ナチスの会計係を罪に問えるのか…ドキュメンタリー映画『アウシュビッツの会計係』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:カナダ(2018年)
日本では劇場未公開:2019年にNetflixで配信
監督:マシュー・ショイチェット
アウシュビッツの会計係
あうしゅびっつのかいけいがかり
『アウシュビッツの会計係』あらすじ
アウシュビッツ強制収容所でユダヤ人の大量虐殺に関わった罪で、第二次世界大戦から70年以上の時を経て起訴された元SS隊員。当時の仕事は会計係であり、殺しに直接は関与していない。世界の注目が集まる中で、彼は母国ドイツの法廷に立たされる。この裁判によって、老いていく当事者たちは、未来に何を残すのか。
『アウシュビッツの会計係』感想(ネタバレなし)
昔の行為は罪に問えますか
皆さんは自分が昔に犯した“罪”をどこまで覚えているでしょうか。内容はなんでもいいです。私は、子どもの頃に、学校からの帰りが遅くなったことを「雪ですべって転んだ」と親に嘘をついたことを覚えています。全身雪まみれで、明らかに雪遊びで寄り道したのはバレバレなのに、なんで当時の私はこの嘘でイケると思ったのか…(というか、雪をはらえばいいのに)。
まあ、今となって思い出話です。
でも“思い出話”では済まされない“罪”もあります。それこそ犯罪性をともなうものだったら、重大です。「時効」というものもある場合もありますが、それはあくまで法律における便宜上の概念で、罪が消えるわけではありません。
こういうとき、「罪と時間」というのは、人間の永遠の難題です。例えば、50年前に犯した罪を償わなくてはいけないのか、いや、それが100年、200年と前だったらどうなのか。そして、この議論がよくなされるのが「戦争犯罪」です。
有名どころで言えば、やはり「ホロコースト」でしょう。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人への大量虐殺。
え、でも、それは裁判が行われて有罪になって終わったのでは?
残念ながら終わっていません。それどころか、現在でもなお、ろくに取り組まれてもいません。そのことについて現状を追いかけたドキュメンタリーが本作『アウシュビッツの会計係』です。
確かに当時のホロコーストに関して、関与したナチスの上層部の人間は、「アドルフ・アイヒマン」など著名な人物がいますが、ナチス・ハンターによって追い詰められ、裁判で有罪となりました。でもこれはほんの一握りなのです。
『アウシュビッツの会計係』ではこう説明しています。
1945年には「約80万人」のSS隊がいて、そのうち現在まで「10万人以上」を捜査し、その中でも「6200人」が裁判にかけられ、殺人で有罪になったのはたったの「124人」だ、と。
しかも、戦後まもなく行われたナチス関係者の裁判では、司法省の人間の99%はナチスだったゆえに、公正な裁判が行われず、ほとんどが免罪もしくは3年で釈放など軽い刑期で終わったというのです。
さらにここからもっと厄介な問題に話を移しますが、困ったのは“直接、非道な虐殺に手を染めていない者”への罪。殺人を横で見ていた者、逃げないように監視していた者、所有物を略奪した者、輸送に関わった者…こういう“その他の大勢”をどう裁くべきなのかという難問。
『アウシュビッツの会計係』では、2014年にユダヤ人など30万人の虐殺に関わったとして殺人幇助罪に問われた、アウシュビッツ強制収容所の“会計係”の現在93歳の男の裁判の様子を追いかけながら、今日までのホロコースト裁判の歴史的な経緯を整理した貴重な一作です。
当然ながら単純な勧善懲悪な善悪論では語られません。当時の犠牲者(サバイバー)の複雑な心境を交えながら、この難問にどう向き合うべきか、一緒に議論するようなドキュメンタリーです。
そして、今回はホロコーストの話ですが、これは私たちの身の回りにある、あらゆる“罪”に重ねることのできる問題だと思います。イジメ、交通事故、性犯罪、テロ…どんなものでも“どこまでが罪なのか”…これは常に紛糾するテーマです。
本作『アウシュビッツの会計係』はただのひとつの歴史的事件を主題にしたドキュメンタリーという以上に、いろいろな示唆を与える重要な内容になっていると思います。
まずは“知ること”が“考えること”につながる第一歩。ドキュメンタリー作品は歴史を目で見て学ぶ教科書です。今後、ナチスを題材にした映画を観るうえや、映画で描かれるヴィランの在り方を考えるうえでも、意義のある一作じゃないでしょうか。
オススメ度のチェック
ひとり | ◎(社会問題の理解が深まる) |
友人 | ◯(関心があるなら) |
恋人 | △(盛り上がる内容ではない) |
キッズ | ◯(教育的な意義はある) |
『アウシュビッツの会計係』予告動画
『アウシュビッツの会計係』感想(ネタバレあり)
茶番が歴史を変えた
終戦直後からのホロコーストに関わった者に対する裁判の数々が、犠牲者にとって無念にしかならない結果に終わっていったという歴史はすでに語ったとおり。
当時のドイツでは看守を有罪にする法的な根拠がなかったというのが、非常に大きな障害になったことも『アウシュビッツの会計係』では説明されます。
その打つ手なしの足踏み状態を前進させるきっかけとなったのが「デミアヌク訴訟」でした。
「ジョン・デミアヌク」(Netflixの字幕では「ドミアヌク」と表記もしていて統一感がない…。一般的には「デミャニュク」と表記することも多いです)。彼はもともと「イヴァン」という名前で、アメリカに移住したときに「ジョン」に改名したのですが、トレブリンカ強制収容所で「イヴァン雷帝」と呼ばれて残虐行為をした人物として1988年にイスラエルの裁判で死刑判決を受けます。ところが、実は別人だと判明し、一転して無罪に。本人もこれで終わりだとホッとしたことでしょうけど、ここから思わぬ状況に展開が転んでいきます。
2001年、デミアヌクは今度は別の強制収容所で看守として働いていた事実を追求され、またもや裁判に。前回と違うのは、殺しの実行者ではなく、あくまで看守だということ。これは罪に問えるのか、大きな注目が集まりました。
その過程で、89歳という高齢ゆえの健康上の問題で裁判をそもそも受けられる状況にないと主張するも、隠し撮りでデミアヌクがスタスタと割と普通に歩いて話して過ごしている日常をバッチリおさえられてしまい、大嘘が発覚。それでも“私は10分後に死にます”と言わんばかりにストレッチャーで法廷に運ばれてきたり、車椅子に乗って“コミュニケーション不全”風に振る舞ったりと、やりたい放題。こんなのアカデミー賞ではないですよ、ゴールデンラズベリー賞ですよ。
2011年、ミュンヘン地方裁判所は、いたって健康な91歳のデミアヌクに有罪判決を言い渡したのでした。正直、デミアヌクのあの茶番のせいで印象を悪くしたことによる墓穴掘りなんじゃないかと思わなくもないですが…。でも、デミアヌクのこれは極端すぎますが、実際にこうやってナチス側の人間がすでに高齢すぎるあまりに“老化で忘れているのか”、”わざと忘れたふりをしているのか”、判断ができないという難しさも他事例でも頻繁に見られるようです。ちなみにデミアヌクはこの有罪判決を受けた次の年、老人福祉施設で死去したそうです。まあ、ここまで高齢だといつでもポックリ逝くことはあるでしょうけど、なんか本当にギリギリの裁判だったんだなぁ…。
ともあれ、これがホロコースト裁判の流れを変えることになります。
システムに加担する恐ろしさ
デミアヌク訴訟によって、殺しの手助けは違法であるという結論の前例が生まれ、これまで膠着状態だったホロコースト捜査は一気に加速。ドイツの中央捜査局は元ナチの捜査を再開したものの、大半は死亡しており、容疑者候補リストは虚しく黒塗りされていく中、ある人物の名前が浮上。
それが「オスカー・グレニング」。93歳。
彼は“自分は元SS隊員だ”と自らの顔だしでBBCのインタビューに出ていたので、特定は容易でした。2015年、ドイツのリューネブルクで世界の注目が一斉に集まる中、初公判が開かれます。
70年前に犯したことは罪にできるのか。この難問への反応はさまざま。地元住民の間でも、「残虐行為だ。刑罰の対象だ」と罪を肯定する意見から、「捕まるのを恐れて生きてきたのでじゅうぶん責めを受けた」「命令に従っただけだ」と同情して罪を否定する意見まで、真逆の方向から言葉が噴出。一方、今回の裁判にも深く関わるトマス・ワルター弁護士は「アウシュビッツでは年齢関係なく殺されたのに、なぜ彼の年齢を気にするのか」という主張をし、他の専門家たちも「例え歯車の一部でも、その歯車がなければ動かない」と厳しい声が相次ぎます。
そもそも会計係とはいえ、ただの金勘定だけをしていたわけではないようでした。簿記として、“仕分け”管理にも関与していたと指摘されていきます。列車で輸送されてきた大量のユダヤ人を、奴隷にする側とすぐさま処刑する側に分ける作業。こういう強制収容所の“システム”を支える仕事の生々しい実態は、『マウトハウゼンの写真家』などホロコースト映画でもよく描かれているとおり。
サバイバーである当事者の証言がその“システム”の恐ろしさを証明するように、さらなる生々しさを追加します。
『アウシュビッツの会計係』を観ていると、“システム”に加担してしまうことの怖さをまざまざと見せつけられますし、恐ろしいことに現代の私たちの世界でもこれは普通にあることですよね。政治、会社、学校…どんなコミュニティでも、直接的ではないにせよ間接的に“罪”の後押しをしてしまうこと。
イジメの裏にはそれを黙認している同級生もいるでしょうし、ヘイトクライムならその発端となる憎悪を煽ったサイトやSNSの存在があるわけで。現代社会に生きる私たちもどこかで何かの“会計係”をしているのかもしれない…そう考えると…。
でも“システム”に加担してしまうのはしょうがないんだというのも安易すぎる物言いであって。作中でも「命令に逆らったことで処罰を受けたSS隊員はゼロだ」という、専門家の指摘もあったとおり。逆らえなかった、洗脳だった、犯罪ということを知らなかった…そんな言い訳はできないことなのか。
漠然とした言い方になりますけど、社会って怖いなと思いました。
裁判の意義を胸に抱いて
一方で、どこかの誰かと違ってグレニングは自分のやったことを素直に話します。彼もまたその“システム”の恐ろしさを意図しているのかどうかはともかく証明したかたちです。
それが思わぬ効果をもたらすのが皮肉なところ。つまり、今の世の中にはネオナチなど「残虐行為は無かった」と主張するホロコースト否定論者がウジャウジャいます。そんなホロコースト否定論者にとってナチス当人だったグレニングがホロコーストの存在を語るというのは、不測の事態というか、自己矛盾になりかねない、イレギュラーな出来事。絶対にユダヤ人の言論を信じない彼らも、ナチスだった人の意見は無視しづらい。
このあたりの当時の加害者が今のネオナチを揺るがす展開。『帰ってきたヒトラー』で描かれたまんまの流れですね。
また、そのグレニングに関して、許しと抱擁で迎えた犠牲者の女性が現れたことで、被害者コミュニティも揺らいでいるのもまた、先ほどの揺らぐホロコースト否定論者と鏡合わせの構造で興味深いものです。
これは『チャナード・セゲディを生きる』でも見られた、これまた難しい葛藤です。
無論、こんな裁判ひとつで「許すor許さない」を決めることではないです。でも、ひとつ言えるのは少なくともグレニング裁判は平行線をたどっていたホロコースト問題の状態に変動をもたらす一粒の雫になったのかもしれないということ。ナチスが消えても新しい“オルタナ”が出現してしまう昨今、私たちがすべきことは何なのか、深く考えさせられます。
作中で登場した、アメリカ陸軍初の戦犯捜査官にしてニュルンベルク裁判でも活躍した「ベンジャミンフェレンツ最高検事」の語る言葉が胸に刻まれます。
「目標は復讐ではなく、単に正当な罰を与える事でもない。この国際的な刑事訴訟において、人間は人種や信仰に関係なく、平和で権威ある生活を送る権利がある事をこの法廷で主張する」
二度と歴史を繰り返してはならない。その使命だけがズシンと圧し掛かる作品でした。
それにしても現時点で加害者も被害者も90歳以上。もし双方ともこの世から消えてしまったら、あの悲惨な歴史をどうやって説得力を持って語り継げるのか、不安になってきますね。
日本も例外ではありません。従軍慰安婦問題など戦争犯罪をめぐる遺恨は残っています。ホロコースト以上にタブー視され、議論すらされません。これも、不可逆的な解決がどうのと宣う政治家ではなく、支持者に囲まれて偉そうにしているネット上のご意見番的なコメンテーターでもなく、ましてや粗雑な場当たり的やりとりしかないまとめサイトやSNSでもなく、ちゃんと当事者同士で向き合わないと、未来はないのでしょう。
「ヒト」という生き物の共通の特技は「語り合うこと」ですからね。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 100% Audience 83%
IMDb
7.2 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)Good Soup Productions
以上、『アウシュビッツの会計係』の感想でした。
The Accountant of Auschwitz (2018) [Japanese Review] 『アウシュビッツの会計係』考察・評価レビュー