行定勲監督はどこでも劇場にする…映画『劇場』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2020年)
日本公開日:2020年7月17日
監督:行定勲
恋愛描写
劇場
げきじょう
『劇場』あらすじ
中学からの友人と立ち上げた劇団で脚本家兼演出家を担う永田。しかし、努力も虚しく酷評され、客足も伸びず、ついに劇団員たちも永田を見放し、劇団は解散状態となってしまう。厳しい現実と理想とする演劇のはざまで悩む永田は、言いようのない孤独と戦っていた。そんなある日、永田は自分と同じスニーカーを履いている沙希を見かけ、彼女に声をかける。出会いはそこから始まる。
『劇場』感想(ネタバレなし)
劇場との付き合い方に悩む『劇場』
2020年7月になっても映画業界をどん底に叩き落しているコロナ禍。劇場の全国的な休業状態から再開に転じても、拡散拡大がまたぶり返し、客足は遠のいたままです。すでに映画館側の対策努力ではどうすることもできない状況になっているのは関係者も痛いほどわかっています。
そんな中、映画は「劇場公開を主体とする」というこれまでの常識と向き合わないといけなくなってきました。以前からこの議論はあり、それはNetflixなどの動画配信サービスが優れた映画を提供し、賞レースにも当然のように食い込むなってきたためでした。そこで「ネット配信の作品は映画と言えるのか」という論争が巻き起こりました。今、思えばあの時の論争は随分とお気楽なものでしたね。
まさか劇場が“売るための場所”として機能しなくなってしまう事態など想定外です。もしひと昔前の「ネット配信の作品は映画と言えるのか」論争時に「いや、パンデミックとかで映画館が使えないかもよ?」なんて言ったら「極論だ」とバカにされたでしょう。まさに現在はその極論の世界に生きています。
もうネット配信の作品は映画かどうかを論じている場合でもなく、作品制作者は苦渋の決断を迫られています。そして、中には劇場公開を諦めたりなど、第2、第3の道を模索するものも出現しました。
“行定勲”監督の最新作である『劇場』もその渦中で重大な判断をしました。それは劇場公開と同時にネット配信もするという選択。『劇場』は映画館でも上映されますが、同日からAmazonプライムビデオでも独占配信されることに。結果的に日本国内で「第2波か?」と騒がれるほどの感染者数増大の時期に公開となり、この選択は喜ぶべきかどうなのかはわからないですけど、観客には安心する鑑賞を届けることにはなりました。
“行定勲”監督も今回の劇場公開&ネット配信のW体制を複雑な心境で思っているのはインタビュー等を見ればわかります。ただ、世界中の人に気軽に見てもらえる機会が生まれたのは作り手としては純粋に嬉しいというのも本音のようです。確かにそうですよね。普通ではあり得ないですから。日本の作品はどうしても日本市場だけで成立しているので、こうやって海外にマーケットを広げるには地道に売り込むという労力が本来は必要です。それがコロナ禍によるシチュエーション変化で、日本映画も一本釣りされるチャンスが生まれました。鎖国気味だった日本映画業界は他の国以上にインパクトが大きいかもしれません。
それにしても『劇場』というタイトルの映画がこういう境遇になるのも、なんだか皮肉な話です。
“行定勲”監督は、2001年の『GO』が国内で高く評価され、2004年の『世界の中心で、愛をさけぶ』が興行収入85億円の特大ヒットを記録し、社会現象になりました(もう今の10代は知らないんだなぁ…)。一方で売れたからといってそのままエンタメ市場に走るわけでもなく、人間ドラマに焦点をあてたミニマムな作品にこだわり続けています。2010年の『パレード』や2016年の『ピンクとグレー』など、文学的な語り口と映像的な語り口を上手く混ぜ合わせて表現を追求する感じであり、私としては“行定勲”監督は真面目な人なんだなという印象が深いです。
最近は2017年の『ナラタージュ』や2018年の『リバーズ・エッジ』など再び男女を軸にしたドラマ性の強い映画を手がけており、この『劇場』もやはり同じく二人の男女に注力した一作。今作では演劇をテーマにしていることもあって、さらにクリエイティブ愛が入魂されているものになっています。原作は又吉直樹による長編小説です。
主演を演じるのは、最近でも『キングダム』や『ヲタクに恋は難しい』などエンタメ系の大衆作品で活躍している印象が強い“山﨑賢人”(それ自体をネタにされることも)。一見すると“行定勲”監督作品と相性が悪そうですが、今作ではこれまでのイメージを一新し、『羊と鋼の森』のときよりもさらにピュアさを除去したような、生々しいリアルな役を熱演しており、キャリアを大幅に更新したのではないでしょうか。
その“山﨑賢人”の横に並ぶのは、今や才能をあちこちで発揮して誰しもが認める若手女優となった“松岡茉優”。『勝手にふるえてろ』のような恋愛こじらせ女、『蜜蜂と遠雷』のような静かな苦悩する天才、『ひとよ』のような社会の理不尽に耐える底辺…いろいろなタイプを器用にこなせるのが強みですが、この『劇場』ではどういうキャラなのか。そこは物語上の大事な部分なのでとりあえず今はこれ以上言及しないでおきます。
他にも“寛一郎”や“伊藤沙莉”など主役陣の物語にときおり入り込んでくる登場人物を演じる俳優の皆さんもみんな良い味を出している人ばかりです。
2時間超えの映画時間で基本的には地味ですが、役者の名演で引っ張り続けるだけのパワーがありますし、最後まで観て初めてわかる物語の解放感も待ってます。
このご時勢では映画館で見づらいかもしれませんが、そのときはAmazonプライムビデオの方でもいいので鑑賞してみてください。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(監督&俳優ファンは必見) |
友人 | ◯(演劇好きも楽しめる) |
恋人 | ◯(恋愛模様もたっぷりと) |
キッズ | △(大人のドラマです) |
『劇場』感想(ネタバレあり)
「いつまでもつだろうか」
人が行き交う街で座り込む男。若い年齢ですが、その恰好はどこかみすぼらしく、髪はだらしなくボサボサに伸びています。その男はとぼとぼと歩きだし、ショーウィンドウのガラスに映った自分を見つめました。見返しているのは情けない男です。
そのガラスの奥に目をやると、画廊の絵がありました。おもむろにじ~っと見つめていると、そこを通りかかった若い女性が何をしているのか?と怪訝な感じで近づき、様子を伺います。その存在に気づいた男でしたが、女性は気まずくなったのか会釈して通り過ぎました。
しかし、男は女についていきます。駆け足になる女性に追いつき、何をするのかと思えばこう切り出しました。「靴、同じですね…」
女性は「違いますよ」とすぐに否定。「いや、同じですよ」…そして男は「明日、遊べます?」となぜか聞いてきて「知らない人なので」と女性が困惑するも「僕もうおカネがないので」とよくわからない調子で言葉を続けます。
結局この奇妙な出会いをした二人、永田と沙希は喫茶店で軽く時間を過ごすことに。沙希は青森出身で、女優を目指して上京してきたそうで、今は服飾の学校に通っているようです。永田は自分は芝居の本を書いていると紹介、「無名の劇団なんですけど」とボソリと呟きました。
永田が演劇に興味を持ったのは高校時代。何をするにもつまらないと感じていた永田は学校で野原という男子に出会い、「一番強い芸術のジャンルは?」と聞かれました。そして触発されて創作意欲が芽生えたことで、シナリオを書いては野原に見せて感想をもらうようになっていきます。そんな中、小劇団を見に行ったときのこと。衝撃を受け、何もかもが新鮮な体験に背中を押されます。上京後に「おろか」という自分の劇団を野原と一緒に旗揚げ。けれども公演するたびに酷評コメントが相次ぎ、今のような切羽詰まった状況にある…という経緯です。
もちろんその話は目の前にいる沙希にはできず、「あそこにある酒で誰が一番強いと思いますか」なんていうとりとめのない会話をするのみ。しかし、不思議と話が合い、互いに和やかなひと時を楽しめました。
夜、駅で別れた後、永田は思います。「朝まではもちそうだ」
連絡先を交換したけれど沙希に電話をかける理由もなく、以降は過ごす日々。一方で、劇団は完全に暗礁に乗り上げていました。飲み屋で集まるとメンバーからは「永田さんは前衛を履き違えていると思うんです」と辛辣に言われ、それでも永田は強気な態度を崩さず、女性団員の青山に暴言を吐くぞと脅すことまでします。こうして劇団は壊滅状態となりました。
孤独になった永田は沙希に勇気を振り絞ってメールします。家具を見に行くという名目で誘うと返ってきた内容は「ごめん!全然暇なんだけど」という文章。断られたと思い、別れのメールを送りますが、すぐに「違うよ、ぜひってことだよ」と帰ってきて、思わずガッツポーズ。
永田は沙希と一緒にぶらぶら過ごします。沙希はいろいろと男に声をかけられますが、人嫌いな永田はいつもその場合には離れていました。それでも二人でいる時間は安らぎます。「沙希は理想的な速度で歩いてくれた」…そう感じた永田は傍からはそう見えませんが笑っていました。
生活苦になってきた永田は沙希の家に転がり込むことになります。沙希は感情に従順で、自分がボケをすれば素直に笑い、プレゼントをすればびっくりするくらいに大泣きする。その沙希に永田は甘えきっていき、家賃を支払わず自分の好きなものだけを買って、後ろめたくはあったが我慢しようとは思いませんでした。
「ここが一番安全な場所」…その感覚だけで寄り添うように。それはいつまでも不変ではなく…。
卑劣さを体現する山崎賢人
『劇場』は役者の演技が何よりも見どころです。とくに主役の二人だけでこうもたっぷりと濃厚に展開できるのは、やはり俳優としての実力あってこそ。
主人公である永田を演じた“山﨑賢人”は、前述したとおり、これまでの正当派な主人公属性を大きく逸脱する、簡単に言ってしまえばダメ人間役。それを見事に体現する佇まいを見せており、本作はこの“山﨑賢人”を観るための映画と言っても過言ではないのではないでしょうか。
冒頭で登場するシーンのみすぼらしさは一瞬ホームレスにも見えなくもないほどで、髪は無造作に伸び切り、髭を不格好に伸ばし、覇気がありません。でも“山﨑賢人”は佇まいがまずもとから良いので、それだけでも全然絵になるんですね。
で、見た目だけでなく、言動もダメさ全開であり、例えば同じ劇団の仲間に投げかける酷い言葉とか、関係者の飲み会に誘われて年配の人に言い放つ言葉とか、はたまた自分が感動してしまった劇団「まだ死んでないよ」を手がける同い年の小峰に対するプライドからの「なんて名前でしたっけ」発言とか…。嫌われるのも無理はない人間性です。
彼にも彼らしい事情があるのかなと思って観ていましたが、そこにあるのは自己中心的な意地のみ。本作における永田は「創作者」という者が抱える“卑劣さ”そのものが人間の姿になって街を徘徊しているようなものです。なんかあれですね、原作者は意識しているのかわからないですけど、「太宰治」的な日本が古くから抱くダメな男性創作者の偶像ってことでしょうか。
まあ、あれだけルックスがいいならば、もう少しあの劇団も人気でそうですし、そもそも沙希ではなく永田がスカウトされないのは変だろうと思わなくもないですが…。
上手すぎてミスマッチな松岡茉優
そしてもうひとりの主役である沙希を演じた“松岡茉優”。彼女も文句のつけようがない素晴らしさなのは言うまでもないですよ。ただ、本作の映画化において一番この沙希の描写がネックだなとは思うのです。
というのも本作の物語ではあくまで永田の主観視点であり、沙希というキャラクターは永田のような人間を支えるある種の「アイコン」に過ぎません。だからちょっとリアリティから外れた立ち位置にいて、小説ならば各読者が自分の中で想像して作り上げることで初めて完成する人物だと私は思います。つまり、読者ごとに「私の沙希」がいるはずです。
しかし、この映画版だと沙希の存在感が完全に固定化してしまったうえで、さらに“松岡茉優”の完璧な演技で一切の不明瞭さもなく表現されているので、なんだか原作にあったであろう抽象的キャラクター性は減退したかな、と。
要するに“松岡茉優”が上手すぎるので逆にミスマッチな気さえしてきます。作中では沙希は序盤はかなり従順な表面しか見えない存在ですが、そこからガラッと変わっていき、中身がこぼれるようになっていきます。このキャラクターの感情の波の見せ方はさすが“松岡茉優”!と拍手したくなるくらい圧倒されます。絶妙なバランスで着地させている演技の力加減とか、本当に凄いです。
ただ、やっぱりここは個人個人で納得度は違うでしょうね。沙希を「自分の理想のカノジョ!」なんて気楽に言える人は全然気にもしないでしょうけど、そうじゃない場合はこの沙希の具現化は納得いかないことも多いはずです。
男性ナルシシズムから飛躍してほしかった
そんな中、私が『劇場』で最も不満なのはラストに至るまでの物語の収束のさせ方です。
本作のエンディングは永田と沙希の部屋での語り合いがそのまま舞台に変貌し、実は永田の演劇で、本物の沙希は客席でそれを観ている…という劇中劇スタイルで終わります。これ自体は割とよくありがちなのでサプライズというほどでもないのですが、二人の演技はここでも抜群にいいので心を揺さぶられます。
しかし、私はこの結末は心苦しさを感じるものでした。もっと具体的に言えば、映画が規範どおりに進み、それを良しとしてしまう不自由さにバッドエンドのような“気まずさ”すらも感じました。
そもそも本作は永田というキャラクターを軸にした「男性ナルシシズム」の物語であり、沙希は添え物です。ヒロインですらなく、まさにラストのように傍観者でしかないです。
一応、沙希の事情も垣間見える瞬間もあり、27歳で周りも結婚しているのに自分は…と焦る心境が吐露されます。しかし、作中では役者の才能を序盤で見せた彼女が何かしらの報われる展開もなく、ただ物語からフェードアウトされる。これは沙希の視点から見ればとんでもなく残酷です。
そして永田は「男はキャリアこそ全て」という規範どおりに、最後はなぜかはわからないですけど成功を手にしています。予定調和的に。
もちろん本作を観て「これは自分の物語だ」と心揺さぶられた人もいるでしょう。でもそういう人ほど注意は必要かもしれません。
本作の物語は道を違えた男女の別れという点では『ラ・ラ・ランド』や『マリッジ・ストーリー』に似ていますが、結末は似て非なるものです。正反対と言ってもいい。この二作は「男はキャリアこそ全て」という規範から男主人公が脱却する話であり、女は「男」から解放される話でもあります。でも『劇場』はそうはなりません。「男性ナルシシズム」にとって都合のいい着地です。
もう男性ナルシストなんて現実で腐るほど見飽きているわけで、それを映画でも嫌になるほど見せてくれなくてもいいですし、私もうんざりです。映画というフィクションならばその現実を飛び越える飛躍を見せてほしいところ。そうじゃないとあの劇中劇も意味ないでしょう。あそこで演劇シーンに変わったときに、永田と沙希の立場が逆転していたら素直に良いストーリーになっていたのにな…と思います。
ネットを漁っていると『劇場』を観た海外の批評家が「このラストは作り手が考えるような“ほろ苦い”大団円ではない。苦いだけだ」と厳しく評価していましたが、まさにそのとおりじゃないでしょうか。きっと本作を観た海外の目は「ジェンダー平等で遅れをとっている日本らしい旧時代感覚の作品だ」くらいにしか思わないかもしれません。ましてや世界で一斉に配信されていれば、そういう印象は創作物でさらに証明としてすぐに広まってしまいます。
たぶん海外の視線はもっと厳しいですし、仮面をつけておどけても笑ってはくれないでしょう。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer –% Audience –%
IMDb
?.? / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 4/10 ★★★★
作品ポスター・画像 (C)2020「劇場」製作委員会
以上、『劇場』の感想でした。
Theatre: A Love Story (2020) [Japanese Review] 『劇場』考察・評価レビュー