をつけておきます。
とにかくこの「胸をだす」というのは、作中でオクサナも言っていたように、「これは自分たちの武器であり、むしろ闘いのために服をまとっているのだ」という信念があります。
しかし、この映画ではパフォーマンス外でも裸になるシーンがいくつかあります。それは、2011年のベラルーシでKGB本部前で抗議して捕まり、野外で裸にされて酷い扱いを受ける場面や、はたまた2012年のロシアのモスクワでプーチンへの抗議で捕まって勾留される場面です。これらのオクサナにとって裸はパワフルな武器には到底ならず、逆に虐待的な現実の証にしかなりません。
こうした印象的な対比を何度か繰り返すことによって、本作は「女性の身体を最大限の可視性をもって政治の舞台で再主張する」という行為に一定の敬意を示しつつも、それはお気楽なものとはいかない残酷さもみせつけます。
世の中にはいろいろなプロテスト・アートやパフォーマンスがありますが、『OXANA 裸の革命家・オクサナ』はその主体者が女性だったときのリスクを含めた批評性をともなって物語を届けていたように思います。
最終的にオクサナは自死をしますが、その理由は映画では曖昧なままにとどめています。オクサナの胸の奥まで深入りして撮ろうとはしていないのは、この製作者なりのオクサナに対する尊重なのかな。
クパーラ祭りでエンディングを迎えるあたりは、テーマにおける程よい着地でした。
シネマンドレイクの個人的評価
–(未評価)
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
以上、『OXANA 裸の革命家・オクサナ』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)2024 – Rectangle Productions – 2.4.7. Films – Hero Squared – France 3 Cinéma – Tabor Ltd
Oxana (2024) [Japanese Review] 『OXANA 裸の革命家オクサナ』考察・評価レビュー
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