その始まりはあの本だった…ドキュメンタリー映画『サタンがおまえを待っている』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:カナダ(2023年)
日本公開日:2023年8月8日
監督:スティーブ・J・アダムズ、ショーン・ホーラー
さたんがおまえをまっている
『サタンがおまえを待っている』簡単紹介
『サタンがおまえを待っている』感想(ネタバレなし)
モラル・パニックを起こすのは悪魔ではない
「モラル・パニック(moral panic)」という言葉があります。
突然の恐怖感によって理性や論理的思考を支配または妨げてしまう現象は「パニック」と呼ばれますが、この「モラル」の「パニック」とは何でしょうか。
モラル・パニックとは「脅威に対する道徳的懸念が、実際の危険性とは釣り合いが取れないほどに爆発すること」と説明されます(Scientific American)。道徳的懸念が事実と大きく食い違う…という点が特徴です。道徳的懸念が事実無根のときもあります。
人類の歴史において幾度となくモラル・パニックは観察されてきました。
例えば、ローマ帝国時代の初期キリスト教徒の迫害、ユダヤ人の迫害、魔女狩り、暴力的な漫画やゲームが子どもを犯罪に駆り立てるという主張、反ワクチン…。日本だと「朝鮮人やクルド人が社会を脅かしている!」といったようにしばしば外国人差別が根っこにあったり、モラル・パニックは日常茶飯事。
このモラル・パニックにおける脅威に該当するものは「フォーク・デビル」と呼ばれます。そして「devil(悪魔)」の名のとおり、「悪魔」がモラル・パニックの中心となった有名な社会現象がありました。
それが「サタニック・パニック(悪魔パニック)」と呼ばれるもので、今回紹介するドキュメンタリーはこの悪魔パニックの原点を取り上げた作品です。
そのタイトルが『サタンがおまえを待っている』。英題は「Satan Wants You」です。
本作はカナダのドキュメンタリーなのですが、なぜカナダなのかと言うと、悪魔パニックの元凶がカナダのある精神科医のひとりの男から始まったからで…。
雰囲気からしておどろおどろしい不気味な…それこそ「悪魔は実在した!」みたいなオカルト系のイロモノ・ドキュメンタリーのようにみえますが、そういう作品ではありません(日本の宣伝がちょっとそう思わせるような筋違いな感じになっているのがあれですけど…)。
社会の裏側で密かに子どもたちが悪魔崇拝儀式の餌食となって虐待されている…そんな主張がいかにデタラメで、どのようにして深刻なモラル・パニックとして拡散していったのか…。その実態をアーカイブ映像とともに整理していく…パニックをセンセーショナルに煽るメディアとは真逆の、検証型のドキュメンタリーです。
『サタンがおまえを待っている』を監督するのは、2021年のドキュメンタリー映画『Someone Like Me』で、難民としてカナダのバンクーバーに移住したウガンダ出身のゲイの男性と、その彼を性的マイノリティ難民支援団体を通して支援するカナダ人のグループを中心に映し出してみせた、“スティーブ・J・アダムズ”と“ショーン・ホーラー”のコンビ。
この『サタンがおまえを待っている』も、性的マイノリティの迫害と同根の問題を扱っているので、テーマ的に重なります。
最初に難点を挙げるなら、ドキュメンタリーとして『サタンがおまえを待っている』は悪魔パニックというものを知り、それについて考察する入門書としてお手軽ですが、そこまで包括的ではないですし、やはりボリューム不足なところは否めません。本当なら数話構成のドキュメンタリー・シリーズがふさわしいでしょうね。
後半の感想では、ある程度の補足的な説明も交えつつ、本作『サタンがおまえを待っている』を掘り越していきたいと思います。
『サタンがおまえを待っている』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | — |
キッズ | 虐待や性犯罪の話題があるので、保護者のサポートが必要です。 |
『サタンがおまえを待っている』感想/考察(ネタバレあり)

ここから『サタンがおまえを待っている』のネタバレありの感想本文です。
ローレンス・パズダーと精神医学界の背後
ドキュメンタリー『サタンがおまえを待っている』において、諸悪の根源と言い切っていいであろう人物は、カナダの精神科医のローレンス・パズダーです。具体的には1980年に彼が著者で出版した『ミシェル・リメンバーズ(Michelle Remembers)』という本が元凶です。
ただ、本作だけを観ていると、このローレンス・パズダーという男だけが常軌を逸していたのだと思ってしまいかねないのですけども、実はもっと前から時代的な社会情勢が積み重なり、この1980年の本で臨界点に達したかのように大パニックに至っています。
例えば、「ヘイズ・コード」です。これはアメリカ映画製作配給業者協会によって1934年から実施され、1968年まで名目上は存続した映画製作上のガイドラインで、保守的な宗教勢力が推し進めたもので、宗教的に不道徳とされる描写(暴力や恐怖、性/クィア表現など)を規制し、実質的に自己検閲を助長しました。
また、暴力やホラーの要素が濃いコミックも1950年代からとくにアメリカで非難を集め、自己検閲の圧力が増しました。
つまり、保守的な宗教勢力が社会規範を定め、そこから逸脱するような“何か”を「危険だ」と断定する出来事はずっと起きていたんですね。
しかし、1960年代から1970年代にかけてその保守的な宗教勢力の勢いが少し陰り始めます。それはカウンターカルチャーが若者を虜にし、時代の変革の流れが起きたからなのですが、焦った保守的な宗教勢力は右派の政治勢力と手を組み、「宗教右派」として確立します(詳細はドキュメンタリー『Bad Faith』を参照)。そして、また同じ手口を手を染めるわけです。

それこそ、「同性愛は子どもを脅かす!」などといって、当時のゲイ・プライドの運動を危険視したりしていたのですが、悪魔パニックもこれに連なるものと言えます。
で、この宗教右派の勢力に精神医学界が関わっているというのは、あまり言及されづらいことかもですけど、実際は深い関係があるのです。
前述したコミック自己検閲の騒動の際も、精神科医の“フレドリック・ワーサム”が1954年に著した『Seduction of the Innocent』という本にて「10代の若者の漫画読書と暴力的・反社会的行動との関連性を証明した」と主張したことが、ひとつの引き金になっていました(University Archives)。
また、もうひとつ理解しておきたいのは、当時の「反“精神医学”」の潮流です。
当時の精神医学界は混沌としていて、今と違って科学的なコンセンサスを重視する風潮は鈍く、ひとりの精神科医の学説がそのまま祭り上げられるようにまかりとおったり、非人道的な研究が行われたりしていました。当然、これに対して倫理や科学的正当性から批判する人も現れ、さすがに精神医学界も姿勢を正し、『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM)を改定していき(1980年に「DSM-III」が発表)、より客観的な診断をしようと目指します(それでも同性愛が精神疾患扱いになるなど偏見が根強いままなのですが)。
今は人権運動や障害者権利運動との融合によって「障害の社会モデル」に基づき、スティグマや差別を意識した診断体系に変わりつつありますが、数十年前までは本当に酷い惨状でした。
一方でこういう「より客観的な科学を目指そう」という動きに反対する「反“精神医学”」も存在していたんですね。その一派は、「精神疾患は道徳的な問題なのであって、信仰心が根源を正す」という前提がありました。この考えはお察しのとおり宗教原理主義からのウケがいいです。宗教的に気に入らないものは全部が精神疾患なのであり、それは信仰心でもって治せるという流れに持っていけますから。
話は本作に戻りますが、ローレンス・パズダーはまさにそういう宗教道徳的な土台を持つ精神科医ということです。
『ミシェル・リメンバーズ』が出版される1980年よりも前、『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)、『エクソシスト』(1973年)、『オーメン』(1976年)という3本のホラー映画が話題となり、いずれも悪魔主義を題材にし、「子どもが悪魔儀式に搾取される」という内容でした。作中では「サタン教会」の話題性も取り上げられています。
ローレンス・パズダーは映画の規制を訴えるのではなく、「映画のようなことが現実で起きている!」と主張することで、よりパニックを苛烈なものにし、保守的な宗教信者層の心を一気に掴んだのです。ざっくりした流れしか説明していませんが、これが悪魔パニックの背景にあるものです。
ミシェル・スミスの本心
では書籍『ミシェル・リメンバーズ』にて「5歳の頃に悪魔崇拝教団に引き渡されて残忍な儀式に捧げられた」と告白した(正確にはセラピーでローレンス・パズダーが証言を引き出した)ミシェル・スミスは一体何なのか。
このドキュメンタリー『サタンがおまえを待っている』では、関係者のインタビューなども通して、ローレンス・パズダーとミシェル・スミスの関係を探っていきます。
もともと1960年代にアフリカ滞在中に現地の悪魔的儀式に魅了されたローレンス・パズダーは、個人で精神科クリニックを開業しており、多くの患者をみていました。ミシェル・スミスはそのひとりでした。
本作では冒頭とラストで同じミシェル・スミスのセラピー時の自白的な音声が流れますけど、本作を観る経験を通すと、最初とラストの印象はだいぶ変わります。
もちろん真実はわかりませんけど、少なくとも本作では「権威のある男性によって若い女性がマインドコントロールされる」という一例にすぎないのではないか…と示唆されます。
保守的な家庭でミシェル・スミスは悲劇的な流産を経験し、立ち直れずに苦しんでいるところを、ローレンス・パズダーと出会い、「悪魔」という概念に触れます。そして幼少期のあの悪魔崇拝儀式の出来事は自分を受け入れてくれる知的な男性に気に入られたかったから作り上げた空想なのか、はたまたローレンス・パズダーに誘導的に植え付けられたのか、それは不明ですけど、2人はそういう共犯的な関係にあったのは事実です。
なにせローレンス・パズダーとミシェル・スミスは不倫関係となって後に結婚しますからね。
本来、保守的な宗教の世界では不倫はご法度ですが、悪魔から救ったというエピソードがあれば、お目こぼしももらえるでしょう。
まあ、そういう下世話なスキャンダルに持っていかなくても、「医師と患者(男性と女性)」という不均衡な権力作用がどういう有害な結果をもたらすかという警鐘として、本作を受け取ることはいくらでもできると思います。
悪魔パニックは今も形を変えて…
ドキュメンタリー『サタンがおまえを待っている』で映し出されるように、ローレンス・パズダーとミシェル・スミスの一件はお茶の間の話題として大いに盛り上がりますが(モラル・パニックはいかにメディアが助長するのかがよくわかる)、これは悪魔パニックの始まりにすぎません。
1983年の告発に端を発する「マクマーティン保育園」事件は、数百件という児童性的虐待の疑惑(ただし何の根拠もない)に膨れ上がり、騒ぐだけ騒いで終焉します(ドキュメンタリー『Uncovered: The McMartin Family Trials』がより詳しく整理しています)。
さらに現代、悪魔パニックは形を変えて継続中です。
「ピザゲート」や「Qアノン」はリベラルや左派の背後に悪魔や小児性愛者がいると主張し(ドキュメンタリー『Qアノンの正体』も参照)、“ドナルド・トランプ”の支持の礎となりました。
アレックス・ジョーンズのような陰謀論者も今やインターネットのスターです。
また、性的マイノリティは格好の悪魔パニックのターゲットであり、とくにトランスジェンダーを狙ったモラル・パニックはとどまるところを知りません。「子どもが手術させられて性別を変えられている!」「トランスジェンダーのせいで女性トイレが消えている!」「トランスジェンダーのアスリートがスポーツ大会で勝ちまくっている!」…といった一連のパニックは全て悪魔パニックの模倣です。
「ジェンダー・イデオロギー」や「トランスジェンダリズム」という言葉を使って悪魔化し、「ジェンダー」の言葉を抹消しようとする試みはついに国連の場にまで侵食し始めました(Propublica)。そして「LGBTグルーミング陰謀論」は堂々と表現の自己検閲に波及し、ヘイズ・コードの時代が再現されつつあります。
今の時代、「悪魔パニックは自分には関係ない」と言い切れる人間はひとりもいません。悪魔パニックにハマる人間は愚か者だけだと他人事に思っているなら、それは自分が悪魔パニックの渦中にいる事実に気づいていないだけ…。
悪魔にパニックになる自分を抑えること…この自制が本当に将来を左右する時代になったなとつくづく実感します。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
作品ポスター・画像 (C)666 Films Inc. サタンがお前を待っている サタン・ウォンツ・ユー
以上、『サタンがおまえを待っている』の感想でした。
Satan Wants You (2023) [Japanese Review] 『サタンがおまえを待っている』考察・評価レビュー
#カナダ映画 #悪魔 #陰謀論 #モラルパニック #メディア倫理