生きうつしのプリマ
映画『生きうつしのプリマ』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:Die abhandene Welt
製作国:ドイツ
製作年:2015年
日本公開日:2016年7月16日
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ

【個人的評価】
 星 3/10 ★★★
 

Plot Summary

仕事も恋もうまくいかないゾフィは、ある日、父から呼び出され、1年前に亡くなった母エヴェリンと瓜二つの女性を報じたネットのニュースを見せられる。その女性はメトロポリタン・オペラで歌う著名なプリマドンナのカタリーナで、気になる父はゾフィを強引にニューヨークへと送り出す。

ネタバレなし感想

誰にでも秘密がある

ヨーロッパ作品の映画というと、芸術性が高いイメージがありますが、昔からずっとそうだったわけではありません。今の世間の認識に至るまでに、それはもう紆余曲折がありました。

例えばドイツ。ドイツの映画産業を新しく変えてやるぜ!と始まった、1960年代後半から1980年代までの「ニュー・ジャーマン・シネマ」と呼ばれる時期。この頃のドイツは絶賛、東と西に分裂中であり、さらにユダヤ系の才能ある人材が大量に流出した後ということもあり、いろいろな意味でスカスカ状態。映画という産業もとりあえず儲ければいいくらいの姿勢で、もしくは非常に政治的意図をもって作られる作品もありました。あのベルリン国際映画祭でさえも、1951年に最初に開催されたものですが、初期は政治的な狙いがあって企画されたそうです。まだまだ芸術なんて二の次です。そういう状況になかったのでしょうがないのですが…。

それで、ニュー・ジャーマン・シネマの時代。当時の新鋭気鋭の若い監督たちが、ドイツ映画を国際的にも通用する立派な芸術へと押し上げました。もちろん、このあとに壁の崩壊と冷戦の解消など、世界が融和に動いたことも大きいのでしょうが、少なくともニュー・ジャーマン・シネマがなければ、今のようなドイツ映画は存在しえなかったわけです。

そのニュー・ジャーマン・シネマを率先してきたのが、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ヴェルナー・ヘルツォーク、アレクサンダー・クルーゲ、フォルカー・シュレンドルフ、ハンス=ユルゲン・ジーバーベルク、ヴィム・ヴェンダース、そしてマルガレーテ・フォン・トロッタといった面々。今や名だたる名監督ばかりですが、当時は若く、エネルギーに満ち溢れ、映画界を変えるという使命に燃えていました。こうやって映画界も変わっていくという歴史を知ると、今の活躍する若手の人たちも“やりがい”を感じるでしょうね。

そんなかつてのドイツ映画に変革をもたらした人たちも今ではすっかり古株。それでも映画を作り続けている人は多いです。

本作『生きうつしのプリマ』は、そのドイツの映画界を牽引してきた名監督のひとり“マルガレーテ・フォン・トロッタ”の最新作です。

本作は監督自身の体験を基にした半自伝的な物語とのこと。監督の母が亡くなって半年が経ったある日にある女性から母に関して聞きたいことがあるという内容の手紙が届いたというエピソードから着想を得たそうです。ちなみにどんな内容なのかは語っていません。まあ、生きてきた時代が時代なだけに、結構いろいろな隠していることがありそうですよね。

親が亡くなってから親の知られざる過去を知るというのは、そこまで珍しいことではないように思います。誰だって秘密のひとつやふたつを隠しながら死んでしまうのではないでしょうか。それがどれだけ大きいことかは別にして。私も秘密を抱えて死のうかと思いましたが、よく考えてみると、とくに秘密らしい秘密もない人生を送っているな…。あれ、やっぱり、案外、秘密ってないのかな。

この映画は「母と娘の感動のミステリー」というキャッチコピーが宣伝で謳われていますが、実際に映画を見るとかなり印象が違うと思います。

「母とそっくりな女性は何者なのか」という謎を追う精密なミステリーというよりは、主人公の家族をめぐる人間ドラマがメインです。そして、印象に残るのは女性よりも男性陣。その理由は…映画を見ればわかります。

『生きうつしのプリマ』は情けない男の姿が見れる映画です。

予告動画







↓ここからネタバレが含まれます↓ 





ネタバレあり感想

残念な男たちの残念な物語

本作はミステリーとして見るべき映画ではないなと思いました。そもそも現代を舞台に、母によく似た人物の正体を探るというネタだけでは、謎としては弱すぎます。DNA鑑定とか割と簡単にできる時代になってきましたからね。

おそらく監督自身、そんなサイエンスやらロジックやらを気にするストーリーテリングには、はなから興味がないのでしょう。それよりも「知っているように見えた人物の知られざる一面が見えてくる」ということのザワザワ感を描きたいのではないでしょうか。それは私たち現代社会の、SNSで簡単に人とつながれて不必要なほどに他人の情報が入ってくる時代とはまるで感覚が違う状態で育ってきた感性です。先にも説明したように、監督が生きてきた、そしてその母の世代が生きてきた時代は、戦時中の閉鎖的な監視社会。お隣の人についてさえも知らないし、変なことを知ってしまえば殺されることもありうる世界。可能な限り情報はシャットダウンすることが生きるうえでの欠かせない知恵だったはずです。その状態を経験してきたんだというバックグラウンドを理解しておくことが、やはりこの映画の解釈のためにも受け手に必要な部分ではないでしょうか。

だからか、物語上の基本軸となるべき「母・エヴェリンとそっくりな女性・カタリーナは何者なのか」という疑問は、DNA鑑定せずとも映画中盤であっけなく正体がわかっちゃいます。まるで、そのわかる過程自体はそこまで重要ではないかのように。

ニューヨークから帰り、父・パウルのもとへ戻ったゾフィに待っていたのは、父から衝撃の発言。「母・エヴェリンは結婚前に兄の子を妊娠していた。でも中絶したはず」…。それだけ知ってたら、カタリーナの正体を察しろよと思わずツッコミたくなるこの父の無能っぷり。そして、唐突に登場した父の兄の存在。

この映画の発端はこの2人の情けない男たちからすべて始まったのでした。
 
ゾフィがあちこち駆け回らなくても、始めからこの2人に聞けば、答えはでたでしょうに…。作中のドラマをずっと見てきて付き合っていた観客にしてみれば、そうぼやきたくなるのも無理ないですけど。

Die abhandene Welt

この2人の男は所有欲にとらわれた本当にどうしようもない奴として描かれており、終盤の喧嘩を見てゾフィが笑っていたように、もう嘲笑するしかありません。ゾフィの父の所有欲の強さは、冒頭のゾフィをこき使う場面や、カタリーナをドイツに連れてこいと指示する場面から窺えます。

個人的には母・エヴェリンの子への隠された愛情よりも、こっちのアホな男たちを主軸にしたドラマがもっと見たかったです。

ところが、物語はわりとあっさり終わり、2人の男の確執も、兄のラルフが実の娘カタリーナとアメリカで対面して仲良く談笑するだけでした。しかも、ゾフィは、カタリーナを探す過程で出会った男をちゃっかり新しい恋人にしているという…。弟であり父であるパウルは放置です。この帰着でいいのでしょうか…。「過去に乾杯、未来に乾杯」なんて言ってる場合なのだろうかと、ややシラけます。

でも、こういう風に過去をあっさり抱擁できるのも大切なのかなと。やっぱりここもドイツというお国柄なのか、ウジウジといつまでも対立を引きずってもしょうがないという未来志向があるのかな。問題性をクローズアップすることは一応するけれども、常に前を向いて進んでいくことも忘れない。それこそ今のドイツの発展の根源にあるスタイルなんでしょうね。それをこうやって語れるのも、歴史を伝え聞いて見てきた監督たちの世代ならではなのかもしれません。

ところで、ゾフィの新しい恋人の男も父と同じ所有欲の強そうな男にみえました。カタリーナとの面会を手配するかわりに自分と一夜を過ごせなんて要求する男は、ろくでもないと思うのですが…。

歴史は繰り返されるということなんですかね…。

(C)2015 Concorde Filmverleih / Jane Betke