人によってはおふざけでは済まされない…映画『セカンド・アクト』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:フランス(2024年)
日本公開日:2025年8月15日
監督:カンタン・デュピュー
自死・自傷描写 LGBTQ差別描写
せかんどあくと
『セカンド・アクト』物語 簡単紹介
『セカンド・アクト』感想(ネタバレなし)
カンタン・デュピュー、簡単紹介
今回は監督から説明しないと始まらないので、さっそくいきましょう。
その人とは「カンタン・デュピュー」です。
名前に「カンタン」とありますが、日本語の語呂とは相反して簡単(カンタン)な映画を作る人ではありません。作家性的には「ヘンテコ・デュピュー」と呼んでやりたいくらいで…。
ちなみに名前の「カンタン(Quentin)」はフランス人なのでフランス語読みをそのままカタカナにしている結果です。綴りだけでみると有名な監督“クエンティン・タランティーノ”の「クエンティン(Quentin)」と同じですけどね。
“カンタン・デュピュー”はもともと音楽のキャリアで最初に名をあげた人で、音楽界では「Mr. Oizo」の名で活動していました。とくに1999年に『Flat Beat』というインスト曲とそのミュージック・ビデオが予想外のバカ受けでヒットし、一躍話題の人に。
そんな中、10代の頃から映画製作にも興味があり、2001年に『Nonfilm』という作品で長編映画監督デビューします。初期は音楽ほど華々しく注目を浴びていなかったのですけども、2010年の監督3作目となった『ラバー』で流れが変わります。
そこから“カンタン・デュピュー”は知る人ぞ知るマニアックな監督として知名度を獲得することになります。
その作品の特徴は「ヘンテコ」と一言で言い切るには言葉足らずな、こう何と言いましょうか…不条理なシュールレアリスムなコメディが下地になっています。ときにひと目で奇抜、またときにメタ的で多層的、さらにときに観客を弄ぶ…。とりとめのない作品に観客は試されることになるような…。
2010年の『ラバー』は、意思をもった古タイヤが人を殺していき、2019年の『ディアスキン 鹿革の殺人鬼』は、鹿革ジャケットに異常な愛情を持つ殺人鬼を描き、2020年の『マンディブル 2⼈の男と巨⼤なハエ』は、偶然見つけた巨大なハエでカネを稼ごうとする者たちを映し、2022年の『地下室のヘンな穴』は、時間が半日進んで肉体が3日分若返る穴を取り巻く人たちを眺め、2022年の『タバコは咳の原因になる』は、タバコの有害性を武器に闘うスーパーヒーローチームを誕生させ…。
書き並べるとあらためて凄い「本当か?」って中身ですが、本当にそのとおりなのでね…。
2010年代後半からアメリカからフランスに制作を移したのですが、そこから制作スピードがやたら上がり、作品を連発。問題は日本で観れるのかという点で…。
ところが日本では“カンタン・デュピュー”監督作は限定公開か散発的な小規模公開がほとんどでしたが、2025年に3作品の新作が一挙公開となりました。
そのひとつが本作『セカンド・アクト』です。
日本では2025年8月15日に同時公開されたのは、『セカンド・アクト』の他に『ヤニック』と『ダリ!!!!!!』。この3作はとくに物語上の接続はなく、それぞれで独立していますが、広い意味で芸術の業界を風刺しているという点でテーマを共有しているとも言えます。
“カンタン・デュピュー”監督は、2014年の『リアリティ』など、こういう芸術業界風刺も皮肉たっぷりな人なので、テーマ的にはいつもどおりなのですが、日本では期せずして3作をいっぺんに観れるタイミングがやってきたので(実際は上映する映画館によって異なります)、より印象が深まるかもしれません。
で、肝心の『セカンド・アクト』がどういう内容なのかというと…。う~ん、あんまり言及しないほうがいいのかもしれない…。一応、ネタバレ要素が濃いめのプロットではあるので…。4人の主人公の会話劇…とだけ言っておきましょう。
俳優陣は、『けものがいる』の“レア・セドゥ”、『愛と激しさをもって』の“ヴァンサン・ランドン”、『ある人形使い一家の肖像』の“ルイ・ガレル”と、国際的な活躍も目立つフランス人俳優も揃いつつ、“カンタン・デュピュー”監督作では常連になっている“ラファエル・クナール”もそこに参加。“カンタン・デュピュー”監督作としてはかなり豪華な顔ぶれになりました。
なお、同名の邦題の映画があるので混同しないように気を付けてください。
『セカンド・アクト』は“カンタン・デュピュー”監督作らしく約80分と短いボリュームなので、観やすいと言えばそうですけど、ついてこれるかはあなたしだいです。
『セカンド・アクト』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 暴力的な自死の描写があるほか、さらにホモフォビアやトランスフォビア、または他にも他人を蔑視的に扱うセリフがあります。 |
キッズ | 低年齢の子どもにはわかりにくいユーモアです。 |
『セカンド・アクト』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
1台の車が停車し、神妙な面持ちで覚悟を決めたような髭面の男が自分を落ち着かせるように車から降り、目の前の人里離れた建物に向かいます。それは「Le Deuxieme Acte」と看板がでている平凡なレストランです。
質素な店内に入ると、おぼつかない手つきでドアにロックをかけ直し、明かりをつけます。まだ誰もおらず、広々とした室内がガランとしています。鏡の前で自分の長髪を整え、いそいそと開店準備を始めます。荒い息はそのままです。
ところかわって、友人同士のダヴィッドとウィリーが並んで歩いて何気ない会話をしていました。ダヴィッドは自分に好意を向けてくるフローレンスという女性がいたものの、彼女に全く惹かれておらず、彼女をウィリーに押し付けられないかと考えています。茶色のジャケットのダヴィッドは真剣な表情で悩んでいる様子。
しかし、赤いジャケットのウィリーは調子よく喋り続け、そのフローレンスとかいう奴は「醜いのか?」「デブなのか?」「障害者とか?」「オカマなの?」と失礼な言葉を並べ立て、あげくにダヴィッドのセクシュアリティさえもデタラメで揶揄います。
あまりに軽薄でまともに受け取ってもらえず、横にいるダヴィッドは苛立ち、大声をあげます。そんな問題発言が誰かに知られたら、まずいことになるし、こっちは本気で悩んでいるのに…。
無駄に空回りし続ける会話を続けていると、例のフローレンスから電話がきます。
今、彼女は父のギヨームと一緒であり、ダヴィッドを父に紹介しようと浮足立っていました。しかし、電話を終えると、ギヨームは車を勝手に降り、明らかに苛立ったように歩き出します。黄色いジャケットのフローレンスも父のあとをついていき、何がそんなに不満なのかと問い詰めます。
ギヨームは今回の仕事にかなり幻滅しているようです。いくら喚いても苛立ちはおさまりません。
ところが、スマホが鳴り、ギヨームがでると、態度は一変。どうやらポール・トーマス・アンダーソンからの仕事のオファーがあったようで、先ほどの失望的な雰囲気は消え失せ、ギヨームの表情は急に楽観的で晴れやかになります。
ダヴィッドとウィリーの2人、そしてフローレンスとギヨームの2人。それぞれがあの「Le Deuxieme Acte」のレストランの前で合流。
4人は揃って食事をすることになりますが…。
曖昧な演技の境界線

ここから『セカンド・アクト』のネタバレありの感想本文です。
『セカンド・アクト』、ひとつの舞台だけで展開されるシンプルなワン・シチュエーション会話劇ながら、“カンタン・デュピュー”監督お得意のメタ構造が炸裂している映画でした。しかし、他の監督作と比べても、答えを煙に巻く傾向が濃い一作で、あまりに曖昧すぎるので「え? 結局、何を描いているの?」と困惑させる放置感の強い内容でもあったと思います。
本作の4人の主人公、ダヴィッド、ウィリー、フローレンス、ギヨームは俳優で、作中で提示されるとおり、これはいわゆる劇中劇…「映画の中で別の物語の役を演じている」というのが事実です。
問題はどこまでが演技で役に徹しているのか、どこからが演技ではない素の振る舞いなのか、その境界が極めて曖昧だということです。
普通だったら「カット!」と声がかかって、舞台裏が見えた瞬間にその境界があることを観客は理解できます。しかし、本作はそのベタな展開が終盤に訪れるものの、どうもそれ以前から俳優の素の振る舞いがみえていたような気もしてくる…。それは観客の「そうであってほしい」という願望的な錯覚にすぎないのか…そうやってこちらを弄ぶのが本作の嫌らしさでした。
序盤は、ダヴィッドとウィリー、フローレンスとギヨームの2組に分かれて、ひたすら長い距離を歩いてお喋りしているシーンが続きます。トラッキングショットと呼ばれる撮影手法で撮っており、それはエンディングでそのカメラを動かす長いレールがただただ映るシーンでも印象づけられます(ちなみに飛行場の滑走路で撮っているらしいです)。
つまり、このパートはいかにも「これは撮影中なので演技です!」と強調するわけですけども、ここの会話の時点で俳優の本音みたいなのが見えなくもないです。
例えば、ウィリーは非常に問題発言を連発しますが、ダヴィッドは「見られているぞ(撮られているぞ)」と警告します。演技している設定上は2人だけの会話シーンのはずなので「見られている」はずないのですが、確かにカメラには「見られています」。このカメラは世間の目線の暗示なのかと考察したくなるわざとらしいセリフ遊びです。
なお、この無神経な発言と叱責の中ででてくる「travelo」という単語は、トランスジェンダーや異性装者を軽蔑するフランス語だそうです。なので日本語でニュアンスが一番近いのは「オカマ」でしょうかね。
フローレンスとギヨーム組みもどっこいどっこいです。業界悲観と名声への渇望が駄々洩れしています。
そして文字どおりの「第2幕(セカンド・アクト)」に移行するレストランのパート。ここも行き当たりばったりのスケッチの連続のように見えつつ、スクリーン上のペルソナと本人がめまぐるしく入れ替わっているような、こちらも掴みどころのない曖昧さを提供します。
とくに各人がひとりで電話して部外者と会話するシーンは完全に素の本音に思えます。
このレストランではレールを走るカメラの存在感はなくなるものの、今度は「まわりの客」という目線が存在するようになり、あからさまに「見られている」ことをやっぱり強調します。しかも、ダヴィッドにいたっては近くのマダムと会話しだす始末です。
“カンタン・デュピュー”監督は、別に「俳優の演技力って素晴らしいですね」と褒め称えるためにこの映画を考えたわけではないでしょうし、かといって何かを批判するでもない…ただただ淡々と「見られることを意識して演技すること」の普遍性と滑稽さが浮かび上がってくる感じではありました。
それは俳優という職業だけでなく、私たち一般人が常日頃から「演技している」という実態も突き付けたりもするような…。
茶番劇をさらに茶番にする
『セカンド・アクト』は劇中劇という1点をオチにしません。そこにもうひとつ上乗せしてきます。
それは…監督は「AI」だった…という顛末。
何の感情もなさそうなスタッフがノートパソコンを前に掲げて、ギヨームとフローレンスのもとに持っていき、そこにはディスプレイに映った男性のAIアバターがいて、俳優に指示をだしています。何を聞いても同じ言葉を繰り返したり、あげくにはエラーを起こして言葉が正常に出てこなかったりと、お粗末なAIです。
それでも俳優たちはAI監督に無邪気に接して仕事をしています。それが日常であるかのように…。人間がAIを指示するのではなく、人間がAIに指示されているというあられもない姿。
「第2幕」って業界の次の未来…という意味なのか?
このAIのオチは正直言って、茶番劇をさらに茶番にするので、過剰すぎるのではないかとも思わなくもないです。
一番の問題点は、今の時代、業界で活用されるAIの風刺が最もデリケートなネタだということです。
“カンタン・デュピュー”監督はAIが氾濫した時代でも仕事を失わないでしょうが(ネームバリューのあるフィルムメーカーなので)、もっと末端の無名の労働者たちはAIで職を失いかねない瀬戸際におり、必死です。キャンセルされるどころではない、リストラとの闘いですから。
ちょっと今回の風刺は、“カンタン・デュピュー”監督の上から目線(安全圏からの批評)が意図せずして出ちゃっているところは否めないかなとも思います。
『セカンド・アクト』には裏の主人公とも言える存在がいて、それがあのレストランでワインを注げずとも働くステファンなのですが、この人物の行きつく顛末は悲劇的で、それ自体が業界で搾取される人たちの絶望を表しているようにも思います。
とは言え、やはりわかりにくいというのもあって、先ほどのAIオチとの接続も明示的ではないので、あまり響いてはきません。
“カンタン・デュピュー”監督の不条理なシュールレアリスムとの食い合わせが悪いものもあるってことですかね。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
△(平凡)
作品ポスター・画像 (C)Chi-Fou-Mi Productions セカンドアクト
以上、『セカンド・アクト』の感想でした。
The Second Act (2024) [Japanese Review] 『セカンド・アクト』考察・評価レビュー
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