吾輩は猫である…ドキュメンタリー映画『FAKE』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:日本(2016年)
日本公開日:2016年6月4日
監督:森達也
FAKE
ふぇいく
『FAKE』物語 簡単紹介
『FAKE』感想(ネタバレなし)
第1話
吾輩は猫である。名前はきっとある。
どこで生まれたかは忘れたが、今は薄暗い部屋で暮らしている。
そう、吾輩は人間と生活している。
ぼさっとした長髪に口ひげを生やし、サングラスをかけた、ちょっと怪しげな風貌をした人間の男が吾輩の主人だ。名前を「佐村河内 守」という。そして、吾輩と主人のほかに主人の妻がこの部屋にいる。ちなみにこの部屋が薄暗いのは主人が明るい光が苦手だからである。吾輩は暗いのは苦にならないし、むしろ明るすぎるのは性に合わないので、比較的快適に過ごせている。何しろ寝床や食べ物の心配もいらない。天国といってもよい。
とにかくこの二人が吾輩が最もよく知っている人間というものである。しかも、あとで聞くと吾輩の主人はペテン師とかいう人間の中で一番卑劣な種族であったそうだ。
どういうことかというと、まず吾輩の主人の職業を説明しなくてはなるまい。吾輩の主人は「作曲家」だ。これは「曲=音楽」をつくる人間という意味である。
そもそも「音楽」というものが何なのか吾輩にはいまいちわからない。「音」を組み合わせてひとまとまりにして(これを「メロディ」とかいうらしい)、それらをさらにつなげて「音楽」になるのだとか。この一連の作業を「作曲」と呼ぶそうだ。しかし、吾輩には「音」と「音楽」の違いが理解できない。吾輩がニャーニャー鳴くだけでは「音楽」にはならないのだろうか。謎である。
人間は「音楽」を聞いて嗜むのが良いらしく、なんと最近は「音楽」を“持ち歩いたりする”のが普通らしい。意味不明である。吾輩にしてみれば「音楽」なんてうるさいだけではないかと思う。それでも主人が「音楽」をつくってお金にすることで食べ物が手に入るので、主人には感謝している。
主人は人間のあいだでもかなり有名な「作曲家」だったらしく、「現代のベートーベン」と紹介されたりもしたそうだ。「ベートーベン」というのは昔活躍した作曲家の名前である。この前、「ベートーベン」の顔を描いた絵を見たが、主人と同じぼさっとした髪型をしていた。吾輩が考えるに「作曲家」はみなこの髪型にするルールなのだろう。
また、主人を有名にしたのは 「作曲」の才能だけではない。主人は聴覚に問題を抱えており、耳が聞こえづらかったのだ。だからなのか主人と主人の妻はよく手話というやつでコミュニケーションをしているのを見かけた。具体的には「感音性難聴」と呼ぶらしい。吾輩にしてみれば、猫は人間の数倍の聴力があるので、人間はみな聴力が低いと思うのだが。とりあえず主人は“人間の中では”聴力に問題がある人間ということである。そして、音が聞こえないのに「音楽」が作れる。だから凄いというわけである。ならばなぜ人間より聴力の高い吾輩は「音楽」が理解できないのだろうか。
ともあれ「作曲家」として充実した生活を送ってい主人の人生はある時一変した。週刊誌(人間が読む本)に『耳が聞こえないのは嘘で「作曲」もしていない』と書かれたのだ。なんでも主人ではなく「新垣 隆」という名の別の男が作曲していたというもので、ゴーストライター騒動という名称で世間の話題となった。主人は確かに「新垣 隆」という男が関わっていたことを隠していたと認め、謝罪をした。しかし、主人いわく、これまで作ってきた音楽は主人と「新垣 隆」の共作だと主張していた。
吾輩には何が真実なのかはわからない。なにせ「音楽」が理解できないのだから。それに吾輩が知っている「作曲家」はご主人と「ベートーベン」の二人しかいなかった。その乏しい知識を総動員しても、「新垣 隆」という男は「作曲家」特有のぼさっとした髪型をしていないから「作曲家」じゃないような気がするという判断をするので吾輩は精一杯であった。
この騒動以来、ご主人の仕事はなくなった。友人や知り合いもいなくなったようで、ほとんど外出もせず、寂しそうに妻と二人で暮らしていた。静かだったが、吾輩は気にならなかった。
ところが謎めいた人間の客が吾輩の暮らす部屋を訪れたのである。そいつの名前は「森 達也」という。この突然現れた男の職業は「ドキュメンタリー映画監督」だそうだ。ここに来た目的は「ドキュメンタリー映画」を撮ること。「ドキュメンタリー映画」とは「音楽」以上に難解である。吾輩のちっぽけな頭では完全に理解不能なので、説明はできない。この男は、オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』や『A2』を撮ったことで有名らしい。
今回、この珍客が作り出したのが『FAKE』というドキュメンタリー映画だ。主人はもちろん、吾輩もばっちり映っている。気になる人は映画を見てみるとよい。吾輩が想像以上に秀麗で気品あふれる猫であることに驚くはずだ。
それにしても「森 達也」という人間は吾輩にしてみれば怪しい男である。主人を題材に「ドキュメンタリー映画」とやらを撮って何か利益はあるのだろうか。毎度毎度訪ねてくるなんて物好きな人間である。
きっと吾輩の部屋を訪れるたびに出されるケーキが目当てだったに違いないと吾輩は考えている。腹が減っていたのだろう。食欲に勝るものはない。
『FAKE』感想(ネタバレあり)
第2話
「森 達也」という人間が吾輩の部屋に来てカメラをまわすようになった。最初は吾輩もかなり気になったが、主人は信頼しているようなので、警戒するのをやめた。「森 達也」という人間は、主にカメラで主人を撮るだけで他に何もしてこなかった。ときおり、主人に質問をぶつけたり、主人と一緒にタバコを吸ったりもしていた。「森 達也」という人間は本当に主人に関心があるのだろうか。まるで猫みたいな人間である。
主人はテレビを見ている。そこには主人が映っている。内容は吾輩にはよくわからないが、どうやら主人を小馬鹿にする感じのものらしい。また、主人いわくどんどん誤解が拡大しているそうだ。主人は薄暗い部屋の中で、自分の知らない自分が創られていく過程を黙って見ているだけであった。吾輩にとって主人は変わっていない。いつもどおり時々吾輩の頭を撫でてくれるし、食事の最初に豆乳をごくごく飲む。でも主人は変わってしまったのだ。
確かに身近に危険が迫ることもあった。主人の家の外では消火器が移動させられる嫌がらせ的行為を受けた。しかし、まだ吾輩には危害がないのが幸いである。万が一、吾輩の食べ物が奪われることになれば、吾輩は容赦しない。
主人は、これは自分への復讐だと考えているようだ。主人に騙されたテレビ局や世間の仕返しというわけだ。確かにテレビ局はこれまで「作曲家」としての主人の才能を褒め称える内容の番組をたくさん製作していた。無論、復讐であることを示す証拠は何一つない。ただそうでも考えないかぎり主人は耐えられないくらい苦しんでいるようである。
テレビ番組を製作している人たちが吾輩の部屋に来訪してきた。なんでも主人にテレビ番組に出演してほしいそうだ。これまで謝罪会見以降、沈黙してきた主人が世間に発言するチャンスだと、テレビ番組制作者は言った。それにこの企画しているテレビ番組は司会者が芸人だが、主人を笑って馬鹿にするものではないとも約束してきた。主人は悩んだ。結局、このバラエティ番組には出ないことにした。
後日、例のテレビ番組が放映された。内容はいつもの主人を小馬鹿にするものだった。
「森 達也」という人間は主人にこんなことを言った。
「テレビ番組制作者には信念がない。彼らは手にある素材で面白くすることしか考えていない。あなたが出演していれば番組の内容は変わっていたかもしれない」
そのテレビ番組には主人の代わりなのかあの「新垣 隆」という男が出演していた。この男は、主人の失墜以降、メディアへの露出が増えていた。吾輩にはとても「作曲家」には見えない仕事もしていた。騒動によって主人は世間的に「作曲家」ではなくなったが、「新垣 隆」も「作曲家」ではなくなったようにも見える。この男は今、幸せなのだろうか。
第3話
決して多くはないが主人の部屋には人が訪れ、問答を繰り返していた。そのやりとりは3つの疑問にまとめられる。
その一、主人の聴覚に障がいはあるのか。
その二、主人と「新垣 隆」はどういう関係性だったのか。
その三、主人は作曲ができるのか。
吾輩が気になったのは人間は真実か嘘かにやたらとこだわるということだ。そのくせ、人間はテレビや雑誌というものがやけに好きで、その情報を信じて、自分自身で確かめようとしない。不思議である。吾輩は真実か嘘かなんて気にしたことはないし、真偽など求めさまよっても無駄骨であると考えている。だから目の前にある事実だけで生きている。
その一、主人の聴覚に障がいはあるのかという問い。これに主人は診断書でもって答えようとしているようだ。しかし、これもまた人間による判断にすぎない。紙切れだ。ここまでして聴覚に固執する理由が吾輩にはわからない。前にも言ったが、吾輩は人間より聴覚に優れている。なので、吾輩にしてみれば人間はみんな聴覚障がいである。
「森 達也」という人間も言っていたが、聴覚の障がいの感覚を聴覚に障がいがない他者が共有することは不可能だ。吾輩もそう思う。
例を挙げよう。吾輩は人間の言葉を理解している。少なくとも主人の話す言葉はわかっている。しかしながら、それを証明する手立てはないし、人間と共有もできない。吾輩は人間の言葉を話せないのだし、当然だ。幸いなことに、吾輩は嘘つき呼ばわりされたことはない。「人間の言葉を理解している」と主張したこともない。どうでもよい。
その二、主人と「新垣 隆」はどういう関係性だったのかという問い。人間どうしの関係性はややこしい。主人は「新垣 隆」と一緒に仕事をしてきた。主人には「新垣 隆」という男は必要だったらしい。一方、主人いわく「新垣 隆」という人間は主人の仕事にあまり関心がなさそうだったそうだ。騒動の後は、まるでぷつりと二人をつなぐ糸が切れたように、主人と「新垣 隆」は離れていった。主人にとって「新垣 隆」という男は、友人なのか、仕事仲間なのか、外注先なのか、敵なのか…。
主人は「新垣 隆」という男がここまで“嘘”をつく理由はわからないという。しかし、主人も世間に“嘘”をついた。「森 達也」という人間は主人が妻に嘘をついたのはなぜなのか特に問いたかったようである。主人の妻は主人の仕事の詳細は知らなかった。主人は答えられなかった。ただひとつ言ったのは、主人の妻は「主人の妻」であり、愛しているということだけだった。
吾輩にとって他者は二つに分けられる。「餌をくれるやつ」と「餌をくれないやつ」だ。主人の妻はずっと「餌をくれるやつ」だ。「新垣 隆」とテレビ局の人間は最初は「餌をくれるやつ」だったが、今は「餌をくれないやつ」になった。それだけのことじゃないのか。難しくはない。
その三、主人は作曲ができるのかという問い。作曲という行為は吾輩にとっても謎多きことだが、それは大半の人間も同じ考えらしい。主人は主人流の方法で作曲したと発言する。証拠と呼べるかは疑問だが、曲の構想を書いた紙があった。また、紙切れだ。
「森 達也」は作曲するしかないと提案してきた。主人は作曲しなくなっていた。そもそも主人はなぜ「作曲家」になったのか。食い物のためか。人を喜ばせるためか。いづれにせよ主人は作曲したいと思っているはずである。他ならぬ自らの信念のためにだ。
主人はシンセサイザを購入した。そして、部屋にこもるようになった。
部屋からは「音」が聞こえてくる。
吾輩は生まれてはじめて「音楽」を聞いた。
「人間」というものを少し理解できた気がする。
第4話
最後に評価を先延ばしにしてきた人間がいる。「森 達也」という人間である。こいつは「餌をくれるやつ」か、「餌をくれないやつ」か。
吾輩の答えは決まっている。
ROTTEN TOMATOES
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作品ポスター・画像 (C)2016「Fake」製作委員会
以上、『FAKE』の感想でした。
『FAKE』考察・評価レビュー