そしてナン・ゴールディンのすべて…ドキュメンタリー映画『美と殺戮のすべて』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2022年)
日本公開日:2024年3月29日
監督:ローラ・ポイトラス
自死・自傷描写 性描写
びとさつりくのすべて
『美と殺戮のすべて』簡単紹介
『美と殺戮のすべて』感想(ネタバレなし)
ナン・ゴールディンの70年史
ある人は「LGBTQの権利運動はLGBTQの当事者にしか利益がない」と思っていることがあります。でもそれは歴史を見れば明らかに間違いだとわかります。
最も広範な影響を与えてきたのは、医療界への抗議運動でしょうか。LGBTQコミュニティは、権威化しつつあった当時の医療業界に対して、「もっと安心安全の医療を幅広く提供すること」「医療化による偏見をやめること」、そして何よりも「患者や病人の意思を尊重すること」を強く求め、その抗議の結果もあって、医療界は襟を正してきました。
とくに1980年代のエイズ危機(HIV/AIDS)とそれに呼応したゲイ当事者たちの活動の影響力は革新的で、ドキュメンタリー『プライド』や『アンソニー・ファウチ パンデミックとの闘い』でも描かれてるとおり、それらはつい最近のコロナ禍にも反省が活かされています。新型コロナウイルスのパンデミック時の対応も完璧とは言い難いですが、少なくともワクチンを比較的速やかに開発し、大勢の人々が投与できたのは、かつてのLGBTQの権利運動のおかげです。
そんな1960年代から本格化していったLGBTQの権利運動と当事者の生きざまを知るには、前述したドキュメンタリーは貴重な資料となりますが、写真記録で残し続けてきた著名な人物がいます。
その人とは「ナン・ゴールディン」です。
”ナン・ゴールディン”は1953年生まれのアメリカの写真家兼アーティストであり、60年代から80年代にかけてボストンやニューヨークで、当時のゲイやトランス、ドラァグなどのクィアなカルチャーに寄り添いながら、多くの写真を撮っていきました。
そして1986年に発表された『The Ballad of Sexual Dependency(性的依存のバラード)』というアーティストブックは大きな話題となり、当時としてはまだ珍しく知られてもいなかった当事者の姿を世間に披露するものとなりました。
この稀代の写真家である”ナン・ゴールディン”を主題にしたドキュメンタリーが2022年に公開され(日本では2024年にやっと劇場公開)、またもその業績に光があたりました。
そのドキュメンタリー映画が本作『美と殺戮のすべて』です。原題は「All the Beauty and the Bloodshed」となっています。
本作は、「ナン・ゴールディン」を単に取材して掘り下げるみたいな、そういう題材型のドキュメンタリーではありません。
”ナン・ゴールディン”もプロデューサーに参加していて、ある意味では『The Ballad of Sexual Dependency(性的依存のバラード)』の精神的続編とも言えるような、”ナン・ゴールディン”の創作物の延長にあるような一作です。
一方で、監督は”ローラ・ポイトラス”に任されていて、”ナン・ゴールディン”はその点では一歩引いています。
”ローラ・ポイトラス”監督は、直近では、元CIA職員のエドワード・スノーデンがアメリカ政府によって密かに行われていた情報監視の実態を内部告発する姿を間近でカメラにおさめたドキュメンタリー『シチズンフォー スノーデンの暴露』でアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞に輝いて話題となりました。それ以外にも、米国占領下のイラク人の生活を映し出した『My Country, My Country』(2006年)、グアンタナモ収容所に移されたある男性を題材にした『The Oath』(2010年)、ウィキリークスのジュリアン・アサンジの生涯を追った『Risk』(2016年)など、かなり政治的緊張感のある題材を手がけてきました。
その国際政治色の強い”ローラ・ポイトラス”監督が「ナン・ゴールディン」を題材にするのはちょっと意外かもしれませんが、最初期に『Flag Wars』(2003年)という、黒人労働者階級の家族が白人ゲイの流入するジェントリフィケーションによって対立が表面化する内幕をとらえたドキュメンタリーを撮っており、”ローラ・ポイトラス”監督はもともとそういうコミュニティ間の軋轢などを扱うのは得意なんでしょうね。
そもそも当初は『美と殺戮のすべて』は、”ナン・ゴールディン”主導で企画していて、後から”ローラ・ポイトラス”がプロデューサーとして参加し、最終的に監督になったそうです。
ということでこの『美と殺戮のすべて』は”ナン・ゴールディン”と”ローラ・ポイトラス”の合作といった感じの趣があり、これがまた上手い具合に融合してハマっています。
『美と殺戮のすべて』はヴェネツィア国際映画祭で最高賞となる金獅子賞を受賞しましたが、これは”ナン・ゴールディン”のこれまでの実績を踏まえた功労賞みたいなものかな。
ナン・ゴールディンを知らないという人も、初心者にわかりやすく解説している作品ではないので少々とっつきにくいかもですが、雰囲気だけでも覗いてみてください。
『美と殺戮のすべて』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :題材に関心あれば |
友人 | :関心ある者同士で |
恋人 | :互いの興味が一致すれば |
キッズ | :性描写あり |
『美と殺戮のすべて』感想/考察(ネタバレあり)
オピオイド危機とサックラー家
ここから『美と殺戮のすべて』のネタバレありの感想本文です。
ドキュメンタリー『美と殺戮のすべて』は「オピオイド危機」を主題のひとつとしています。しかし、その社会問題を詳しく解説してくれるわけではありません。
「オピオイド危機」はアメリカ国内ではもう散々報道されていることであり、ドラマ『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』や『ペイン・キラー』など映像作品でも題材になり、『Empire of Pain』のような書籍もでています。なので今さら説明することでもないと省略したのでしょう。日本でも見やすいものだと、ドキュメンタリー『巨大製薬会社の陰謀 / THE CRIME OF THE CENTURY』がオススメです。
今回はここで簡単に整理しておきましょう。
まず「オピオイド」という化合物があり、これは医療においては強い痛みを紛らわす鎮痛剤として使用されてきました。麻薬成分が含まれるため依存症のリスクもあり、過剰摂取は死を招くため、当然、厳格な管理のもと限定的に使用されるのが本来の適切な使い方です。合成オピオイドには「フェンタニル」などの種類があります。
ところがとくにアメリカでは1990年代からこのオピオイドが容易く処方されてきた歴史があり、急速に大衆に蔓延していきました。その背景には、医療保険システムがなく、高額な治療よりも安価な処方薬に頼ってしまうというアメリカ特有の社会事情があるとも言われています。
そんなオピオイドの氾濫は甚大な被害をもたらしました。CDCによれば2021年にはオピオイドによる過剰摂取により80000人以上が死亡したとされており(過去20年間に50万人以上が死亡)、全体の薬物過剰摂取による死亡者の75%以上がオピオイドによるものだとされています。文字どおりオピオイドで大量虐殺されている状態です。コカインやヘロインよりもオピオイドが最も命を奪っているんですね。
ではなぜこんなことになったのかというと、いろいろな裏があるのですが、その原因の主要なひとつが製薬会社の関与でした。実は1980年代までは医師の間でもオピオイドの安易な処方は危険という認識が共有されていたのですが、1980年に「The New England Journal of Medicine」という学術誌に「オピオイドで依存症になることは稀にしか起きない」という意見書が掲載され、この資料を「パーデュー・ファーマ」という鎮痛薬を製造していた大手製薬会社が好機として宣伝に利用。一気に業界の流れが変わったと言われています。かなりいい加減なジャンクサイエンスがうっかり学術誌に載ったばかりにそれを一部が都合よく利用して最悪の結果をもたらしたわけです。
そしてこの諸悪の根源とも言える「パーデュー・ファーマ」という製薬会社を所有していたのが「サックラー家」です。アーサー、モーティマー、レイモンドの3兄弟の医者男性が家を主導しており、1952年に小さな製薬会社を買収し、 1987年に今の名前に変えます。さらに1996年にオピオイド系の鎮痛剤のひとつであるオキシコドンを「オキシコンチン」という商品名で導入し、大規模ビジネスに発展。
オピオイド危機が問題視されて訴えられると、サックラー家の子どもたちが訴訟の対象となりました。この悪名高い家族はドラマ『アッシャー家の崩壊』でもモデルになっていましたね。
そのサックラー家の長兄であるアーサーはアートコレクターとしても有名で、それゆえに多くの著名な美術館と繋がりを持っています。
「パーデュー・ファーマ」は破産と和解の手続きに入りましたが(サックラー家の個人は訴えられない)、その合法性は疑問視されています。何よりも被害者の屈辱を晴らすことには全くなっていません。
ナン・ゴールディンの人生
『美と殺戮のすべて』はそんな社会全体を揺るがすオピオイド危機とは異なる、ひとりの極めてプライベートな人生が並行して語られます。それもナン・ゴールディンの本人の語りで、私的な写真のスライドショーと共に…。
ナン・ゴールディンは1953年にワシントンD.C.に生まれ、家系は典型的なユダヤ人の中産階級でした。しかし、姉のバーバラが18歳で自殺するというショッキングな出来事が発生。その背景にはセクシュアリティがあったのですが、当時はそんなマイノリティへの視線は厳しいもので、何よりも両親は保守的でした。また11歳だったナン・ゴールディンにとっては理解しがたいことですが、両親とは仲違いし、家を出ることになります。
ナン・ゴールディンにとってはカメラで撮ることは、記録などのようなドキュメンタリー的な意義よりも、何よりも自分のメンタルケアになっていたのだろうなということが、その語りからも伝わってきます。
本作では断片的であれ、ナン・ゴールディン自身の言葉で、クィアなコミュニティとの付き合い、セックスワーカーとしての経験などが語られ、ナン・ゴールディンの深層に入り込むような感覚にさせてくれます。
ナン・ゴールディンの代表作である『The Ballad of Sexual Dependency(性的依存のバラード)』も、本作『All the Beauty and the Bloodshed(美と殺戮のすべて)』も、姉のバーバラが受けた精神的健康評価を基にした直接の引用らしいですが、ナン・ゴールディンにとって姉の人生を引き継ぎながら自分を形成しているのがよくわかります。
「P.A.I.N.」の活動
『美と殺戮のすべて』はそんなナン・ゴールディンが現在行っている活動、それこそあのオピオイド危機を起こしたサックラー家への抗議運動として団体「P.A.I.N.」を設立してまで身を捧げているアクティビズムが映し出されます。
冒頭で映るのは、2018年3月10日、多くの仲間たちと一緒にニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れて、サックラー家が多額の寄付をしたゆえに作られた展示場「サックラー・ウィング」で、「サックラーは嘘をついている!人々は死んでいる!」と口々に声を上げながら、オキシコンチンの鎮痛剤のラベルが貼られた半透明オレンジの薬品容器を一斉に放り始め、ダイ・インもしてパフォーマンスする姿。
この「P.A.I.N.」(「Prescription Addiction Intervention Now」の頭文字)という団体は、ナン・ゴールディンが2017年に設立したもので、エイズ危機のときの抗議団体「ACT UP」からインスピレーションを得ているのは本人も述べるとおり。こういう美術館などを舞台とする批判活動を展開する組織は「
Decolonize This Place」や「Liberate Tate」など今でもいくつもありますが、ナン・ゴールディンが先導する団体が生まれるというのは本人の変化と共に時代を感じさせます。実際はナン・ゴールディンは大物として象徴的な存在で、活動の実働はひとまわりふたまわりどころか、もっと若い世代が参加しているのですけどね。
これは私の勝手な想像ですけど、サックラー家もユダヤ人で芸術に縁のある著名人です。保守的な家庭に苦しみの源流があるナン・ゴールディンにとっては、自分がオピオイド利用者で被害者でもあるという以上に、ある種の自身の家族観の影を象徴する存在だったのではないかな、と。
つまり、「P.A.I.N.」の活動もやっぱりナン・ゴールディンの人生と深く関わっているのでしょう。
ナン・ゴールディンは2023年には、イスラエルによるガザ地区への侵攻に抗議する活動も行っており、ここでもユダヤというルーツの保守性に立ち向かっています。
ナン・ゴールディンの闘いはまだ続きます。後に続くのは私たちですね。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 95% Audience 63%
IMDb
7.5 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
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第79回ヴェネツィア国際映画祭の受賞作の感想記事です。
・『サントメール ある被告』(銀獅子賞;審査員大賞)
・『ボーンズ アンド オール』(銀獅子賞;最優秀監督賞)
・『イニシェリン島の精霊』(男優賞)
・『TAR/ター』(女優賞)
・『熊は、いない』(審査員特別賞)
作品ポスター・画像 (C)2022 PARTICIPANT FILM, LLC. ALL RIGHTS RESERVED. オール・ザ・ビューティ・アンド・ザ・ブラッドシェッド
以上、『美と殺戮のすべて』の感想でした。
All the Beauty and the Bloodshed (2022) [Japanese Review] 『美と殺戮のすべて』考察・評価レビュー