ご家族は前に、ご友人は後ろに…映画『これからの私たち All Shall Be Well』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:香港(2024年)
日本公開日:2025年12月13日
監督:レイ・ヨン
LGBTQ差別描写 恋愛描写
これからのわたしたち おーるしゃるびーうぇる

『これからの私たち All Shall Be Well』物語 簡単紹介
『これからの私たち All Shall Be Well』感想(ネタバレなし)
基本的な家族の姿って誰が決めるんですか?
2025年11月28日、東京高裁は同性カップルが法律上の結婚制度から排除されていることは「合憲」と判断し、これまで違憲と判決してきた他の高裁裁判とは明らかに異なる際立って偏見の滲むものとなりました(ハフポスト)。
この東京高裁2次訴訟では裁判官は「一の夫婦とその間の子(男女カップルとその子ども)の結合体」こそが基本的な家族の姿であると繰り返すばかりで、男女の生殖の役割を盾にし、規範の外にいる当事者の排除を正当化しました。
残念な結果ですが、これは当事者が日々受けている差別そのものです(それを司法が直接行ってきたのが酷いのですが…)。
「結婚できなくても、幸せならいいんじゃない?」と何度よく理解もしていない人に言われてきたことか…。でも当たり前に結婚の選択肢が用意されている異性愛者の人たちは自覚していないかもですが、「結婚」はただの記念的なイベントか何かではありません。制度上の結婚は法的な契約であり、あらゆる法律に関わり、それは個人の生活の全てに影響してきます。
今回紹介する映画は、そんな同性同士で結婚できないことがいかに決定的な制度的困難を生み、それが不平等に直結するかを、当事者目線で生々しく描いた作品です。
それが本作『これからの私たち All Shall Be Well』。
本作は香港の映画で、香港で暮らす60代の女性カップルが主人公となっています。
香港では現時点で日本と同様に同性婚は法的に認められていません。香港は中華人民共和国の特別行政区という扱いであり、現在は中国の影響力が非常に大きく、また少し前まではイギリスの植民地でした(日本が占領していた時期もありましたが)。中国政府は今も反LGBTQの姿勢が露骨ですし、イギリスも当時は迫害がまかりとおっていました。香港では1991年に男性同士の性行為がやっと非犯罪化されましたが、2025年は結婚ではない代わりの同性パートナーシップ法案すらも否決される始末です。
そんな香港で事実上「ふうふ」として生きる60代の女性カップル。しかし、片方が突然亡くなってしまい、残されたほうはただでさえ最愛の人を失った悲しみで苦しいのに、そのうえに法制度という壁に直面します。
『これからの私たち All Shall Be Well』は、60代のレズビアンを主役にするだけでも希少な作品ですが、それに加えて社会的制度上の困難を真正面から映し出しており、約90分の短いボリュームに当事者の今のリアルが詰まっています。
『これからの私たち All Shall Be Well』を手がけたのは、2006年にロンドンで暮らすアジア系のゲイを描いた『Cut Sleeve Boys』で長編映画監督デビューし、2015年にはニューヨークでキャリアを得ようとするアジア系のゲイのファッションスタイリストを描く『Front Cover』を監督した“レイ・ヨン”。香港出身で、ずっと海外で創作してきましたが、2010年代後半から香港に戻って、そこに生きる性的マイノリティ当事者に寄り添った作品を作り始めている監督です。2019年には晩年に惹かれ合うゲイ・カップルを描いた『ソク・ソク』を監督しています。
ずっと制度上の偏見が突き付けられるので、観ていて心苦しい映画ではあるのですが、これが現実。日本であんな判決があったばかりなので、余計にこの現実をどれだけ多くの人に知ってもらう必要があるかということの重要性を痛感します。
あの東京高裁2次訴訟の裁判長も『これからの私たち All Shall Be Well』を観てほしいくらいです。鑑賞してもなお司法の正義を喚起されることも何もないなら、う~んという感じですが…。
『これからの私たち All Shall Be Well』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 同性愛への偏見が滲むシーンやセリフが多いです。 |
| キッズ | 子どもでも観れますが、背景の説明は必要かもしれません。 |
『これからの私たち All Shall Be Well』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
60代のアンジーとパット。アンジーは穏やかな性格で肩より少し伸びた髪。一方のパットは四角の大きめの眼鏡をかけ、髪は短めです。この2人の女性は長年連れ添ったカップルでした。
しかし、この香港では同性同士の結婚ができません。よって2人は法的に婚姻関係にはありません。
それでも同じマンションの家で暮らし、机を囲み、食事をとり、常に共に過ごしてきました。比較的広い家で落ち着いた生活を送っており、いざこざも無し。すっかり信頼し合っています。外に椎茸や生麦などなんてことはない食品を買い物に行く際、市場を腕を組んで寄り添い、仲睦まじさを隠しません。近所の人にも知られ、溶け込んでいます。
パットの親族が集まってみんなで丸い食卓を囲むこともあります。中秋節はこのような風景は香港では普通です。
パットの兄のシンとその妻のメイ、その夫婦の息子のヴィクターとその若い妻のキティ、子どもたちもいます。パットは事業で成功しており、それなりにおカネがあります。なのでこの親族の面倒もみてきました。面倒見がいい人柄なのです。
アンジーとパットのカップルとしての存在も特段の違和感もなく受け入れています。平和そのものでした。
ところが、その人生は一変しました。ある夜、パットが突然亡くなったのです。寝ている間の急死。何もできませんでした。
以前とは打って変わって暗い部屋で憔悴する独りのアンジー。そこにパットの親族が骨壺を何気なく持ってきます。それを無言で見つめるアンジーでした。
愛する伴侶が亡くなったのですが、アンジーは法的には結婚していないため、赤の他人として扱われます。せいぜい仲のいい友人程度の扱いです。埋葬の手配から葬儀にいたるまで、同行することはできても、決定権もなく、「家族」とは扱われません。
最愛の人を失った悲しみのみならず、この現実の孤立と排除に、アンジーはどうすることもできず…。

ここから『これからの私たち All Shall Be Well』のネタバレありの感想本文です。
整然と正当化される制度的差別
『これからの私たち All Shall Be Well』の序盤はすごく平凡な家族の姿を淡々と映しており、この生活の撮り方が“小津安二郎”監督味も感じさせます。でも“レイ・ヨン”監督はその家族の中に明白にクィアネスがあり、それを中心に捉えています。
この序盤はあまりにも理想的と言え、それこそ「愛し合っていれば結婚なんていらない」の考えを体現しているかのようです。しかし、それは「現実」を前に一瞬して潰されます。この落差は明確に意図した演出でしょう。
パットの急逝以降、本作は「温かい家族映画」から「じんわり底冷えする暗黒家族映画」へと転身します。
ここで注目したいのはパットの親族は決して露骨な差別主義者とかではないということです。パットの死後も明確に差別的な罵詈雑言は言い放つようになったわけでもなく、彼らは以前から同性愛嫌悪があって実は排除するべくこのときを待って狙っていたとかそんな陰謀めいたものでもありません。
もちろん「だからパットの親族は良い人だ」と言いたいわけでもありません。そうじゃなく、この中途半端な存在と言いますか、ほんの少しの作用で「迫害」に加担してしまう危うい立ち位置とも言える…そういうバランスの怖さみたいなものを本作は巧みに映し出していたと思います。
これこそ、とくにいかにも東アジアの社会っぽいところだなと感じます。空気を読み、波風を立てないというコミュニティの在り方。一見するとそれは平穏さを育みやすいけども、本当の意味で受容しているわけではない…。
パットの親族は「ちゃんと弔いたい」と思っています。この「ちゃんと」という言葉の中には、法律に則って厳かに進めるという意味も内包されています。しかし、その法律にはアンジーのような同性パートナーは包括されていません。ゆえに粛々と死後の「制度的行為」を行えば行うほど、アンジーは自然と排除されます。
例えば、若い世代であるヴィクターやファニーなんかは明らかに両親のような上の世代の行動がさすがに倫理的にマズイのでは当初は引っかかりを感じており、無言で違和感を示すような視線を交わしていましたが、だからといって「ちょっと待った!」と声を上げて立ち上がってくれることはありません。やはりこの死後の弔いの対応というセンシティブな場だと余計に口が重くなりますよね。そしてあれよあれよという間に、共犯関係になってしまい、そうなるともう引き返せません。
悪意ある汚らしい差別ではない…むしろ制度によって正当化された微妙な侮辱が、最も大切な尊厳を奪うという整然とした差別。こういう制度的な不平等は本当に社会に満ち溢れていますが、正当化されやすいゆえに可視化されません。これは性的マイノリティに限らず、人種差別や障害者差別でもよく見られます。
作中では、納骨堂での葬儀時の「ご家族は前に、ご友人は後ろに」のやりとりなど、その制度的な不平等をつぶさに描いており、経験したことがある人にとっては本当に嫌な記憶を呼び覚ます物語でした。
個人ができることの限界
同性婚が法制化されていない社会で生きる同性カップルが避けづらい現実…当事者さえもあまり考えたくない最悪の待ち受ける結末を物語的に突きつける『これからの私たち All Shall Be Well』。
アンジーのような立場としては本当にどうしようもないです。
パットの死後、立場の優位性が決定的に変わっているんですね。主導権は「法的な家族」にあって、「法的な家族」ではない自分にはない。愛なんて感情は法律に全然敵わないことを痛感させられます。
相手が露骨な差別主義者とかだったら(それはそれで嫌ですが)もっとスッキリしやすいと思うのです。少なくとも開き直れます。しかし、親しくて良い関係を築いていた家族だと思っていたのに、ああなってしまうとそれは心底根深く裏切られた気持ちで傷つきます。
もはや完全に追い詰められて袋小路なので、本作はこの後どう展開するのだろうとただただ眺めるしかできませんが、映画はその現実の中で今の当事者ができる「拠り所」を手繰り寄せるような繊細な手つきでゆっくり進んでいました。
まずは大切な記憶を軸にすること。アンジーは決して大声で独白するような性格でもなく、静かに生涯の伴侶だったパットとの思い出を振り返ります。2人並んで鏡台に座ってメイクやスキンケアをする姿など、本作はささやかな描写にも愛がこもっていました。
アンジーを演じた“パトラ・アウ”(區嘉雯)とパットを演じた“マギー・リー”(李琳琳)の相性も良かったですね。
そんな記憶の中には、あの「温かい家族映画」のような頃のものもあります。まるで本当はこういう社会にいつまでもなってほしいと願う気持ちを投影するようなシーンでした。
そして、やっぱりクィアな仲間たちとの連帯はとても欠かせないもので…。孤立すると身も心も無力になってしまいますからね。
あまりパットのこれまでの人生の詳細は作中では語られませんが、パットはクィアのコミュニティを作ることにもわりと精力的だったような気がします。パットがああいう葬儀を望んでいたのも、どこか心の中で死後くらいは「家」から解放されて自由になってみたいと考えていたからなのかなと想像もできたりして…。クィアの自由は遠い…。
作中でのこのクィアな仲間たちの輪の描写も自然体でホっとします。これも別の「家族」という感じですね。
『これからの私たち All Shall Be Well』を鑑賞してあらためて個人ができることの限界を感じつつ、一刻も早い制度の改善を求める気持ちが強まりました。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
○(良い)
以上、『これからの私たち All Shall Be Well』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)2023 Mise_en_Scene_filmproduction オール・シャル・ビー・ウェル
All Shall Be Well (2024) [Japanese Review] 『これからの私たち All Shall Be Well』考察・評価レビュー
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