ついに生み出される…Netflix映画『フランケンシュタイン』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2025年)
日本では劇場未公開:2025年にNetflixで配信
監督:ギレルモ・デル・トロ
児童虐待描写 ゴア描写
ふらんけんしゅたいん

『フランケンシュタイン』物語 簡単紹介
『フランケンシュタイン』感想(ネタバレなし)
ギレルモ・デル・トロのフランケンシュタイン
類まれなる独自の創造力で数多くの豊かな物語を映像で届けてくれている“ギレルモ・デル・トロ”監督。2022年は“カルロ・コッローディ”の『ピノッキオの冒険』を自分色に染め上げた映画『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』を堪能させてもらいました。
そして続く2025年は、1880年代の『ピノッキオの冒険』よりもさらに前に創られた「創造主と創造生命」の物語の原点とも言える、あの作品に手を付け、これまた“ギレルモ・デル・トロ”の魔法をかけてくれました。
それが本作『フランケンシュタイン』。
もちろん原作は1818年の“メアリー・シェリー”による『フランケンシュタイン』。つまり、“ギレルモ・デル・トロ”版「フランケンシュタイン」…「ギレルモ・デル・トロのフランケンシュタイン」です。
“メアリー・シェリー”の『フランケンシュタイン』は本当にたくさん映画化されており、1994年の“ケネス・ブラナー”監督の『フランケンシュタイン』なんかは“ギレルモ・デル・トロ”監督も大好きだそうですし…。
では2025年の今作はどういう翻案なのかと言えば、それはもう“ギレルモ・デル・トロ”監督が創るんですよ。これ以上の説明することはありません。
ひとつ事前に言っておきたいことがあるとするなら、一般的にフランケンシュタイン博士が生み出した存在は「怪物(monster)」と呼ばれがちですが、今作では「クリーチャー(creature)」と明示されています。とくに今回の映画はその言葉の違いは本当に大事ですし、“ギレルモ・デル・トロ”監督が最も気にかけているところでしょうから、映画の翻訳でももう少し考えてくれると嬉しかったのですけども…。
私のこの感想ではちゃんと「クリーチャー」と表現することにします。
“ギレルモ・デル・トロ”監督版『フランケンシュタイン』にて、フランケンシュタイン博士を熱演するのは、ドラマ『ムーンナイト』の“オスカー・アイザック”。
クリーチャーを演じるのは、最近は『Saltburn』や『プリシラ』などで急上昇している若手の“ジェイコブ・エロルディ”です。今回のクリーチャーはこれまでにないほどにセクシーさが漂う存在感になっています。
他の共演は、『MaXXXine マキシーン』の“ミア・ゴス”、『007 スペクター』の“クリストフ・ヴァルツ”、ドラマ『アソーカ』の“ラース・ミケルセン”など。
「Netflix(ネットフリックス)」での独占配信ですが、映画時間は約150分とたっぷりあるので、落ち着ける鑑賞環境で、その濃密な“ギレルモ・デル・トロ”監督のアートワークで彩られた美麗な世界観を味わってください。
『フランケンシュタイン』を観る前のQ&A
A:Netflixでオリジナル映画として2025年11月7日から配信中です。
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 児童虐待を示唆する描写が一部にあります。 |
| キッズ | 残酷な描写があります。 |
『フランケンシュタイン』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
1857年、最北端の氷で覆われた地域を探検していたデンマーク軍の艦隊は、氷に阻まられ、船が動けなくなってしまっていました。早く対処しなければ全員凍え死んでしまいます。アンダーソン船長は船員を鼓舞し、作業を急がせます。
その夜、遠くで炎を見つけます。調べに行ってみるとひとりの男が負傷して倒れています。息もあるし、意識もあります。テントは滅茶苦茶になっていました。
何かの唸り声も聞こえ、急いで船に運び、銃で武装した船員を待機させます。そして迫ってくる謎の影に発砲。“それ”は人のように歩いていますが、銃弾をものともしません。凄まじい怪力で船員を投げ飛ばし、みんな一斉に逃げ惑います。
“それ”は船に乗り込んできて、先ほど助けた男を指差し、「ヴィクター」と声を発します。しかし、強力な銃で吹っ飛び、船から突き落とされます。“それ”は再び起き上がるも、梯子を外されたので船に上がることができません。“それ”は怪力で船を押し上げ、転覆させかねない傾きにさせてしまいます。慌てた船長は怪物の足元を銃で撃ち、怪物は氷が割れて冷たい海に落ち…。
事態は急を要するので船長は助けた男…ヴィクター・フランケンシュタイン男爵に話を聞きます。怯え弱ったヴィクターは自分があの襲ってきた存在の創造主であることを明かし、その創造に至る経緯を語りだします。
幼い頃、ヴィクターとその母クレアは高名な医師であった貴族の父レオポルドの厳格さに縛られる生活を余儀なくされていました。父はヴィクターに英才教育を受けさせるも、その接し方は支配的です。
ある日、妊娠していた母は苦しみだし、弟ウィリアムを産むも亡くなってしまいます。最愛の母を失った悲しみに暮れるヴィクターは葬儀の後も孤独に沈む もう味方はいません。父はウィリアムばかりを可愛がり、ヴィクターにはますます冷たくあたるようになります。
ヴィクターは人生に幻滅し、死を乗り越えることに憑りつかれます。父が亡くなった後、ヴィクターは己の野心に執着した傲慢な外科医へと成長しました。
1855年、ヴィクターは医者たちの前で堂々と死体を蘇生させる試みを発表。上半身だけの骨と筋肉が剥き出しの“それ”は電気の刺激で息を吹き返したようにみえます。しかし、“それ”は学術研究ではなく、狂気の行為とみなされ、エディンバラ王立外科医師会を解雇されました。
なぜ自分の偉業を理解してくれないのかとヴィクターは苛立ちます。
そこへ武器商人のヘンリッヒ・ハーランダーが支援すると手を差し出します。ヴィクターはそんな彼との付き合いの中で、ヘンリッヒの姪でウィリアムと婚約中のエリザベスに出会い、心を奪われます。
そんな中、死を超越した生命の創造に取り組み続けますが…。

ここから『フランケンシュタイン』のネタバレありの感想本文です。
独りよがりの男の創造の強欲
“ギレルモ・デル・トロ”監督版『フランケンシュタイン』は、1931年の『フランケンシュタイン』と1935年の『フランケンシュタインの花嫁』を下地にしていますが、当然、そのまま原点をなぞるのではなく、監督の作家性が全てにわたって溢れ出ていました。
物語は、過去を語るかたちで描かれ、ヴィクター・フランケンシュタインの語りと、クリーチャーの語りに大きく分かれています。トーンもだいぶ違います。
まずヴィクター・フランケンシュタインの物語ですが、こちらはとにかく「男の創造のエゴ」というものが充満するエピソードで、“ギレルモ・デル・トロ”監督の自己批判的な部分も滲んでいるのでしょうか。
前作の『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』もそうだったのですが、男が生命を創造することの狂気性が意識的に描かれています。
もちろんそれはオリジナルである“メアリー・シェリー”の『フランケンシュタイン』の時点からあったフェミニズムな視点でもあり、女の産む能力にだけ憧れてその出産を支配的満足感としてのみ切り取ろうとする男の傲慢さです。
今作でも序盤で映し出されていましたが、本来の出産は女性にとって命の危険もある行為です。ヴィクターの母も出産で死亡してしまいます。
そんなかたちで母を失いつつ、ヴィクターは死のトラウマを克服するべく、死を己の手で超越した存在を創ろうとします。それは切なる願望かもしれませんが、すぐさま傲慢さに染まってしまいます。
序盤の子ども時代からヴィクターは父親に虐待され、その支配関係の恐ろしさを身に染みてわかっていたはずですが、結局、それは呪いのように受け継がれ、ヴィクター自身も自ら生み出した「子」であるクリーチャーを虐待的に扱ってしまいます。
今回のヴィクターはビジュアルも独特ですよね。一般的にイメージされるような科学者っぽくないです。マッドサイエンティストなのはわかるにしても、このヴィクターはどちらかと言えば、アーティスト(芸術家)の雰囲気でした。「クリエイター」とクリーチャーからは呼ばれていますが、ヴィクター本人は自分の創造力しか信用していない自己中心的な表現者です。
“オスカー・アイザック”のキャスティングはこれしかないほどにぴったりでした。いつもながらこういう倒錯している独りよがりな男の役がハマります。
それにしても今回も全裸をみせており(全裸で研究している科学者はなかなかみれない映像ですよ)、“オスカー・アイザック”と言えば「裸」になってきている気がする…。今回はその裸で描かれることで、あの主人公の剥き出しの強欲さ、もっと言えば、独りで創造するという行為が彼にとっては性行為と等しい快楽なのだということを暗示するようでもありました。
絞首刑になった犯罪者とか、クリミア戦争で殺された兵士から素材を集め、無我夢中で遺体を解剖して、目をキラキラさせながらクリーチャーに肉付けしている…やっていること自体を冷静にみれば極めて猟奇的な姿を、あえて優雅なBGMで映し出すのも、“ギレルモ・デル・トロ”監督流の毎度のセンス。これもある種の男の手料理か…。
ここの舞台になっているあの異彩を放つ塔もいわば男根の投影のようなものとも捉えられ、最終的にはしっかり大爆発しますからね。欲に溺れ、因果応報で跳ね返ってくる…男の末路にふさわしいロケーションでした。
クリーチャーに語らせる
大爆発事件後を語る、続くクリーチャーの視点ですが、“ギレルモ・デル・トロ”監督版『フランケンシュタイン』の後半のモノ悲しいトーンを深めていきます。
“ギレルモ・デル・トロ”監督がこういうクリーチャーを愛してやまないのは周知の事実であり、今作でもとことん愛情深く描いてくれます。大衆から理解されず、徹底的に忌み嫌われ、迫害を受け続けるそのクリーチャーの姿はいろいろな現実の存在と重ねることもできるでしょう。
今作のクリーチャーも、ビジュアルがまた他にはない独自色が強いものでした。どうしても「フランケンシュタインの怪物」として真っ先に描かれやすいのは、武骨な肉体に歪なゴツい顔つきで見るからに人ならざる者という感じです。
しかし、今回はあの“ジェイコブ・エロルディ”がわりとその顔をさらけ出すように演じていますからね。こちらもこちらでビジュアル系のバンドみたいな風貌です。そういう意味ではヴィクターとはアーティスト仲間のような感覚もあり、創造性の違いで袂を分かつ2人のアーティストを描いているようでもありました。
そのクリーチャーを最初に受け入れてくれるのがエリザベスですが、このエリザベスも「家」という檻に閉じ込められる境遇はクリーチャーと同じであり、今回はわざわざエリザベスを化け物じみた見た目にせずとも、クリーチャーとの共通項を映し出せています。「花嫁」の役回りながらも、ヴィクターとは離れた立ち位置にしたのも良い脚色でしたね。
ホラー・クイーンである“ミア・ゴス”に演じさせているというのも大きいですけど…。“ミア・ゴス”というだけで只者ではないゴシック・ホラー感を放っている…。
悲劇に次ぐ悲劇の追い打ちの後、ヴィクターとクリーチャーは贖罪と赦しに到達します。この信仰を物語の根幹に置くのも、“ギレルモ・デル・トロ”監督のいつもの手際。でもそれを教会とかそういうベタな場所ではなく、今作のように極寒の文明なき地で展開するのが、“ギレルモ・デル・トロ”監督なりの世俗との距離のとり方を表しているかのようでもありました。宗教は大切だけど、権力とは離しますよってことです。
ということで、これまで培ってきた監督らしい語り口を結集した映画化でした。確かに斬新さはないですけども、私たちが観たいのは“ギレルモ・デル・トロ”監督の『フランケンシュタイン』。それは間違いなく魅せてくれました。
たぶん“ギレルモ・デル・トロ”監督も『フランケンシュタイン』をようやく創れて感無量でしょうし、私も“ギレルモ・デル・トロ”監督の『フランケンシュタイン』を観れて大満足です。『フランケンシュタイン』の映画化として、ずっと観てみたかったこのクリエイターの創造物を拝め、慈しみ、共に愛するのは格別の喜びです。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
関連作品紹介
ギレルモ・デル・トロ監督の映画の感想記事です。
・『ギレルモ・デル・トロの驚異の部屋』
・『ナイトメア・アリー』
・『シェイプ・オブ・ウォーター』
以上、『フランケンシュタイン』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)Netflix
Frankenstein (2025) [Japanese Review] 『フランケンシュタイン』考察・評価レビュー
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