もはや国威発揚のお手本?…映画『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:中国(2021年)
日本公開日:2022年9月30日
監督:チェン・カイコー、ツイ・ハーク、ダンテ・ラム
ゴア描写
製作国:中国(2022年)
日本公開日:2022年12月9日
監督:チェン・カイコー、ツイ・ハーク、ダンテ・ラム
ゴア描写
1950 はがねのだいななちゅうたい/すいもんきょうけっせん

『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』物語 簡単紹介
『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』感想(ネタバレなし)
プロパガンダと批評するので終わりにせず…
「この映画はプロパガンダだ」といった批判がなされることがあります。でも「プロパガンダ映画」とは何でしょうか?
よくある説明としては、プロパガンダ映画は観客に特定の政治的、宗教的、または文化的見解を採用するよう説得するために作られたものである…と語られたりします。もっと雑な言い方だと「政治的な要素があればプロパガンダだ」と言い放つ人さえいます。
しかし、映画を「プロパガンダ」と評するのは、批評として意味をなさないかもしれません。「プロパガンダ」という言葉はあまりに都合よく用いることができてしまいます。自分の気に入らない要素があれば「プロパガンダだ」とレッテルを貼ることができますし、実際、そういう言論をたくさん見かけます(それこそ「この映画はポリコレだ」という言い回しも同質の問題がありますね)。
批評ならもっと具体的に中身を整理・分析したいところです。その映画のどんな演出や構成が、どんなふうに現実を表現しているのか(もしくはしていないのか)、そしてどのような印象を観客にもたらすのか…。または作品と権力はどう作用し合うのか…。
私もそれくらいの精度の感想とかを書きたいところですけども、結構広範な知識も問われるので大変ですよね。まあ、自分の浅見を自覚しつつ、控えめに頑張っていこうかな…。
ということで、映画のプロパガンダ性を考えてみるなら、昔の時代の旧作もいいですけど、わりと最近の映画も題材として面白いでしょう。
そこで今回は『1950 鋼の第7中隊』と『1950 水門橋決戦』の2作を取り上げます。
本作は2021年と2022年に中国で公開された戦争映画大作で、2部作構成であり、『1950 鋼の第7中隊』が「Part1」、『1950 水門橋決戦』が「Part2」で、物語も一貫して繋がっています。
主題は1950年から始まった朝鮮戦争で、中国の軍隊である人民解放軍がアメリカを中心とする多国籍軍と大規模に戦闘する戦場が2作合わせて320分超えの特大ボリュームで描かれます。
監督は、『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』の“チェン・カイコー”、『王朝の陰謀 闇の四天王と黄金のドラゴン』の“ツイ・ハーク”、『オペレーション:レッド・シー』の“ダンテ・ラム”の3人体制。中国映画界屈指の名監督3名が揃うのはなかなかに圧巻です。
そんな『1950 鋼の第7中隊』と『1950 水門橋決戦』ですが、中国共産党中央委員会宣伝部の委託による中国共産党成立100周年祝賀作品として「中国勝利三部曲」と銘打たれた第2弾の作品(2作合わせて)となっているらしく、わりとプロパガンダであることをほぼほぼ隠していません。ちなみに「中国勝利三部曲」の他の2作の映画は、新型コロナウイルスに立ち向かった中国の医療従事者を描いた『アウトブレイク ~武漢奇跡の物語~』(2021年)と、日中戦争下でのスパイ策謀を描いた『無名』(2023年)だそうです。
こうなってくるともう言いたくなくても「お手本」みたいな映画になっているわけです。良くも悪くも…(いや、良いことはないか…)。
案の定、中国と政治的に敵対する西洋諸国では『1950 鋼の第7中隊』と『1950 水門橋決戦』の2作をプロパガンダとみなす批評が目立ちます。欧米や日本でも普通に劇場公開されていますけども…。
後半の感想では、この2作について、中国政府がどういう歴史観を大衆にみせたいのか、そして映画によってどんな国民像を提示しているのか、専門的な話をなるべくせずに、普遍的な部分を探ってみようと思います。
『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | — |
| キッズ | 残酷な描写が多いです。 |
『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
中国の浙江の湖州。「革命烈士 中隊長 伍百里」と書かれた骨壺を持ち、人民解放軍第9兵団第7中隊の司令官であった伍千里(ごせんり)は、国共内戦(中国国民党および中華民国政府率いる中華民国国軍と中国共産党および中華人民共和国政府率いる中国人民解放軍との間で起きた内戦)から帰ってきます。兄を失った悲しみを抱えながら…。今も戦争のトラウマは体に刻み込まれており、ちょっとした音ですぐに銃を手に戦闘態勢をとってしまうほどです。
そこにまだ無鉄砲な子どもっぽさが残る弟の伍万里(ごばんり)が顔をみせます。こののどかな田舎で、伍万里はたくましく育っていました。
伍千里は老いた両親に兄の戦死を告げ、頭を床につけ「兄を守れなかった」と謝罪。家族は貧しい質素な暮らしを続けていましたが、戦争の功績で土地が分配されるはずなので、家を建てて生活を変えようと前向きな未来を話します。なにせもう戦争は終わったのだから…。
しかし、その夜、緊急招集がかかります。中国が朝鮮戦争に参戦したのです。その去り際、伍万里は「俺も戦争に行く」と言い放つも、伍千里は仏頂面な弟の顔に無理やり笑顔を作り、「戦争に行くのは兄たちだけでいい」と言います。
1950年9月15日、朝鮮の仁川。陸海空で激しい攻防が起き、米軍は制圧権を確保し、優勢でした。米軍の爆撃機部隊は中国と朝鮮の国境に到達します。
国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーはここが軍功をあげる最大のチャンスであり、自信に満ちていました。米軍第10軍団長アーモンド少将も後押しします。主要戦力は、第7歩兵師団第31歩兵団、またの名を北極熊連隊。マクリーン大佐は楽勝だと考えています。一方、米軍第1海兵師団長スミス少将は、マッカーサーらの楽観さに否定的でした。
10月4日、北京では毛沢東は戦況報告を受け、アメリカは台湾に介入しており、さらに38度線を超えてもおり、看過はできないと実感。中国の領土が脅かされると肌で感じます。
翌日、毛沢東の息子である毛岸英は軍事委員会副主席の彭徳懐を案内。毛沢東は戦いたくないようですが、この国の未来を考えると戦わざるを得ないと呟き、彭徳懐も朝鮮出兵を支持。戦いの場は長津湖になるだろうと予測します。そして毛岸英は戦争に連れていってほしいと言い、毛沢東も息子を連れていくように頼んできます。
7日には米軍は完全に38度線を越え、本格的な北上を開始。鴨緑江もすぐそこです。
毛沢東は彭徳懐に全軍を頼み、戦争への参加を宣言。宋時輪が率いる第9兵団が招集されます。その第7中隊に伍千里は立っていましたが…。

ここから『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』のネタバレありの感想本文です。
国威発揚の戦争映画の作り方
『1950 鋼の第7中隊』と『1950 水門橋決戦』の2部作は、全編にわたって中国側の国威発揚のために構成されている映画だと言い切れる完成度だったと思います。本当にそういう意味では欠点のない完璧な作品でした。
本作を観ていると、映画が国威発揚の効果を発揮するために必要なポイントがよくわかります。
まず理性的な戦争の大義名分の提示です。本作ではご丁寧に毛沢東の口から「戦争はしたくないけど、でも国民と未来を守るためにやむを得ないなぁ」みたいな論調で、「自衛」が掲げられ、参戦が肯定されます。自分たちは好戦的な野蛮人ではない、むしろ理性的な秩序の保護者なのである…という姿勢表明が外せないんですね(この毛沢東と同じようなことを、今の日本のタカ派の政治家もしょっちゅう口走っているわけですが…)。
そして、この参戦に対して、疑いのない純真な大衆からの支持を描くことも欠かしません。本作の場合は、伍万里が手にする少女からの赤いマフラーなどがそれを象徴します(女性の純真さを用いるのは定番ですね)。戦争反対などの立場は論外です。
逆に反権力的な言動を唯一みせるのが、米軍側のスミス少将であり、マッカーサーにやや反発的です。敵側に反権力を置くことで、当の中国観客には無意識のうちに反権力と距離をとらせるというのは巧妙なプロットだなぁと一瞬感心してしまいました。
また、戦争という政治的な行為の政治性を極力単純化しようともします。本作においては朝鮮戦争の地政学的な複雑さは一切描かれず、「中国vsアメリカ」という単純な構図になっています。中国は「抗米援朝戦争」という表現で朝鮮戦争を表すことが多いですが、まさにそのとおりです。そこには戦争で蹂躙される朝鮮の庶民の立場は考慮されません。
それと関連して、自国側と敵側を真逆の存在と位置付けます。例えば、本作で描かれる米軍はたいてい規律が悪く、下品な態度です。悪魔化まではせずとも、「敵は愚かゆえに侵攻をしてくるのだ」という印象を常に散りばめ、先ほどの自衛の概念を強化します。
関連して、本作は米軍に敗北して占領下となった日本をたびたび表現することで「ああなってしまうかもしれない」という不安を煽ります。
一方の中国軍側は、不屈の精神性をとにかく強調しまくります。とくに寒さや飢えといった過酷さに耐え抜く姿はしつこいくらいに何度も映ります。これは「貧しくても国に文句を言うなんでみっともない」という貧困を正当化する効果もあるでしょう。
さらに戦死の美化。ここが戦争映画における国威発揚で最も大事なことかもしれません。戦争の悲惨さを描いて「兵士になりたくない」と思ってもらっては困りますから。
本作は中国兵の被害としてのゴア描写が多いですが、その全てが惨くも美しい愛国の精神を体現するシーンです。「愛国的ゴア」と名付けたいくらい…。爆発四散するシーンをエンドクレジットにまで使っているのはちょっと笑いそうになりましたが…。
ラストの部隊の唯一の生存者となった伍万里も、「もう戦争は嫌だ」ではなく、「第7中隊を再建してください」(意訳:みんな第7中隊のような兵士になりましょう)と言い切るわけですから。
このように戦死を「カッコいい」と思ったり、「国に身を捧げる兵士になりたい」と思わせられれば、国威発揚の戦争映画の役目はしっかり果たせたわけですね。
娯楽性が高いからこそ
国威発揚は一旦脇に置いて、『1950 鋼の第7中隊』と『1950 水門橋決戦』の戦争映画のエンターテインメント性を眺めてみると、そのクオリティは凄まじかったです。
とくに中国映画は、大勢の群衆を主軸にしたプロダクションセットの作り方に熟練しているなとあらためて実感しました。ハリウッドよりもこの部分は練度が高いかもしれません。
『1950 鋼の第7中隊』の序盤の、爆撃から逃げるために列車からみんなで外へ退避するシーンからしてスケールのデカさを強調しますが、その後の電波塔をめぐる白兵戦、戦車戦、さらには新興里を包囲する攻勢。逃げる側から攻める側への転換、フィールドがどんどん拡張していく自然な流れ。あらゆる点が精密に構成されています。
その場にあるいろいろなものを駆使しながら、全部の戦闘をみせてくれるので、とにかく贅沢です。これはたぶんカンフーとかのアクションの見せ方の構図を、戦争映画に拡大して応用しているからだと思うのですが、単調にならないんですね。いつも違う戦い方をしていて、観ていて飽きません。
『1950 水門橋決戦』にいたっては、水門橋がメインのバトルフィールドになり、ここの立体的なゲリラ戦がまた見せ方が上手くて…。パイプを駆け上がる者もいれば、崖の上から捨て身で降りてくる者もいる。これぞ奇襲の醍醐味!という見せ技の連続です。なんかオンライン集団戦の戦争ゲームのプレイ動画を多視点で観ているような気分だった…。
ただ、忘れてはいけないことは、こういう娯楽性の高さが国威発揚にはぴったりだということです。よく「政治的な映画は嫌だ、気楽に楽しめる純粋な娯楽映画がいい」なんて言う人がいますけども、プロパガンダ的な映画というのは往々にして非常に娯楽性が高いもの。本作はそれをみせつけてくれます。
そして映画の中に国威発揚を仕込むのは、何も中国映画だけの特有ではありません。どんな国の映画であろうと、国威発揚の効果が潜んでいないか、考えながら鑑賞するのは大事だと思います。
シネマンドレイクの個人的評価
–(未評価)
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
以上、『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)Bona Entertainment Company Limited All Rights Reserved.
The Battle at Lake Changjin (2021) The Battle at Lake Changjin II (2022) [Japanese Review] 『1950 鋼の第7中隊』『1950 水門橋決戦』考察・評価レビュー
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