この映画はあなたを試す…映画『ルース・エドガー』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2019年)
日本公開日:2020年6月5日
監督:ジュリアス・オナー
ルース・エドガー
るーすえどがー
『ルース・エドガー』あらすじ
バージニア州アーリントンで白人の養父母と暮らす黒人の少年ルース。彼は文武両道に秀でており、生徒たちや教師陣からも慕われている。模範的な若者として称賛されるルースだったが、ある課題のレポートをきっかけに、同じアフリカ系の女性教師ウィルソンと対立するようになり、それが日常が大きく揺るがすとともに、ルースの存在への疑念へとつながっていく。
『ルース・エドガー』感想(ネタバレなし)
あなたは狡猾に試される
映画に登場するキャラクターを見ていると、たとえその映画が初見だとしても展開が読めてしまうことが往々にしてあります。「あ、コイツは終盤で本性を現して悪者になるな…」とか、「あの人は悪そうに見えて案外と良い奴だろう…」とか、「彼と彼女は敵対して、きっと正義はこちらにあるような描き方に落ち着くんでしょ?」とか。
なぜそんな推測ができるのかといえば、映画の物語はある程度のフォーマットがあったりするもので、それさえ知っていると自然と流れも見えてきてしまうわけです。社会問題を題材にしていれば(もしくは背景に描いているだけでも)、それが予備知識になって登場人物の動機や目的、立ち位置が先読みできることも多々あります。
それが期待どおりの面白さになったり、逆につまらなくなったりするのかは作品や観客自身の感性にもよりますが…。
一方でそのフォーマットを逆手にとって観客のミスリードを誘い、心理の裏を突くような映画もあり、それもまた一本取られた気分になって興味深いです。こういう映画の場合は、前提になるフォーマットがわかっていないと、何がどう観客を翻弄しているのかも理解できず、ポツンと取り残されることになりかねませんから、少し難易度も上がったりしますけどね。
最近だと『ゲット・アウト』は、観客の予想がつく定番の構成を巧みにひっくり返した一作で、文句なしに絶賛を集めました。あの作品もその物語内に巧妙に仕組んだ仕掛けをわかっている人と、わかっていない人では、全然感想も変わってきて、すごく嫌らしい意味での“人間テスト”になっています。
そして今回紹介する映画も、これまた一層わかりづらく、狡猾と言い表してもよいぐらいに洗練された手口で観客を揺さぶってくる作品です。それが本作『ルース・エドガー』。
物語はルース・エドガーという高校生をめぐる物語。品行方正で非の打ち所がない優等生でしたが、ある出来事をきっかけに周囲の人間たちの中で彼に対する認識にズレが生じ始め…という心理スリラーになっています。
きっと鑑賞中は「これは何を描いているのか?」と主題が見えてこないので困惑するかもしれません。でもそれこそこの映画の狙い。本作から何を受け取るか、あなたは試されているのです。
原題は「Luce」なのに邦題はフルネームで「ルース・エドガー」になっています。正直、原題のままの方が絶対に良いですし、こうでないとタイトルの意味がなくなってしまう理由もあるので、残念ではあるのですけどね…。
『ルース・エドガー』は批評家に称賛されており、インディーズ映画を扱うインディペンデント・スピリット賞では監督賞・主演男優賞・助演女優賞の3つにノミネートされました。
監督は2015年に『The Girl Is in Trouble』で長編デビューし、2018年には『クローバーフィールド・パラドックス』を手がけた“ジュリアス・オナー”。『クローバーフィールド・パラドックス』の方は散々な評価に終わったのですけど、『ルース・エドガー』で要注目のインディーズ映画監督の仲間入りをしたかたちに。
本作には原作があって、“J・C・リー”の戯曲だそうで、“J・C・リー”も映画の脚本に参加しています。
俳優陣は、『イット・カムズ・アット・ナイト』『WAVES ウェイブス』そして本作とこのところ立て続けに名演を見せて業界に印象を残している“ケルヴィン・ハリソン・Jr”が主役です。
また、『ドリーム』や『シェイプ・オブ・ウォーター』など安定感のある好演で作品をいつも支えてくれる“オクタヴィア・スペンサー”、『ザ・ブック・オブ・ヘンリー』など相変わらず活躍の幅が広い“ナオミ・ワッツ”、タランティーノ監督作品ではおなじみの“ティム・ロス”など。知名度が低いあたりだと、“アンドレア・バン”というアジア系女優も意味深な役柄で登場し、物語を撹乱します。
とにかく俳優たちの素晴らしい演技合戦でサスペンスにグッと深みがましているので、ぜひともそこは期待してください。
先が読めない展開がジワジワと迫ってきますが、本作の物語を予測する意味なんてありません。鑑賞後はいろいろと語り合いたくなる映画になるでしょう。
オススメ度のチェック
ひとり | ◎(静かに心を動揺させられる) |
友人 | ◯(議論がしたくなる問題作) |
恋人 | ◯(エンタメ性は皆無だけど…) |
キッズ | △(難題を扱った大人のドラマです) |
『ルース・エドガー』感想(ネタバレあり)
優等生の光と闇はどちらが本物?
冒頭に映るのは学校のロッカーのひとつ。扉が開き、勉強道具などが入ったその中に紙袋が置かれます。ここでその袋を置いた人の姿が手すらも一切映らないのが上手いですね(後の主人公の発言の真偽がわからないようになっている)。
ある男子高校生がスピーチをしています。自信満々に堂々とした態度。それでいて威圧感を感じさせない、爽やかな人柄が自然に伝わってくる。その語り口は一流の政治家のように饒舌で人を惹きつける力があり、まるで若きバラク・オバマの再来のようです。拍手喝采の中、謙遜な対応を忘れることなく、ユーモアで場を和ませます。
彼はバージニア州アーリントンの高校に通うアフリカ系アメリカ人のルース・エドガー。スピーチの終了後はそれを聴いていた両親のもとへ。両親は白人です。実はルースは養子で、紛争が続くエリトリアからこのアメリカに来たのでした。養父母のピーターとエイミーとの仲は良好で、二人もは誇らしそうにルースを見つめています。
そこへ演説会の後、歴史教師のハリエット・ウィルソンが近寄り、ルースの模範的な振る舞いを彼の両親の前で褒めました。
帰りの車の中、ルースはウィルソンに対してちょっとした不快感を口にしますが、エイミーは、立場のある女性に抱きがちな抵抗感だろうとサラッと済ませ、なごやかな空気のまま帰宅。
別の日。授業中、スマホをいじっていた生徒がウィルソンに厳しく注意されます。ルースはそれをじっと見つめていました。
エイミーはウィルソンに学校へ呼び出されます。ここでもルースを褒めてくれますが、本題はそこではありません。ウィルソンがおもむろに見せたのは授業の課題でルースが書いた文章。これに懸念があるようで、エイミーに読むように手渡します。状況が読めないエイミーはとりあえず一読。そこには「フランツ・ファノン」という人物について書かれていました。
エイミーは「フランツ・ファノン」を知らないので尋ねます。この人物はアルジェリア独立運動で指導的役割を果たした革命家で、植民地主義を批判していました。彼は目的のためなら暴力も必要だと主張していたことでも有名です。ブラックパワー・ムーブメントに影響を与えたのは言うまでもなく、ブラックパンサー党もフランツ・ファノンの思想なしには生まれなかったかもしれません。
それを理解したエイミーですが、小児科医として心のケアにも自信があるのでルースが暴力に走ることはあり得ないと反論します。ましてや自分の子を疑う気は親としても毛頭ありません。
しかし、危機感を払拭していないウィルソンは、ルースのロッカーをすでに調べ、その中に違法性がある危険な花火を見つけたと紙袋を渡します。それの中を見ることもなく、教師といえどもプライバシーの侵害だと憤慨するエイミーですが、ウィルソンは家族間で会話を持って欲しいと強く念を押しするように頼みこみ、その袋を手渡すのでした。
嫌な話をふいに聞かされてしまったエイミーは帰宅したピーターにすぐに報告。ルースに直接話してみるべきではないかと夫は言いますが、エイミーは躊躇し、結局その花火の入った袋は戸棚の奥に隠しておきました。
翌日、ウィルソンは課題について話し合うという口実でルースを呼び出します。もちろん狙いはあの課題の文章について聞くことです。ルースいわく、あれは課題の中での必要に応じて書いたフランツ・ファノンの意見であって、自分の個人的見解ではないと弁明。それでもウィルソンの疑念は残ったまま。疑われていることを感じたルースはしぶしぶ帰りかけるも、ふいにウィルソンの好きな祝日を質問してきます。クリスマスだと受け答えするウィルソンに、ルースは自分は独立記念日が好きで、花火の打ち上げが気に入っているとペラペラ喋り、パーン!と手で花火のジェスチャーをします。ウィルソンはその態度に挑発的なものを感じたのか、ルースに一喝して追い返しました。
ルースは優等生なのか問題児なのか、理想なのか危険なのか、真実なのか嘘なのか、状況はますます混迷していくことになり…。
ルースの立場:故郷も名前も奪われた
『ルース・エドガー』は本当に巧みな心理劇です。一方で理解をしようという読み込みを安易にやめてしまうととても残念な作品印象で終わりかねません。
雑なまとめ方をしてしまうと「優等生がその期待や重圧に少しばかりの反抗をする」という内容ですが、そんな反抗期の不安定さを描く軽々しいものではないです。また「大人は子どものことをわかっているのか?」「正しさって怖いよね」なんて評論は本作への最も無味乾燥な視点でしかないとも思います。
本作を味わううえで、やはり主軸になるのはルース・エドガーという主人公です。彼は何を目的にしているのか? 彼は何を考えているのか? それが作中で終始突きつけられる謎でもあります。
それを把握するにはまずルースの生い立ちと今の現状を整理すると良いはずです。
ルースはエリトリア(アフリカ大陸北東部にある国)出身でどうやら少年兵だったようです。とはいっても少年兵といえどもピンからキリまでいるでしょうし、どういう体験をしたのかはわかりません。作中では明確な回想や情報提示はないです。
そんなルースは白人夫婦のもとで養子となり、「アメリカの黒人」として育てられます。しかし、ルースはアメリカ生まれの黒人たちとは見た目は同じでも、本質は違うため、同一化はできません。もしルースがアメリカ出身だったら、それがどこであれ(スラムのような場所であっても)アフリカ系のコミュニティにアイデンティティを置くことができるでしょう。でも本当の意味で生粋のアフリカから来たルース、そして両親が裕福な白人という状態は、彼の中で孤立と特権が同居した、極めて複雑な環境に身をおくことを余儀なくされています。
そのルースの“自己の無さ”を最も物語るのがラストのシーン。ルースはスピーチをします。その内容は要約するとこうです。
「自分の本名を親が発音できなかったから、新しく“光”を意味するルースという名前を授かり、アメリカで人生をやり直せて嬉しいです」
一見するととても素晴らしい話。ルースも笑顔で自信に溢れたスピーチをします。でも冷静に考えると故郷を滅茶苦茶にされたあげくに(その遠因には先進国の植民地支配がある)、唯一の自分の名前まで捨てさせられたというのは屈辱的でしかないです。このスピーチのリハーサルを誰もない部屋でするシーンが中盤にありますが、そこでルースは涙を流し、感情に顔を歪めます。彼のその辛さは誰にも目撃されず、理解もされません。
正しくないと社会に置いてもらえない人
その孤立を深める優秀なルースはある行動に出ます。物語上を表面だけ見ると教師ハリエットを追い出したかっただけにも見えますが、私はルースはこの社会全体を試したかったのだろうなと感じました。
自己を定めるアイデンティティを喪失しているルースは、模範的な“正しさ”でとりあえず自分を補強するしかありませんでした。
“正しさ”というのはこれも善きこととして扱われますし、みんなが正しくありなさいと言われますが、その“正しさ”を背負う重さが常にフェアだとは限らないと思います。例えば、優等生ほど些細な間違いが自分の人格評価に響くことはあるでしょう。人種がマイノリティであればマジョリティよりも、または性別が女性であれば男性よりも、正しさの重圧は重く圧し掛かるものです。一方で、正しくないことをしても全然責められない人もいますし、そういう人に限って「ポリコレが…」などと愚痴を言ったりするのも定番の光景。
ルースはその不公平をまさしく火種になる「花火」によって浮き彫りにさせます。銃でも薬物でもなく花火という、良い方にも悪い方にも使えるアイテムなのがまた捻っていますね。
養父母のピーターとエイミーは良い人です。でもフランツ・ファノンの名前を知らないあたりを見ると、養子にするという正しい行いはする一方で、植民地支配などの歴史には疎いのがわかります。つまり、あの夫婦も無自覚な差別意識を漂わせてしまっています。
一方のウィルソンはある意味、ルースと同じような立場です。それは正しくなければこのアメリカ社会で生きられないという存在。ここで“オクタヴィア・スペンサー”を起用しているのが嫌みかつ上手いですよね。彼女は“良い人”オーラが漂う黒人女優の代名詞みたいな人ですから。
ウィルソンは完全に黒人家族で、なおかつ決して裕福とは言えず、ローズマリーというひとりにはさせづらい家族を抱え、この社会で暮らしています。そう考えるとルース以上に“正しさ”の重圧に苦しんでいるはず。ラストではそれまであり得なかった威圧的罵声を発するのは、彼女の正しさの仮面がとれたことを示すのかな。
ルースはそんなウィルソンさえも模範的な“正しさ”を生徒たちに押し付ける側に回ってしまっていることに怒りを感じており、同時にこれはおそらく自分も将来的にウィルソンのように生きるしかないことへの恐怖心もあるのかなと思います。
結局、学校という名の社会は、ウィルソンというお古になった“正しさ”を体裁のために追い出し、今度はルースというウケのいい若手の“正しさ”に乗り換えたのです。「アメリカの良心の象徴」を支配者層の都合のいいようにセッティングする。これは今日のアメリカまでずっと行われていること。
本作は演出も地味ながら冴えわたっており、とくに作中で何度か登場する不気味なBGM…「ドゥン、ドゥン、(ヨ!)」みたいな(文字にすると変だな…)音に、チアリーダーの掛け声が重なって、ルースが走るという構図。これ自体、妙にホモ・ソーシャル的バイオレンス衝動をムンムンと匂わすような感じで、アメリカ社会の消えない歪みそのものを強調していました。常に暴力が誘っているような…そういう空気ですかね。
あなたが信じる“正しい人”は誰のための“正しさ”を持っているでしょうか。その人はあなたの見えないところで泣いているかもしれません。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 91% Audience 77%
IMDb
6.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)2018 DFG PICTURES INC. ALL RIGHTS RESERVED. ルースエドガー
以上、『ルース・エドガー』の感想でした。
Luce (2019) [Japanese Review] 『ルース・エドガー』考察・評価レビュー