そう言われても私はここにいる…映画『アイム・スティル・ヒア』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:ブラジル・フランス(2024年)
日本公開日:2025年8月8日
監督:ウォルター・サレス
動物虐待描写(ペット)
あいむすてぃるひあ
『アイム・スティル・ヒア』物語 簡単紹介
『アイム・スティル・ヒア』感想(ネタバレなし)
権力者を批判する人から排除される
2025年7月に日本では参議院選挙が行われ、事前の大方の予想どおり、新興政党である「参政党」が大きく議席を獲得し、存在感を印象づけました。
参政党は当初の2020年はコロナ禍の最中で反ワクチンの主張を掲げることから始まり、近年は反外国人・反移民を土台とする「日本人ファースト」を大々的に展開し、政治的な風潮を避けたがる日本国民の大衆心理を手玉にとり、漠然とした不安を「他者のせい」にして勢力を増大させることに成功しました。
海外メディアも選挙結果を一斉に報じ、参政党を「国家主義」(BBC)、「反グローバリズム」(The Conversation)、「反LGBTQ」(Washington Blade)、「トランピアン」(CNN)、「右翼ポピュリスト」(The Guardian)、「極右」(Politico)、「欧州の他の極右グループの成功の模倣」(Reuters)などと解説。エンタメ系メディアでも無視できない話題もありました(Automaton)。
一方の日本メディアは切り込んだ報道に躊躇する傾向にあって、どうしてもバランスをとろうとノーマライゼーションなバイアスのかかった向き合い方をしがちです。独立系メディアの「Tansa」などがかろうじて果敢に直視する姿勢をみせていました。
そんな中、参政党を「極右」を名指しした数少ない日本メディアのひとつであった「神奈川新聞」でしたが、参政党は自身の記者会見から神奈川新聞社の記者を排除。これに新聞労連は「報道の自由への圧力」だとして抗議する事態となりました(神奈川新聞)。
参政党はスパイ防止法の制定を真っ先に進めており、この記者の排除は、批判者を「非国民」として迫害する意思の表れともいえる一件でした。
どんな独裁者もまずは邪魔者を排除しようとします。権力を批判する者は鬱陶しいからです。それは世界各地で、あらゆる歴史で起きてきたこと。
今回紹介する映画はまさにそんな「批判者の排除」によって家族が脅かされる姿を映し出した、ブラジルでの実話に基づく作品です。
それが本作『アイム・スティル・ヒア』。
本作は1970年代のブラジルから物語が始まる、ブラジル史を映した一作です。と言っても、そこまで詳細な歴史の知識は必要なく、最低限として、「ブラジルでは1964年から軍事クーデターが起きて軍事独裁政権が1985年まで続いた」とだけ理解しておけばいいです。
この時代のブラジルの独裁政権は、権威主義的かつ国家主義的な体制であり、反共産主義運動などを下地とする社会の保守層からの支持を得ていました。そして広範な検閲を実施し、言論の自由や政治的反対意見を抑圧し、深刻な人権侵害を犯すことに…。
本作『アイム・スティル・ヒア』はそんな歴史を舞台にしているわけですが、それでもそこまで歴史の知識を必要としないのは、あくまでひとつの家族のみに焦点をあてた「家族ストーリー」になっているからです。
本作は実話を基にしており、ある理由で政治的迫害に直面して引き裂かれることになった家族を描いています。原作の回顧録はこの家族の当時は子どもだった人が書いたものであり、生々しい心情が映画にも投影されています。
『アイム・スティル・ヒア』はブラジル公開時は極右団体からボイコットを受けるも大ヒットしたそうで、しかも、米アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞し、作品賞と主演女優賞にもノミネートされるなど、ブラジル映画としては異例のアメリカでの大健闘をみせました。今のアメリカにとってこの1970年代のブラジルの政治迫害は他人事ではないと感じる人が多かったのではないかな…(日本もそうなってきましたが…)。
『アイム・スティル・ヒア』を監督したのは、1991年に『殺しのアーティスト』で長編監督デビューし、『セントラル・ステーション』(1998年)、『ビハインド・ザ・サン』(2001年)、『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004年)、『オン・ザ・ロード』(2012年)と高い評価お受けた“ウォルター・サレス”。『仄暗い水の底から』のハリウッド・リメイクの『ダーク・ウォーター』(2005年)を手がけたりもしましたが、久しぶりの監督作の『アイム・スティル・ヒア』で評価がまた最高潮に達して本当に良かったです。
ちょっと過激な発言をする政治家が当選してもどうせ身近な生活には何の影響もないだろう…そう油断しているとあっという間に、そして静かに淡々と「家族」さえも奪われていく…。『アイム・スティル・ヒア』はその恐ろしさを私たちに伝えてくれる映画です。
『アイム・スティル・ヒア』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
基本 | 犬の虐待的な死が描かれます。 |
キッズ | 社会背景を理解する必要があります。 |
『アイム・スティル・ヒア』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
1970年、ブラジルのリオデジャネイロ近郊のレブロンビーチ。ルーベンス・パイヴァと妻のエウニセは5人の子どもたちとこの地で穏やかに暮らしていました。子どもたちは家から目と鼻の先にある砂浜でくつろぎ、今日は外で犬を拾ってきて飼うと言い出します。
ルーベンスは元下院議員で、1964年の軍事クーデター勃発の際に公職を剥奪されていました。しかし、今はキャリアを少しずつ取り戻しつつありました。
そして実は国外にいる政治活動家や亡命者を支援し続けるなど、反政府運動のパイプ兼サポート役を担ってもいました。このことは家族の誰も知りません。ルーベンスの書斎で密かに仲間内と行われていることでした。
現在は一見すると平穏な街並みですが、軍による検問があちこちで行われ、銃を突き付けられ、国家に反逆する者に該当しないかを調べられることもあります。長女のヴェラはそんな横暴を体験し、こんな場所にはもういられないと感じ始めていました。
ここには家族の思い出がたくさんあります。けれどもそれとは裏腹に政治社会はどんどん抑圧を露呈し、たったひとつの家族すらもその空気を肌で感じつつありました。
駐ブラジルスイス大使が消息不明になる事件が起き、ブラジルの政情不安はますます悪化。ルーベンスも危険性の高まりを痛感します。
友人のフェルナンドはヴェラをロンドンに連れて行こうと考え、確かにそのほうが安全と言える状態ではありました。しかし、家族全員がここを離れるというわけにはいきません。
そんなある日、家に銃を携帯した複数の訪問者がやってきます。なんでもルーベンスを取り調べしたいようです。大人しく従い、まるで仕事先に行くように相手方の車に乗って家を出るルーベンス。子どもにもごく普通に接して出発します。
残された家族ですが、家にはなおも監視者が常駐し、家族は気まずさを感じます。そしてルーベンスは夜になっても戻っては来ませんでした。
黙っていることはできないエウニセは行動にでますが…。
政治迫害を身近に感じる一線

ここから『アイム・スティル・ヒア』のネタバレありの感想本文です。
『アイム・スティル・ヒア』は「家族モノ」の体裁をとっており、それが非常に「歴史」を描くうえで効果的に効いてくるタイプの作品です。やはり人というのはなかなか歴史や政治を身近に実感できませんが、家族というレイヤーを重ねると一気に無視できないものになる。本作は演出的にしっかり狙ってきています。
序盤の舞台となるレブロンのビーチ・エリア。いかにもリゾートっぽい地域であり(実際、レブロンは今も高級観光地です)、ルーベンス・パイヴァの一家も裕福なので、その映し出される生活はとても理想的。「こんな暮らししてみたい」と第一印象で憧れてしまう人もいるはずです。
しかし、その序盤からヴェラと友人が遭遇する公権力による検問での取り調べが挿入され、空気が一変します。ただし、これもあくまで少し離れた先には「危うさ」もある程度であり、まだ「ちゃんと品行方正でいればきっとお咎めなしで問題ないだろう」と現実逃避する人もいるかもしれません。
ところがルーベンスが連行されてから決定的な場面転換が起きます。ここのパートもいきなり「警察だ!」みたいな露骨な突入があるわけでもなく、淡々と指示に従って同意のもとで連れて行っている…という表向きの行動がまた別の意味で怖いんですね。当然「逆らえない」という前提があり、そもそも「逮捕」ではなく「調査」というかたちにして弁護士の付随などそうした基本的人権すらもないがしろにされており、事実上、強制連行に等しい…。なすすべもない…。
ここから家族の日常は異質な存在によって崩されます。あのホームビデオの温かい空気はもうありません。家のリビングにいる「他者」。当たり前のように佇み、子どもとサッカーゲームで遊んでいる「違和感」。私たちの知っている家族の姿はどこへ消えてしまったのか…。
本作のタイトルは複雑な意味合いをもたらしていますが、この政治迫害がいつの間にか家族の空間(here)に紛れて居ついている…というあたりが前半部の静かな恐怖です。
そしてその恐怖の核心は、エウニセが一時的に逮捕されて拘留される施設(もはや全容もわからない)にて、音だけで感じ取ることになります。拷問が行われていると思われますが、それを直接的には映しません。独房の暗闇でその気配が伝わってきたとき、この国が人権というものを暗部で徹底的に蹂躙している事実を確信させます。
逆に言えば、これだけの恐怖を味わって初めて「ああ、ここは家族の安心できる理想の居場所ではなく、簡単に権力に脅かされる脆さがあるんだ」と理解できるわけで…。
政治迫害を現実的に認知できる一線はやっぱり多くの人にとっては「家族」なんだなと本作を観ていてつくづく感じました。
体験は忘却できないし、歴史は修正できない
『アイム・スティル・ヒア』の後半は主人公であるエウニセが、権力に闘いを挑む姿を描きます。
『ラテン・ブラッド ザ・バラッド・オブ・ネイ・マトグロッソ』のような映画では同時代における芸術分野での若者や労働者階級による反抗が映し出されていましたが、『アイム・スティル・ヒア』は比較的裕福な階級の人たちによる反抗の姿です。どの階級でもそれぞれのやりかたで政治体制に抗っていたんですね。
ここではエウニセのとても知的かつ不屈の精神が印象的で、動じることなく突き進み続けます。演じた“フェルナンダ・トーレス”の佇まいも派手さはなくとも見事でした。なんでも泣くシーンを一切カットしているそうで、安易にお涙頂戴になっていないのも良かったところです。
そんなエウニセの姿勢に周囲に人たちも動かされていきます。交友のある人たちはやっぱり裕福なので、多少の迫害はあれど耐えていれば安定した生活を送れます。だから権力に公然と逆らわず口を閉じることにしていた人もいます。でもそんな人たちの心をエウニセは揺らし、「恵まれた立場にいる者だからこそ、権力の横暴を黙認してはいけない」と引き留める。エウニセは一種の正義の道しるべみたいなものでしょうか。現実社会ではこういう人の地道な献身こそスーパーヒーロー的なのだと思います(決して敵対心を演説で煽るような奴ではなく…)。
25年後の1996年になっても闘いは継続し、映画自体はラストに2014年を描きます。この時代のジャンプもとても味わいがあったなと思いました。要するにまた最後は「家族モノ」に戻るんですね。でも以前とは違っています。それは人生の体験は消せないということです。たとえ、アルツハイマーであろうとも…。それは歴史は修正できないものだというメッセージでもあったでしょう。
ひとりの闘いの活動は幕を閉じても、意思を受け継ぐ人はいます。本作の原作も息子のマルセロ(大人になると車椅子姿なのは20歳のときに湖での怪我でそうなったそうです)が書き記しました。
今、起きている政治迫害の兆候、そしてこれから起きるであろう政治迫害の実態を、できる限り記録し、歴史に残す。私たちの身近な生活を守るうえで欠かせないことを、この2025年の日本で噛みしめるにはぴったりな映画でした。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
–(未評価)
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第81回ヴェネツィア国際映画祭の受賞作の感想記事です。
・『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(金獅子賞)
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作品ポスター・画像 (C)2024 VideoFilmes/RT
Features/Globoplay/Conspiracao/MACT Productions/ARTE France Cinema アイムスティルヒア
以上、『アイム・スティル・ヒア』の感想でした。
I’m Still Here (2024) [Japanese Review] 『アイム・スティル・ヒア』考察・評価レビュー
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