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ニューロダイバージェントな私がこの社会で映画を好きになるということ

ニューロダイバージェント

いつもは映画やドラマシリーズの感想をあてどなく自己満足に書いている私ですが、今回はちょっと違う内容です。普段はこのサイトやSNSでもそんなに自分のプライベートを明かさないのですけれど、今回は思いっきり私個人のことを書いています。なので興味ない人は全く読まなくていいものです。そこのところはご了承ください。

2020年に「私はアセクシュアルでノンバイナリーで…」みたいな話を書いたのですが、今回は「ニューロダイバージェント」の当事者としての私の思うことの話です。

「ニューロダイバージェント」とは?

まず「ニューロダイバージェント」という言葉の意味を説明しないといけません。

簡単に羅列して言うと、自閉スペクトラム症(自閉症)、ADHD(注意欠如・多動症)、ディスレクシア、トゥレット症候群、運動障害、共感覚、算数障害、ダウン症候群、てんかん、双極性障害、強迫性障害、境界性パーソナリティ障害、不安症、うつ病などの慢性精神疾患が含まれますVerywell Mind

要するに、脳(神経)に関わってくるいろいろな病気や障害です。これまでは「精神疾患」「発達障害」などとまとめて呼ばれてきました。

実際のところ、何が「精神疾患」や「発達障害」なのかは医療診断分類などの医学知見の更新によって時代ごとに変化しています。

しかし、これらに該当する人たちを雑に病理化するのでは偏見が残るだけだとして、違う言葉で包括的に表現する模索が当事者主導で行われてきました。

例えば、「非定型発達」という用語があります。「非」がついていることから推察できるとおり「定型発達(ニューロタイピカル;neurotypical)」ではない人…ということですね。「定型発達」という用語は「健常者」という言葉の使用を避けるための意義もあります。

さらに模索は進み、「ニューロダイバージェント(neurodivergent / neurodivergence)」という言葉が誕生しました。脳の働きに違いがある多様な人たち…というニュアンスで、あくまで多様性のひとつ(ニューロダイバーシティ;neurodiversity)として認識していこう…ということです。

これは言葉が変化しただけではありません。捉え方が変わっています。

今までは「個人」「特殊な異常性」という個人問題として捉えていたものを、「社会」「ひとつの規範として想定している脳神経のパターン以外にもいろいろな人がいる」という社会構造問題として捉え直しているわけです。

私も今では「ニューロダイバージェント」という言葉を使うようになりました。近年も日本では「発達障害」などの言葉は侮蔑的に軽々しく使われる傾向があって、嫌になっていたのもありますが…。

今、私たちはどう認識されているか

今回、私がこの記事を書こうとしたのは、障害者差別解消法が改正され、2024年4月1日から事業者による障害のある人への合理的配慮の提供が義務化されたので内閣府、自分にも関わることですし、考えをまとめておこうと思ったからです。

合理的配慮の義務化により、「前例がありません」「特別扱いできません」「もし何かあったら…」と安易に一蹴することはできなくなりました。「建設的対話」によって解決策を考えないといけません。これは「特別扱いをしろ」という意味ではありません。障害者基本法の第一条にあるとおり「全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重される」からです。

当然、この法律が対象とする「障害のある人」には「精神障害(発達障害)」も含まれるので、ニューロダイバージェントの人たちも対象となります。

とは言え、いろいろな報道を見ていると、どうしても身体障がい者や、視力や聴力の障がい者などのディサビリティが注目されやすく、あまりニューロダイバージェントのトピックは乏しいです。

一般的に社会は「障がい者」を「○○ができない人」と認識します。なので「○○ができない」ということをハッキリ世間に提示していないと、そもそも障がい者だと認識さえされないんですね。

問題はニューロダイバージェントの人たちは「マスキング(masking)」をしていることが多々あるということです。マスキングというのは、「社会的に受け入れられる」ために自分の行動をあえて意識的(もしくは無意識的に)変えて、自分が一見するとニューロダイバージェントだと他者からわからないようにする…そのプロセスを指します。

LGBTQの人が自分の性的指向や性同一性を公にせずに隠すことを「クローゼット」などと言いますが、ニューロダイバージェントな人たちも隠すことがあって、それがマスキングです。マスキングすることがニューロダイバージェントの人たちにとってはこの社会での生存の方法に、残念ながらなってしまっています。

現在進行形でマスキングしている当事者にとって、前述した合理的配慮の恩恵を得るのは難しいです。「私は○○なのでこうしてもらえませんか?」なんて言い出しづらいからです。

当事者の勇気などで負担させず、自発的に社会構造を変えていってもらわないと困ります。

私のマスキングの経験

ここからは私の個人的な経験…といっても、私が具体的にどんな特性なのかとか、そういう話はしません(この記事は、診断や医療情報を提供するものではありません)。

ただひとつ、マスキングの話をしたいと思います。

私は自分がニューロダイバージェントであると自覚したのは成人になってからで、子どもの頃はよくわかっていませんでした。文字どおり、自分を自分で全く理解していませんでした。今振り返ると「これは典型的なニューロダイバージェントっぽいシーンでしょ!」とわかるものがいくつもあるのですが、当時はなにせ子どもですから。わかるわけもないです。

そして私は子どもの頃から「大人しく」「穏便に」「事を荒立てずに」社会に溶け込んでいました。そういう性格なのだろうと周囲には思われていたと思いますが、これは自分を押さえつけていた結果であり、たぶん「何かが発覚する」のが怖かったのだと思います。

私には学校には良い思い出がほぼないです。だからあまり昔を語りたくもないのですが…。

その子どもの頃からの振る舞いは完全に身に沁み込んでしまい、大人になってからもそんなに変わっていません。

マスキングは他人だけでなく自分自身さえも騙します。よく大人になってから「自分はニューロダイバージェントだったのか!」と知って驚く当事者もいますけど、それはマスキングすることが習慣化し、自覚を妨げたのもあるでしょう。

マスキングは癖にするとやめられません。別にやめる(de-mask)べきことだと言いたいわけではないですし、全てのニューロダイバージェントの人が医療機関で診断を受けるべきとも思わないですが、マスキングは必要なケアやサポートを遠ざけるのも事実です。ケアの機会さえ取り上げられ、ときに苦しみ続けることを敗北主義的に受け入れてしまう当事者もいます。

ニューロダイバージェントの人たちの中にはマスキングしている人も少なくない…ということは前提として理解しないといけないと思います。

映画などの表象の話

先ほども合理的配慮という話をしましたが、これは大切なことです。差別的な構造を改善していくための法律も大切です。

でもこれだけでは社会構造を変わらないでしょう。

ここで映画やドラマなどの表象の話です。私にとってはここが本題。

表象(レプリゼンテーション)も社会構造に大きな影響を与えています…という話は、LGBTQのトピックでも散々しているのですが、ニューロダイバージェントの人たちも同じ。

これまでの映画やドラマなどの映像作品では(小説や漫画でも同じですが)、「精神疾患」や「発達障害」という過去の概念に基づいて当事者を描いてきました。つまり、「社会で浮き出た特殊な変わった人」というイメージです。それを「ニューロダイバーシティ」の意識で捉え直せるか…そこが課題だと思います。

まず表象のバリエーションを増やすことですね。ニューロダイバージェントの人たちは100万人いたら100万通りの種類があるようなものです。類型化なんてできません。無論、私も代表者なんかではなく、ただのちっぽけなひとりです。

「生きづらさ」みたいなふんわりした言葉では描いてほしくはないかなと思います。「生きづらさ」という言葉はニューロダイバージェントの人たちを類型化する最たる言葉でしょう。

「障害」を「生きづらさ」に置き換えるのではなく、「diversity」に置き換えている意味を考えてほしいです。ニューロダイバージェントであることが「障害」になっているのは、社会がひとつの脳神経のパターンしか想定していないという規範(ニューロノーマティビティ;neuronormativity)のせいですからね。そこから解放されれば、ニューロダイバージェントには無限の可能性があります。

ニューロダイバージェントの当事者が俳優や監督などでクリエイティブの現場に参加していることも大事だと思います。働くことが正しいと言いたいわけではないですが、ただ働いている人がいるという事実だけで社会にもたらすイメージが変わるという意味があります。仕事は定型発達の人たちが独占するものではありません。ニューロダイバージェントの人たちを特別枠に入れればいいものでもないです。当たり前にそこにあってほしいのです。そうすれば「自分もあんな仕事もできるのかも」と未来が広がりますから。もちろんその過程で表象も改善する手助けになればなおさら良しです。

ニューロダイバージェントの人たちは「天才」か「無能」か、そんな優劣のフィルターで極端などちらかに振り分けられやすいのですが、ニューロダイバージェントの人たちは普通なのです。定型発達の人たちと同じで…。

ニューロダイバージェントの人たちも映画やドラマを観ています。私みたいにいっぱい鑑賞している人もいます。感想をSNSやブログで書いている人もいます。ここにいますよ。

もっと映画を好きになれる、そんな表象に出会いたいです。

ニューロクィアネス

ここでこの記事を終えてもよかったのですが、もうちょっと続けましょう。

冒頭で、私はアセクシュアル・アロマンティックで、ノンバイナリーで…と、自分の性的指向や恋愛的指向、性同一性の話にも触れました。

つまり、セクシュアル・マイノリティで、かつニューロダイバージェントな当事者なわけです。そういう点では、交差性(インターセクショナリティ)の中に立っています。

私はこういうのを「ダブルマイノリティ」とか「マイノリティの中のマイノリティ」という言葉で表現はしないようにしています。各マイノリティ同士に優劣を付けている感じになってしまうので。

こうしたセクシュアル・マイノリティを排除する規範と、ニューロダイバージェントを排除する規範…その双方と闘っていこうとするアイデンティティを「ニューロクィアネス(ニューロクィア;neuroqueer)」と呼びますADDitude。そう、私もニューロクィアです。私はそう名乗りましょう。

セクシュアル・マイノリティであることと、ニューロダイバージェントであることの、相互の関係性は科学的にはよくわかっていませんVerywell Health。単純に研究不足なのもありますNature Communications

例えば、アメリカ心理学会は「性別違和はニューロダイバージェントのせいである」という認識は誤解であると表明しています(LGBTQ Nation)。少なくとも「セクシュアル・マイノリティがニューロダイバージェントによってもたらされる」という因果関係に関する科学的コンセンサスはありません。

一方で、別の事情もあって、残念ながら反LGBTQの人たちの中には「自閉症の子どもがトランスジェンダーであると思いこまされている」という陰謀論を唱えている者がいますXtra Magazine; Scientific American。クィアとニューロダイバージェントと関係性を少しでも示唆すると、差別主義者に目ざとく捕まり、武器化(weaponized)されやすいのです。だから余計にニューロクィアの人たちは表に出てきづらいです。

この陰謀論の主張は「ニューロダイバージェントの子どもは未熟で騙されやすい」「性なんて適切に理解できるはずがない」という古くからある偏見に基づいており、LGBTQ差別であると同時にニューロダイバージェント差別的です。残念ですが、こういうふうにニューロダイバージェント当事者を能力的に下等とみなす目線は(それは「可哀想だから守ってあげるね」という”上から目線”の保護と表裏一体)は、一部の医療従事者含め社会全体に蔓延しています。なのでこのセクシュアル・マイノリティとニューロダイバージェントを複合的にターゲットとする言説が流行るのは、そういう社会構造があるからで、あらためてその深刻さが浮き彫りになっています。

実際のところ、ニューロダイバージェントの子どもは自分がセクシュアル・マイノリティであると自覚しづらいと思います。私もそうであったのもありますが…。

ニューロダイバージェントの子どもが「自分がセクシュアル・マイノリティである」と自覚しづらい理由は、社会の体制不備です。ニューロダイバージェントのコミュニティはLGBTQ当事者を想定していなかったり、逆にLGBTQコミュニティではニューロダイバージェント当事者を想定していなかったり、双方はあまり上手く連携をとれていない現実がありますADDitude; PRIDE JAPAN。それがニューロクィアな当事者を苦しめています。私も身をもって経験しています。

セクシュアル・マイノリティとニューロダイバージェントの交差性が示している確実な事実があるとすれば、現在の人間社会構造には有害な規範が多すぎるということです。

ニューロクィアな表象も増えてほしいものですが、どうなのかな…。狡猾な差別のレトリックが蔓延する中で、表象を生み出したり、安心して楽しむことの難しさも実感する今日この頃です。

とにかく私たちニューロダイバージェント当事者であっても、自身のアイデンティティを見い出し、それに誇りを持つ権利があるはずです。それは誰かが奪っていいものではありません。

その意志を胸に私は今日も生存していきたいと思います。