残された者にできること、そして映画がすべきこと…映画『マイ・ブロークン・マリコ』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:日本(2022年)
日本公開日:2022年9月30日
監督:タナダユキ
自死・自傷描写 DV-家庭内暴力-描写 児童虐待描写
マイ・ブロークン・マリコ
まいぶろーくんまりこ
『マイ・ブロークン・マリコ』あらすじ
『マイ・ブロークン・マリコ』感想(ネタバレなし)
現実では遺骨を盗んだら大変だけど
人が亡くなったとき、火葬されれば、たいていは「遺骨」や「遺灰」に行き着くことになります。「ヒト」から「モノ」になってしまうわけです。
でもこの遺骨などは単純に「モノ」扱いになるわけでもありません。そのへんの箪笥とか衣類とかパソコンとかありふれた「モノ」とは、実は法的にはかなり扱いが異なってきます。
日本において原則的に遺骨は「祭祀財産」として認識されるそうで、誰でも分かち合えることはなく、誰かひとりが祭祀財産の所有権を持つ祭祀継承者となります。そして遺骨は自由に処分や譲渡などができず、法律に従わないといけないです。
また、もし遺骨を盗む人がいれば、通常の「モノ」であれば「窃盗罪」ですが、遺骨となると刑法に基づいて「死体損壊等罪」となってしまいます。死体を傷つけたら死体損壊等罪になるのはイメージできますが、遺骨を盗んでも死体損壊等罪に該当するんですね。なので遺骨を無断で引き取ったり、他人から奪ったり、勝手に捨てたりするのは、弔う気持ちがあろうがあるまいが法的にアウトなのです。
こんなことを言うと死者に失礼ですが、遺骨って何かと面倒な代物なんですね。死んでからも面倒をかけるなんて、ちょっと嫌な気分ですけど…。
今回紹介する映画もまさに遺骨をめぐる物語なのですが、法律的なことは一切無視しているので、気にかけることなく味わうことができます。まあ、いないとは思いますけど、この映画で描かれる行為をリアルで実行してみようということはやらないでね…。
そんな映画が本作『マイ・ブロークン・マリコ』です。
本作は“平庫ワカ”によって2019年に「Comic BRIDGE online」に掲載された漫画が原作です。漫画自体は4話しかないので短いのですが内容はなかなかに感情的なボリュームがある一作となっています。
あるひとりの若い女性の主人公が、昔からの友人の同年代の女性が突然亡くなったことを知ります。そしてある事情からその亡くなった友人の遺骨を家族から奪い去り、逃避行にでる…という、かなりアクロバティックなストーリーです。
現実感のない設定ではありますが、受け止めきれない死へ追悼と世間への行き場の無い感情をダイナミックに物語に変換しているとも言える物語は、心を激しく揺さぶってきます。
そんなインパクト大な原作を映画化したのは、2001年の『モル』で監督デビューして注目を集めた“タナダユキ”。このデビュー作『モル』は、生理中に自殺者と目が合って高熱が出るという特異体質の主人公を描く、これまた相当に個性的で強烈な話なのですが、確かにその“タナダユキ”監督なら『マイ・ブロークン・マリコ』はぴったりかもしれません。
“タナダユキ”監督はこれまで『百万円と苦虫女』(2008年)、『ふがいない僕は空を見た』(2012年)、『お父さんと伊藤さん』(2016年)、『ロマンスドール』(2020年)と定期的に作品を生みだし続け、つい最近は福島県南相馬市に実在する映画館「朝日座」に集う人間模様を描く『浜の朝日の嘘つきどもと』というテレビ映画を手がけたばかり。“タナダユキ”監督作を今まで1度も見たことがないという人でもこの『マイ・ブロークン・マリコ』から入ってみるのもオススメです。
その『マイ・ブロークン・マリコ』で主役の座に陣取るのが、今や若手人気俳優のひとりである“永野芽郁”。2015年の映画『俺物語!!』でヒロインに抜擢されて以降、主に青春映画を足掛かりにキャリアをホップステップジャンプで駆け上がっていましたが、ここ近年では『そして、バトンは渡された』や『母性』など新しいフェーズのキャリアも顔を覗かせており、俳優としてまた違う輝きを見せ始めている気配も…。
そんな中でのこの『マイ・ブロークン・マリコ』は“永野芽郁”の青春映画的な初期キャリアの雰囲気をバシっと蹴飛ばして取っ払う、イメージ・チェンジャーとなる映画になったのではないでしょうか。今作ではガサツでギラつく目が離せない主人公を熱演しています。
共演するのは、『余命10年』『TANG タング』の“奈緒”、『東京喰種トーキョーグール』『初恋』の“窪田正孝”、『ウェディング・ハイ』の“尾美としのり”、『沈黙のパレード』の“吉田羊”など。
85分と短い上映時間なので時間拘束的には気軽に鑑賞できますが、一方で『マイ・ブロークン・マリコ』は児童虐待や自傷の直接的な描写をともなうので、その点においては留意してください。
『マイ・ブロークン・マリコ』を観る前のQ&A
オススメ度のチェック
ひとり | :原作未読でも |
友人 | :エンタメではないが |
恋人 | :やや重い話だけど |
キッズ | :児童虐待描写あり |
『マイ・ブロークン・マリコ』感想(ネタバレあり)
あらすじ(前半):テメェに弔われたって…
何気ない昼のひととき、営業の仕事をする会社員のシイノトモヨはスーツ姿のまま定食屋でひとりラーメンをすすっていました。そのとき、店内にあるテレビから昼のニュースが流れます。
「本日未明、中野区在住の26歳の女性が自宅マンション5階のベランダから転落し、亡くなっているのが発見されました」
シイノは目もあげずにラーメンに夢中でしたが、亡くなった人物の名がニュースで読み上げられると、手を止め、目をあげて固まります。
「イカガワマリコさん、26歳」
店をでて、スマホのLINEでマリコに連絡してほしいとテキストを送るシイノ。けれども既読はつかず、電話をしても呼び出し音が鳴るばかり。茫然と立ち尽くしながら呼吸が早くなるシイノでした。
マリコはシイノのダチです。昔が思い出されます。2人一緒に物件を眺めたこともありました。安いところはないか、家を出たいと気楽にぼやくシイノに対し、マリコは「シイちゃんと暮らしたい」「築50年でも60年でもいいから今すぐここに引っ越したい」と呟きます。「あたし、料理できねぇけどいいの?」「いいの、私が料理するから。でね、おばあちゃんになってもシイちゃんとずっと一緒にいる」…そして無垢な笑顔を向けるマリコの顔。
今、シイノは部屋でスマホのLINE画面で見つめていました。ベッドに倒れ込んでため息をつきます。
マリコとは生徒の頃からよく話していました。マリコに花火をやらないかとぶっきらぼうに声をかける中学時代のシイノ。公園に集合だと約束するも、マリコは現れず、トモヨは帰ることにします。シイノはマリコの家に寄りますが、中から聞こえてくるのは罵声と暴力の音。思わず「開けろ!コラァ!」とシイノは叫ぶと、痣だらけのマリコが申し訳なさそうにドアを開けて謝ってきて、そして閉じます。立ち尽くすしかできないシイノ…。
現在、シイノは出社してすぐにでていき、転落のマンションの現場へ足を運びます。ポツンと誰が置いたかもわからない花が寂しくあるだけです。
シイノは家の前に行き、中を片付けている大家らしき人に「彼女の友人だった者なんですけど」と声をかけますが「もう何もないですよ。遺品は両親が持っていったんで」と大家らしき人は軽く説明します。「あの…亡骸って実家でしょうか」と訊ねると、直葬らしくもう火葬されたとのこと。
会社に戻り、上司が営業をすっぽかしたことを怒ってくるのを「すんません」と冷たく謝って流しつつ、休憩中、またLINE画面を眺めるシイノ。ついこの間まで楽しくLINEをしていたのに…。
ふと思い立ち、家に帰ったシイノは台所から包丁を取り出し、「今度こそ私が助ける、待ってろ、マリコ」とそれを持って出かけます。
息を整え、到着したのはマリコの実家。チャイムを押し、営業口調で訪問したかのように装うと、ドアが開き、マリコの父の再婚相手のタムラが顔を出します。成果をださないと上司に怒られると泣き真似をすると、あがらせてくれました。
部屋には仏壇の遺骨の前で座るマリコの父の姿。シイノは遺骨に飛びつき、それを抱え、包丁を突きつけ、激昂するマリコの父を威嚇。
「テメェに弔われたって…」
感情が爆発したシイノはマリコの遺骨を持ってベランダから飛び降り…。
マリコではなくシイノの物語として
映画『マイ・ブロークン・マリコ』は「死」から始まる物語であり、これは『やがて海へと届く』なんかと同じで「レジリエンス」のストーリーです。レジリエンスというのは、大切な存在の死を経験したときに自分が立ち直っていく能力を表す心理学用語。起きてしまった死はどうしようもありません。後は残された者がそれをどう受け止めていくか…。
本作『マイ・ブロークン・マリコ』はタイトルにあるとおり、主人公のシイノではなくマリコが主軸にあるのですが、でもやっぱりこれはシイノの人生の物語です。
回想でもマリコのことを掘り下げるエピソードばかり描かれますが、一方でシイノはどんな人間だったのか。中学時代からタバコを吸っており、家族の円満な雰囲気は無さそうで、友達付き合いもマリコ以外になく、カレシを作っている気配もない。実のところ、シイノはマリコ以上に孤独そうに見え、弱音は全く見せませんが、常に強気で耐えてきたのかもしれません。
そんなシイノがマリコの死によってついに弱さを露呈し、グラグラと人生の支柱が揺れ始めていき、自分でもどうすればいいのかわからなくなっていく…。シイノにこそ希死念慮が襲いかかってくる…そんな状態です。
“永野芽郁”の熱演がそのシイノの不安定さを絶妙に表現していて良かったです。単純にヤンキーっぽい女では収まらないキャラクター性があるからこそですよね。
そのシイノが遺骨との「まりがおか岬」に向かう旅先で偶然に出会うマキオという男。“窪田正孝”が漂わす「こいつは警戒しても意味ない奴だな」と直感させる妙な無害さ。でもその無害さは安心とは違って、どこか生きることへの執着の薄さにも通じているような…。実際にマキオ自身は過去に自殺未遂をしていたようで、自身の経験としての人生論をさりげなくシイノに語り、彼女を復帰させます。
この映画におけるレジリエンスを高める方法としての「グループ参加など、良い人間関係を構築する」というステップがこのマキオとの談話で達成されたかたちです(おそらく最後のマリコのシイノあての遺書も大きな意味があったはずですが)。
マキオは男性キャラクターとしてシイノを変にステレオタイプに扱ってこないのもいいですね(食事処でのオッサン男性客たちのシイノへのハラスメントな態度と対比される)。
暴力を描く作品による無自覚な暴力
男性社会における支配と暴力の中で、シイノとマリコが微かに支え合う姿を描くという点で、『マイ・ブロークン・マリコ』は良い空気を映し出すシスターフッド作品ではありました。
ただ、個人的にちょっと気になったのは、マリコの描写。他のキャラクターはそんなでもないのですけど、このマリコだけはかなりステレオタイプな色合いが濃いんじゃないかなと思ったり。
要するに本作におけるマリコはいかにも世間が連想しそうなベタな「病んでいる人」のキャラクター描写そのものすぎるかな、と。絵に描いたようなアレです。
児童虐待の描写があるのは作劇上しょうがないにしても、「もしシイちゃんにカレシとかできたら私死ぬから」と目の前でリストカットをしてみせたり、シイノに対しても狂信的な陶酔を見せるようなストーカー気質であったり、はたまた「自分は壊れている」と淡々と肯定してみせたり…。
これらは「実際にそういう人はいる」とか、そんなチェリーピッキングなサンプル理論はもちろん論外ですが、ともかく非常に作品映えするようなエキセントリックさだけが誇張されています。
虐待サバイバーや精神疾患の人を描くにしても、さすがにこれは作品に都合よくデコレーションされすぎなのかなと思います。こういう風にデコレーションして作品で利用することも、「殴る」のと同等の威力が当事者にはある立派な暴力のひとつだと思うのですが…。
暴力を描く作品による表象によって上塗りされる無自覚な暴力というものは、クリエイターであれば常に意識しておいてほしいですよね。
マリコは命を絶ってしまい、シイノはマキオという存在と偶然に出会えたという物語的なミラクルで事態を解決していますが、本当であれば専門的なケアを受けるべきなのだろうし…。
作中内で描けなかったにせよ、エンドクレジット後に入念に専門相談先の提示をするなど、作り手ができる範囲での責任の持ち方はいろいろあったはずで…。
「模倣効果」のことも考えると(たぶん『マイ・ブロークン・マリコ』は模倣効果がありそうではある)、『最高に素晴らしいこと』の感想でも書きましたが、自死などの描写についてはかなり慎重に考慮し、専門のガイドラインを熟知したうえで、作品としてどうかたちにするかを考えた方がいいのかなと思います。漫画から映像にすると視覚的なインパクトが増すので、負の効果が上乗せされるリスクもありますから。
ROTTEN TOMATOES
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IMDb
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シネマンドレイクの個人的評価
作品ポスター・画像 (C)2022映画「マイ・ブロークン・マリコ」製作委員会 マイブロークンマリコ
以上、『マイ・ブロークン・マリコ』の感想でした。
My Broken Mariko (2022) [Japanese Review] 『マイ・ブロークン・マリコ』考察・評価レビュー