ブリグズビー・ベア
映画『ブリグズビー・ベア』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:Brigsby Bear 
製作国:アメリカ(2017年) 
日本公開日:2018年6月23日
監督:デイブ・マッカリー

あらすじ

両親と3人だけで暮らす25歳のジェームス。子どもの頃から教育ビデオ「ブリグズビー・ベア」を見て育った彼は、今はその世界の研究に没頭する日々を送っていた。しかし、ある日を境に日常は崩れてしまう。

ネタバレなし感想

親近感を覚える

よく「映画が趣味です」と自分のことを他者に紹介すると、その年の日本の映画の興行収入で1位、2位を記録したような作品名を挙げられて「それは観ましたか?」と聞かれます。そして、たいていの私の答えは「観ていません」だったりするわけです。一般的な価値観からすれば「なぜ?」「映画が好きなんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、そういうものなんです。たぶんそういう経験をしている映画マニアは一定数いるはず。

このエピソードはつまり「映画」というものが指しているものの内容は人によって全然違うということを端的に表しています。このジャンルの映画は観るけど、こっちのジャンルは全然観ないとか、もっぱら邦画しか鑑賞しないとか、はたまた「アニメは映画じゃない!」など過激なことを言う人だっています。それだけ「映画」は多様性に富んでいることの証明ですね。

なんでこんな話から始めたのかというと、本作『ブリグズビー・ベア』はそんなことを考えさせる物語だったからです。

この作品は、公開されるやいなや「好事家な映画好き」から高い支持を得て、SNSでも日本の映画クラスターの間で話題を集めました。安易に「映画好き」という言葉を使ってしまいましたが、良くないですね。ここでいう「映画好き」は、俳優ファンとかストーリー考察に熱中する人ではなく、どちらかといえば映画そのもののクリエイティビティを信奉している“シネフィル”寄りの人のことです。もちろんそうじゃない人でも『ブリグズビー・ベア』にハマった人もいますが。

それだけ本作は映画愛を刺激する物語が魅力になっています。宣伝で公表されているあらすじを読むだけでは全くそうは見えないのですが、実はそこがメインだったりします。

本作の監督は、もともとコメディアンで本作が初監督作となる“デイヴ・マッカリー”。彼の中学生時代からの友人である“カイル・ムーニー”と“ケヴィン・コステロ”が脚本を手がけ、“カイル・ムーニー”自身が私生活をベースに物語を組み上げ、主演もしたという製作裏話があります。これだけでも“そういう”映画好きには親近感を覚えてしまうものです。要するに自分と同じ匂いがするわけですから。

また、製作に“フィル・ロード”“クリストファー・ミラー”の名前があったり、出演俳優に“マーク・ハミル”がいたりと、映画ファンなら「おっ!」となるような顔ぶれも密かに注目されやすい点だったと思います。

あとはとくに前情報を入れずに観るのがオススメです。別に驚愕のストーリーが待っているわけでもありません。ただただ、真っすぐな物語です。

予告動画






↓ここからネタバレが含まれます↓





ネタバレあり感想

衝撃からの衝撃


世界は不思議と謎でいっぱい
彼の務めは勉強して立ち向かうこと
とっても勇敢で心優しいヒーロー
その名はブリグズビー・ベア


〈25巻 第34話 “大神殿の危機”〉
「大神殿が崩壊する! アリエル ニーナ 早くパワーを使って」
「なぜ効かない?」
「サン・スナッチャーよ」
「くたばれ ブリグズビー・ベア」
「星が出てるな。日没と共に毒素を出すツル植物だ。つまり…」
「これは幻覚ね」
「食らえ、光のパワーを!」
「次こそは葬ってやるぞ、クマ小僧!」
「やったわ、ブリグズビー」
「でも銀河系の皆は僕に失望したはずだよ」
「変だな。予言では、サン・スナッチャーはお助けクリスタルで倒せると」
「これで学んだわね。1次元方程式では、-1に1の絶対値を掛けたのが-X。ベクトルの解よ」
「次の冒険までどうか忘れないで」
「信じるべきは予言よりも家族だ」
「それと残した食事は必ず黄色のゴミ箱に捨てること」
「じゃあ、またね」
何とも言えないユーモラスでチャーミングな子ども向けTV番組のような動画から始まる本作。しかし、それを食い入るように見つめているのは明らかに対象年齢の“子ども”とはいえない若者。観客にはチンプンカンプンな状況ですが、この若者・ジェームスはとにかく「ブリグズビー・ベア」と呼ばれるこの番組が大好きだというのは伝わります。

この番組のクオリティが本当に絶妙でそこだけで本作の評価が大きくプラスになる要素だと思います。映画内で作られた創作物に説得力を持たせるのは意外に難しいのですけど、この「ブリグズビー・ベア」は不思議と惹かれます。悪役として登場するサン・スナッチャーが、世界初のSF映画とされるジョルジュ・メリエス監督の『月世界旅行』(1902年)を思わせたり、映画の原点を随所に感じるからでしょうか。

自分を愛してくれる父と母、大好きな番組…幸せに囲まれたジェームスの日常。ところが、そこへ突然、家に突入する警察。取り押さえられる両親。パトカーに乗せられるジェームス。なんと、両親と思っていたこの男女はジェームスを子どもの頃に誘拐した赤の他人で、全くデタラメなことをずっと教え込まれていたのでした。

かなり衝撃的な展開ですが、もっと衝撃的なのはこのびっくり展開は別に本作のメインじゃないということ。『10 クローバーフィールド・レーン』のような監禁サスペンスではないのです。

映画開始13分もしないうちに自分の世界が様変わりして真実を知ったジェームス。彼が本当の両親のもとに帰って“やったこと”。それは「ブリグズビー・ベアの最新話を自分で作る」。なんやかんやありながらも、家族や友人の力を借りて、ブリグズビー・ベアの映画を作り上げたジェームスは、劇場で観客に観てもらい、拍手喝采。成功を喜ぶのでした。めでたし、めでたし。

ブリグズビー・ベア

想像力で変わる善悪もある

本作の物語を表面上だけ見るなら、最初の導入のインパクトはあれど、基本はスタンダードな“創作の悲喜交々を描く”系のストーリーです。やはり序盤の世界観をひっくり返す展開と比べてしまうと、残りのお話はドラマチックさに欠け、平凡すぎると思う人も多いはず。

でも、ジェームスの映画づくりエピソードは想像以上に掘り起こしがいのある深いテーマが隠れているように思えます。

例えば、主人公の周囲の人間がみんな善意の塊のような人で都合が良すぎるようにも見えます。確かにその善意によってジェームスの映画製作は割とトントン拍子で進みます。

ただ、よく見ると主人公を含む登場人物の言動は必ずしも「善」ではありません。例えば、あの役者経験のあるヴォーゲル刑事は押収品であるブリグズビー・ベアの番組のアイテムをこっそりジェームスに渡してしまいます。明らかに職務的にダメな行為です。また、ジェームスも映画製作に夢中になるあまり、ネットで爆発物の作り方を検索し、実際に作ってしまいます。普通にテロリストと勘違いされてもおかしくありません。さらに、ジェームスが貸してくれたブリグズビー・ベアの番組をさらっとネットに上げているスペンス(違法アップロード)だったり、探しだすと枚挙に暇がないです。

だからこそ本作に違和感を覚える観客もいるでしょう。「悪」を都合よく「善」に描いているんじゃないかと。

しかし、それこそ本作の肝だと思います。本作は「善悪は見方によっていくらでも変わる」という話ではないでしょうか。

とくにジェームスは一般常識が定着していないので、普通の善悪で物事を評価しません。例を挙げると、ブリグズビー・ベアは偽父だったテッドが作った番組だと知ったジェームスの反応。「古いパパが作者ってこと? やった!」ですよ。

善悪と言えば、ジェームスが警察に保護された最初のとき、刑事は子どもの誘拐なので性的目的を疑って遠回しに尋ねるわけです。「触られたか?」と。性的被害はなかったようですが、ジェームスはキョトンです。一方で、パーティに参加したジェームスはそこで出会った女性メレディスに誘われるままに、部屋で二人っきりになりキスされ、股間を触られます。ではこの行為は性暴力なのでしょうか。善悪の境界が曖昧なことを示すピンポイントな一例ですね。

そして、テッドとエイプリルが犯した誘拐もまさにそれ。無論、これは犯罪です。でも、その全てを「悪」という分類にする気はジェームスはない。想像力でどうにも変えられない「悪」も世の中には存在するでしょうが、想像力で「善」にできるならしてしまえばいい。それがクリエイティブ…そんなメッセージを強く感じました。

教育の正しさを問うよりも

そこでブリグズビー・ベアの番組に話は戻りますが、あれはテッドとエイプリルが誘拐した幼いジェームスをコントロールするために制作した、いわば教育という皮を被った洗脳のツールです。

それ自体を考えると、あんな無邪気な番組で洗脳するなんて悪質だとムカムカするかもしれませんが、私は全ての教育は洗脳の側面をはらんでいると思うのです。あのブリグズビー・ベアも、私たちが日常で見られる教育番組と大差ないです。

教育の正しさと言えば、思い出したのが『はじまりへの旅』という映画。あれも特殊な家族の教育の話で、「教育って何なのだろう」と考えさせるものでした。
『はじまりへの旅』感想(ネタバレ)…子どもの質問には素直に答えよう
偽親の教育は悪かと問われると、今作の家庭は極端ですが、昨今の疑似家族重視を考えれば、全否定はできませんね。作中でメレディスにジェームスが「体を触り合う遊びは楽しいけど、結婚はできない」という勘違いな告白をしたとき、「両親が悲惨だったから結婚しないの」と答えた彼女の姿は、本作の親問題に正解を出していない証拠な気がします(これに対して「良かった!」と言ってしまうジェームスの無神経っぷりがまた…)。

最初、本作を観た時に引っかかったことがあって、それはいくらなんでもあの番組の中で教えられる教育に限度があるんじゃないかと疑問に感じたのです。算数は番組の内容に組み込めても1次方程式は無理だろうと。実際に冒頭の番組はかなり無理があったですし。でもだからこそその歪さがジェームスの考察魂に火をつけたともいえ、あの親たちも番組を用いることでジェームスと関係性を保つことに限界を感じていたんじゃないかなと。なんとなく冒頭の家族の会話でそれを感じます。

つまり、本作の映画制作は「親離れ」なのでしょうね。

終盤、映画制作の最後の仕上げとして、ジェームスは刑務所へ向かい、テッドに面会します。「聞きたいことがある」と切り出すジェームスに、“ついにきたか”という感じでテッドはなぜ拉致したかを語りだします。「妻が抱いて帰ってきた、可愛くて…」…そんな真実をジェームスは「それはどうでもいい」と制止し、映画の脚本を渡し、テッドにブリグズビー・ベアの声を吹き替えさせるのでした。

教育(番組)の正しさを問わなくていいというメッセージは最後にもあります。映画館で上映が始まり、不評だったらどうしようとトイレで吐くジェームスに対して「他人の評価なんてどうでもいいさ」と語る友人。本作の総括的なセリフです。

創作物への賛否はネットにもたくさん溢れていますけど、そんなことは無視しましょう。創作物から学び、次の創作物への興味につなげる…それでじゅうぶんです。

ROTTEN TOMATOES 
Tomatometer 80% Audience 86%
IMDb
7.4 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★

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