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『ROMA ローマ』感想(ネタバレ)…Netflix&アルフォンソ・キュアロンの傑作家族物語

ROMA ローマ

アルフォンソ・キュアロンの傑作家族物語…Netflix映画『ROMA ローマ』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:Roma
製作国:メキシコ・アメリカ(2018年)
日本では劇場未公開:2018年にNetflixで配信
監督:アルフォンソ・キュアロン

ROMA ローマ

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ROMA ローマ

『ROMA ローマ』あらすじ

1970年代のメキシコシティ。ローマという地区で中流階級の家庭に奉公する若い家政婦クレオは、料理、掃除、洗濯、子どもの世話とせわしなく働いていた。この家庭に尽くすことが自分の役割。そんなクレオの身にある出来事が起こる。

『ROMA ローマ』感想(ネタバレなし)

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作られるべき映画がある

インターネット上で最新映画を独占配信する「Netflix」の存在について、少し前から映画業界では賛否を巻き起こしているのは、以前から話題にしていました。「映画は劇場で公開されるべき」とするカンヌ国際映画祭が徹底してNetflix排除を掲げる一方で、ヴェネツィア国際映画祭はNetflixを許容する姿勢を見せるなど、明らかに映画業界は二分した対応を示しています。

贅沢な環境が用意されている映画館で鑑賞したほうがいいのは誰でも実感できることですが、それと「“映画の公開の在り方”をひとつに固定して他を排除していいのか」は別の話。これについて、2018年のヴェネツィア国際映画祭でコンペティション部門の審査員長をつとめ、自分の今後の新作「ピノキオ」のストップモーション・アニメ映画をNetflixで配信することを決めたギレルモ・デル・トロ監督の言葉が印象的です。

『ピノキオ』でギレルモ監督はNetflixとのコラボレーションに取り組む。その経緯について、監督は「ハリウッドの全スタジオに行きましたが、断られました。なので、誰でも“はい”と言ってくれる人と作るんです」と述べ、その「“はい”と言ってくれた人物」こそがNetflix最高経営責任者のリード・ヘイスティングスだと明かした。ギレルモ監督は、作品が劇場公開されないことよりも「作らない方が怖い」と語っている。

引用:The River

変わってきている兆しを見せているとはいえ、まだまだ既存の旧来の大手映画会社は商業的な成功を何より最優先にし、差別的な偏見も消えてはいません。そんな組織が映画という表現の世界を支配するのは危ういです。ギレルモ・デル・トロ監督は表現の弾圧の怖さを痛感しているからこそ、あの言葉が出てくるのでしょう。

そんなギレルモ・デル・トロ監督の審査員長のもと、2018年のヴェネツィア国際映画祭で最高賞となる「金獅子賞」を贈られた映画が、Netflixオリジナル作品で配信される『ROMA ローマ』です。

本作は観ればわかりますが、「これも確かにやっぱり大手のスタジオは見向きもしないだろうな」と思える映画です。1970年代のメキシコのとある家族を描いたヒューマンドラマであり、当然、地味です。史実を描く社会派な展開もないですし、有名俳優も起用していません。さらにモノクロの映像となっており、それが2時間越えのボリュームもあります。

批評家や観客からも絶賛の声があがっているとおり、映画自体はとても素晴らしいのです。でも、大手映画業界、言い換えれば、権力を持つ資本主義はこの作品に手を差し伸ばさない。その現実の中で取り残される弱者はどう生きればいいのか。

その今の映画業界へのシニカルな視点は、この『ROMA ローマ』のテーマとも重なるとも解釈でき、今の時代にこの映画が賞に輝く意味があるなと感じました。

無論、今のヘイト渦巻く世の中へのカウンターにもなっていますが、本作は露骨に説教臭く叱りつけるものではなく、あくまで優しいタッチで“生きようとする弱者”を描く映画です。『万引き家族』にも通じる疑似家族的なつながりも映し出されるので、そうした作品が好きな方はぜひ視聴してみてください。

とくに前知識も持たずに、ただこのメキシコの片隅で生きる家族と寄り添ってくれるだけでいいですから。

↓ここからネタバレが含まれます↓

『ROMA ローマ』感想(ネタバレあり)

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1970年代のメキシコを知る

本作を鑑賞する上で、前情報は何もいらないのですが、メキシコに関連する背景を知っていればさらに味わい深く楽しめるのも事実。なので、私なりに調べてみたことをつらつらと書いていきます。

『ROMA ローマ』というタイトルのとおり、本作の舞台はメキシコの首都「メキシコシティ」に位置する「ローマ(正確にはColonia Roma)」と呼ばれる地域です。この場所は、比較的富裕層も暮らす歴史のある建物が残るところであり、本作で描かれる家族も中流家庭となっています。

映画の描く時代は、1970年代。メキシコは第二次世界大戦以降、制度的革命党によって一党独裁政権となり、上手い具合に外国とも関係を築いたこともあって順調に経済成長を重ねていました。他のラテンアメリカ諸国といえば、クーデターやら軍事独裁政権やらで何かと物騒なことが多いなか、メキシコの安定感は特異。日本人ならご存知1964年の東京オリンピック。その次、1968年のオリンピック開催地がまさにメキシコシティであり、発展の栄光を堪能していたことでしょう。

しかし、経済成長しているということは、格差も生まれているということ。それは必然的に現政権に反対する人々も生み出します。ついに1980年代になるとメキシコは経済危機が深刻になります。

さらに追い打ちをかけたのが、1985年に起きたメキシコ地震。死者9500人以上を記録し、古い建物が残るメキシコシティは甚大な被害を受けます。作中の病院で軽い地震が起こるシーンはこの前触れとしてのフラグですね(あの新生児たちも未来には地震で亡くなる子もいることを匂わせる)。

そして、国内は汚職・不正・暴力にまみれていき、最終的に2000年になって政権が交代。71年間続いたメキシコの一党独裁体制は終焉を迎える…というのがすごく大まかな歴史です。

つまり、1970年代のメキシコというのは、「もう、今までどおりにはいかないのかもね。新しい時代がくるのかも…」と感じさせる転換の時期だったんですね。

本作はその変化を見せ始めたメキシコという社会で、時代に取り残され始めた「家族」を描く物語なのです。

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家族は支え合うもの

本作の主役となる家族。夫のアントニオ、妻のソフィア、4人の子どもたちのペペ、ソフィ、トリオ、パコ。そして、ソフィアの母のテレサ、さらに家政婦のクレオとアデラで構成されています。

重要なのが、言葉。本作はNetflixも相当に配慮したのか、珍しく日本語吹き替えを用意しておらず、そのままオリジナル音声だけとなっています。基本的には英語とスペイン語で会話されるわけですが、クレオとアデラの家政婦だけはミシュテカ語でやりとりするシーンが多く挿入されます(ちゃんとわかるようにわざわざ字幕で角括弧で表記されます)。つまり、クレオとアデラは先住民系だということです。あと、まさかの日本語も登場しますが…。

そして、本作はこの家族の物語ではありつつ、女性たちの視点が主軸となっており、妻のソフィアと家政婦のクレオの2者がストーリーの両輪となっています

ソフィアとクレオ、人種も貧富も全然違う二人ですが、共通点があります。それはどちらも男に捨てられたということ。ソフィアの夫は医者で序盤でカナダのケベックに向かい、以降は家族からフェードアウトしますが、実は家族を捨てて離婚状態にあることが終盤にハッキリとソフィアの口から判明します。一方のクレオはフェルミンという全裸フルチンで日本武術を披露するインパクトで観客もびっくりした、なかなかにアグレッシブな恋人がいましたが、クレオの妊娠が判明するとトンズラ。フェルミンは後に学生による反政府デモに参加している姿をクレオに目撃されます(この場面は「コーパスクリスティの虐殺」と呼ばれる実在の事件です)。

二人の女性はその男社会に切り捨てられた事実を受け止め切れずにいましたが、最後はそれを認めるしかない状況に置かれ、生きると決心します。終盤、急な破水で緊急搬送された病院で亡くなった赤ん坊の遺体を抱きかかえさせられ震えていたクレオは、ソフィアの家族と一緒に行った海で波に流されそうになった子どもたちを助けた後、「欲しくなかったの。生まれてほしくなかったの」と心情を吐露。あそこまでクレオが自分の気持ちを露わにするのは作中で初めてであり、そのクレオをひしと抱きしめ、「私たちクレオが大好きよ」と温かく抱擁するソフィアと子どもたち。

人種も貧富も違っても、支え合うという相互補助の心だけが、この時代に取り残されながら、待ち受ける変革に向き合わなければいけない弱者の唯一の武器。そんな力強さを感じさせる名シーンでした。

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家族の変化を対比で見せる撮影演出

本作は監督の“アルフォンソ・キュアロン”の自伝的な物語であり、劇中で起こることも経験に基づいているそうです。監督・脚本・製作・撮影・編集が“アルフォンソ・キュアロン”という、徹底して自身の想いを作品に込めやすい製作体制となっているため、私たちが感じる以上に、彼のメモリアルな映画になっているのでしょう。

しかし、映画自体はそこまで主観性を感じません。実際の観た印象としては結構、ひいた視点で描かれています。

本作の撮影は“アルフォンソ・キュアロン”監督が過去に『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラビティ』で手を組んだ天才“エマニュエル・ルベツキ”ではなく、自分で担当しています(当初は“エマニュエル・ルベツキ”に頼む予定みたいだったそうですが)。

それでも、“アルフォンソ・キュアロン”監督作にもあった撮影のこだわりは今作でも光っており、演出も素晴らしく、細部まで行き届いた映画であることを見れば見るほど体感できます。白黒だからといって古臭い作品ではありません。

一番、凄いのはあの家族が暮らす。日本人感覚ではずいぶん豪華そうな家に見えますが、実際は古めの家なのでしょう。この舞台が実に効果的にストーリーとシンクロしています。序盤に、家の部屋をぐるっと見渡すカメラの動きがあり、それぞれの部屋が順番に見えていきます。そして、1階に降りて電気を消していく家政婦クレオを追うようにカメラが回転し続けます。そして、映画ラストはまたこの撮影の流れと同じシーンがあります。その違いで“変化した”もしくは“変化していない”家族の姿を見せるテクニック

このシーンのように、本作は家族の変化を対比で見せる撮影演出が山盛りです。

例えば、なんとも独特な住宅構造を象徴する「廊下(通路?)」。あそこも序盤で夫の運転する車が絶妙なハンドルさばきで狭い通路にギリギリ入ってくるシーンがあります。それと呼応するように、終盤では新しい車を購入して何の苦労もなくスルッと入ってくるソフィアのシーンがつながります。このへんは無理に男社会に付き合っていた妻が自分らしさを見つけて適応していることを示すようでした。

この家が徐々に物理的に壊れていくのも印象的です。子どもの喧嘩で割れる窓や、妻が夫の車でぶつけてしまった廊下など。メキシコの時代の終わりを、あの家が体現しているようです。

そして、やはりオープニングクレジットの床に水が反射して風景が映るカットの素晴しさ。よくこれを思いついたなと思うのですが、このシーンが終盤の波に飲まれる子どもたちとそれを救おうと波にあらがうクレオのシーンと対になっているとわかった瞬間、“アルフォンソ・キュアロン”、恐るべしと思いました。時代に流されるか、抵抗するか、その選択ですね。

他にも街中を映す横移動の長回しが当時の時代をさりげなく全体的に表現したり、作中何度も映る飛行機がこの世界のさらに外があるのだけどそこへは行けない家族の孤独感を連想させたり、はたまた序盤のクレオと子どもが寝転がって「死んでみるのもいいね」というシーンのやはり取り残された家族の無力さを示唆する見せ方といい、唸らせられる演出のオンパレードでした。

家族という呪いに縛り付けられる弱者を描きつつ、その強さも提示する。メキシコを舞台にした映画ですが、全ての国の家族にも当てはまる、美しい傑作ではないでしょうか。

『ROMA ローマ』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 97% Audience 93%
IMDb
8.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 9/10 ★★★★★★★★★

作品ポスター・画像 (C)Netflix

以上、『ROMA ローマ』の感想でした。

Roma (2018) [Japanese Review] 『ROMA ローマ』考察・評価レビュー