「LGBT」という言葉はすっかり日本でも知れ渡りました。電通の調査によれば、「LGBT」という言葉の認知度について、2015年の調査では37.6%から、2018年の調査では68.5%、2020年の調査では80.1%と報告されており、数年の短期間で急速に上昇したことが窺えます。
一方でセクシュアル・マイノリティに関する言葉が勢いよく世の中に広まりつつあるものの、そのいろいろな言葉の意味を正確に理解するためのきちんとした学習の場は乏しく、ネット上でなんとなく聞きかじっただけの理解度でいるだけの人も多いはずです。上記の調査でもあくまで「認知度」を調べているだけにすぎず、正しく理解しているかは別問題。
まさに今はセクシュアル・マイノリティに関する数多の言葉が誤解・混同されながら、雑に飛び交っている状況とも言えます。
こうして混沌した状況にここぞとばかりに狙ってくるのが陰謀論です。
そこで今の日本(世界でもですが)で最も蔓延している陰謀論のひとつについて今回は解説しています。
それが「トランスジェンダリズム」です。
トランスジェンダリズムが陰謀論になるまで
基本の知識:「ジェンダー」とは?
そもそも「トランスジェンダリズム」とは何でしょうか?
その疑問に答える前に「トランスジェンダー(transgender)」について説明しないといけません。
しかし、「トランスジェンダー」という言葉について説明しようとすると、今度は「ジェンダー(gender)」という言葉を説明することから始めないといけません。
私たちはたいてい生まれたときに「性別(sex)」を割り当てられます。これは外性器で区分けされ、ぞんざいに言ってしまえば「“ちんちん”がついているか」で判断しているだけのものです。これは単にわかりやすいからそうする…社会・文化的慣習というだけの話です。この出生時に割り当てられた性別は、多くの国では身分証明書などの書類で「性別」の欄に最初に記入されることになります。
一方、性別にはもうひとつ概念があります。「ジェンダー」です。これは広範な意味を持ちます。社会的に構築される性別の概念であり、私たちはジェンダーとは無縁でいられません。ジェンダーは基本的に性別二元論と密接に関わって存在しています。つまり、「男」と「女」です。
例えば、「女の子なんだからスカートを着こなしなさい」「女は料理ができるようにならないと」「男の子は筋力を鍛えるべき」「男は泣き言を言うな」…こういう社会に当然のように押し付けられる諸々の「女らしさ」「男らしさ」もまたジェンダーであり、これは「ジェンダー・ロール」と言ったりします(WebMD)。そしてこれらのジェンダー規範が私たちの性別をより固定化します。要するに「スカートをはいていれば女」「髪が長ければ女」「胸が大きければ女」「女の子はピンク色が似合う」…といった具合に(Science-Based Medicine;Aeon Essays)。
「性別(sex)」と「ジェンダー(gender)」は対立する概念のように思われがちで、「性別(sex)」は生物学的なもので、「ジェンダー(gender)」は社会的なもの…と認識されやすいですが、それはいささか早計です。実際はそうではなく、WHO(世界保健機関)も「性別(sex)」と「ジェンダー(gender)」は異なる概念ながらも複雑な相互作用の関係にあると説明しています。私たちが思っている以上にこの両者の概念は複雑に絡み合っているのです。
基本の知識:「ジェンダー・アイデンティティ」とは?
出生時に割り当てられた性別も、ジェンダー・ロールとして社会が押し付ける性別らしさも、全てが自分ではなく他者や社会が決めたものです。そこに主体的なアイデンティティは存在しません。ゆえに多くの人はこれらの性別の扱われ方によって傷ついてきました。実際、その出生時に性別を割り当てる慣習や以降の人生で直面するジェンダー・ロールの中には、無数の差別が介在していました。
そこで持ち上がってくるのが「ジェンダー・アイデンティティ(gender identity)」というもの(Johns Hopkins University)。日本語では「性同一性」や「性自認」と翻訳されることもありますが、どちらでも「gender identity」の訳語であることには変わりないです。
つまり、出生時に割り当てられた性別や、ジェンダー・ロールとして社会が押し付ける性別らしさは一旦に脇に置いて、「私の性別のアイデンティティはこうなのではないか?」と自分で熟考し辿り着いた「性別/ジェンダー」のことです。
「ジェンダー・アイデンティティ」は自称ではありません。医学的に診断されるものでもないです。「心の性別」と表現されることもありますが、それも誤りです。ひとりの人間を構成する多くのアイデンティティのうちのひとつです(Scientific American)。
多くの人は出生時に割り当てられた性別と「ジェンダー・アイデンティティ」が一致します。なのであまりジェンダー・アイデンティティを意識することはありません。しかし、中には違う人もいます。
「出生時に割り当てられた性別が“女”だったし、今も“女”だと思っているけど、スカートなんて絶対に着ない」…こういう在り方もOKで、これは「ジェンダー・エクスプレッション(性表現)」と呼んだりします。「出生時に割り当てられた性別が“男”だったけど、違和感をずっと感じていて、あれこれ模索しているうちに世間一般で言う“女”の特徴の方が当てはまりやすいことに気づいた」…そうであればその人の「ジェンダー・アイデンティティは女性」ということになります。「私の性別のアイデンティティは男の規範にも女の規範にも当てはまらない気がする」…そういうときは「ノンバイナリー」などの選択肢があります。
これまでの人類の歴史のうち、1800年代から1900年代では、こういう規範から逸脱するアイデンティティを見い出していた人たちはみんな病気(精神障害)として扱われ、卑下されてきましたが、今は「ジェンダー・アイデンティティ」や「ジェンダー・エクスプレッション」として正当な立場を得ており、これは人権として国際的に認められるようになりました。
ジェンダー・アイデンティティは「WHO」や国連機関の「UN Women」など国際的にも認知されています。一部の人が主張する架空の概念などではありません。
「Johns Hopkins All Children’s Hospital」によれば、早いと2~3歳頃からジェンダー・アイデンティティの意識が芽生え始めるそうです。
私自身にはジェンダー・アイデンティティが何なのかよくわからない? それでもいいのです。無理して全てを理解する必要はありません(Stonewall)。理解しろと押し付けるものでもないです。ただジェンダー・アイデンティティというものがあるという状況を認識していればそれでいいだけです。
トランスジェンダーとトランスジェンダリズム
そして話を「トランスジェンダー」に戻しますが、「トランスジェンダー」とは出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダー・アイデンティティが異なる人のことです。逆に、出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダー・アイデンティティが一致するなら「シスジェンダー」と呼びます。
アメリカ心理学会は「トランスジェンダー」を「性同一性、性表現、または行動が、出生時に割り当てられた性別に通常関連するものと一致しない人を指す包括的な用語」と説明しています。GLAADのようなメディアにおけるLGBT関連の監修をする専門組織も、だいたい同じような説明をしています。
日本にも「trans101.jp」のような初心者向けのわかりやすい解説サイトがあるので、そちらを参照するといいでしょう。
「トランスジェンダー(transgender)」という単語が登場したのは1960年代で、それ以前はいろいろな呼び方をされてきました。言葉はなくても該当する人は大昔からいたのです(American Historical Association)。
で、やっと本題です。では「トランスジェンダリズム」とは何でしょうか?
「トランスジェンダリズム」とは英語で「transgenderism」と書くことからもわかるように「transgender」に「ism」をつけただけの単語です。英語表現では「ism」という接尾辞をつけると「行動・状態・作用」「体系・主義・信仰」「特性・特徴」を意味させることになり、さまざまな単語によく用いられます。「alcohol(アルコール)」に「ism」をつければ「alcoholism(アルコール中毒症)」になりますし、「hero(ヒーロー)」に「ism」をつければ「heroism(英雄的資質)」の意になります。
なので「トランスジェンダー(transgender)」に「ism」をつけた「トランスジェンダリズム(transgenderism)」も、ごく普通の英語表現的な応用です。トランスジェンダーに関連する行動や状態、体系などを示しており、「トランスジェンダー」よりも少し視点を広げた使い方をしています。ちょっとアカデミックなニュアンスもでます。
「トランスジェンダリズム」という言葉は、以後、当事者のコミュニティや医学界などでも普通に用いられ、本や学術誌などのタイトルでも使用されていきました。例えば「International Journal of Transgenderism」なんていう学術誌もありました(今は「International Journal of Transgender Health」という名称に変わっています)。「トランスジェンダリズム」を冠した書籍なども2000年代以前は普通に見られました。
ということで、「トランスジェンダー」と「トランスジェンダリズム」という両者の言葉にそれほど深く気にするほどの差異はなかったわけです。
「危険なイデオロギー」というレトリック
ところが2010年代中頃から不穏な空気が漂い始めます。
その原因は、トランスジェンダーの権利運動に反対する人たちの存在です。
そんな反トランス論者や団体の一部が、この2010年代中頃からこんなことを言い出しました。
「“トランスジェンダリズム”という危険なイデオロギーが社会に拡大している」
言葉の歴史を正確に辿って来た人なら「あれ?」と思うはずです。「トランスジェンダリズムって“transgender”に“ism”をくっつけただけの言葉だよね。そんな意味あったっけ…」と。
このトランスジェンダーの権利運動に反対する人たちの言う「“トランスジェンダリズム”」とこれまで用いられてきた「トランスジェンダリズム」は明らかに意味が異なっています(区別するためにこの記事では前者の意味の言葉に赤い細め下線をひくことにします)。
これは差別を正当化するためのレトリックです。
要するに、一連のトランスジェンダーにまつわる権利運動は「政治的なイデオロギー」にすぎないのだとラベルを張り直し、加えて「トランスジェンダー」と「“トランスジェンダリズム”」という2つの言葉をトランスジェンダーの権利運動に反対する人たちにとって都合いいように区分けすることで、批判しやすくしています。
どういうことかと言えば、「私たちはトランスジェンダーを差別はしていません。トランスジェンダリズムを問題視しているだけです。なぜなら行き過ぎた危険なイデオロギーだからです」と主張できるのです。これで自分たちは差別主義者などではなく、あくまで特定の主義の暴走(先鋭化)を諌めているだけだと、世間にアピールできます。
この「あれはイデオロギーだ」というレトリックは、トランスジェンダーだけでなく、LGBTに対して以前から用いられてきました。始まりは2013年に右翼のウェブサイトで「LGBTイデオロギー」というフレーズが使われたことだと言われています(OKO.press)。こうした攻撃に対して、性的少数者の当事者たちは「私たちはイデオロギーではない。人間だ」と声をあげてきました(Kafkadesk)。
また、セクシュアル・マイノリティだけではありません。このレトリックは差別主義者の間では常套手段で、歴史的にさまざまな差別の正当化のためによく駆使されてきました。例えば「ユダヤ人を差別はしていません。ユダヤ主義を批判しているだけです」とか、「黒人を差別はしていません。ブラックパワー運動を批判しているだけです」とか、「女性を差別はしていません。ツイフェミを批判しているだけです」とか…。
とにかく「私は一部の危険なイデオロギーを心配しているだけなんです」と正当性があるかのように訴えることができます。
今回はトランスジェンダーに集中砲火するかのごとく、全く同じ論法で攻撃されるようになり、この攻撃法に連動するかたちで2010年代中頃から「“トランスジェンダリズム”」という言葉の意味するところは激変してしまいました。
トランスジェンダーの歴史に詳しい研究者の“ジュリア・セラーノ”は、この「“トランスジェンダリズム”」の故意な悪用は、トランスジェンダー差別的な言動で知られる“シーラ・ジェフリーズ”による2014年の『Gender Hurts: A Feminist Analysis of the Politics of Transgenderism』という著書などで初期の観察ができ、同じく2014年に“ミシェル・ゴールドバーグ”というコラムニストが「The New Yorker」にて書いた記事がその論争の火に油を注いだと解説しています(Julia Serano)。
この「“トランスジェンダリズム”」の用法は2010年代中頃以降、急激に広がり、状況はひっくり返りました。もう「トランスジェンダリズム」という言葉を医学や当事者コミュニティで昔ながらの意味で使うのは憚られるようになりました。「“トランスジェンダリズム”」は差別主義者の愛用ワードになったのです。
最近であれば2023年に開催された「CPAC(保守政治活動協議会)」はひときわ「“トランスジェンダリズム”」が連呼された場となりました。“ドナルド・トランプ”も右派論客もこぞって「“トランスジェンダリズム”」という言葉を使って非難し、「“トランスジェンダリズム”を根絶すべし!」と豪語するまでになり、その発言のせいで「虐殺を望んでいるのか」と有識者に批判されたりも…(Salon, The Guardian)。もちろん「トランスジェンダーを差別はしていない。トランスジェンダリズムを問題視しているだけだ」とお決まりの逃げ方をするだけですが…(LGBTQ Nation)。
文化的マルクス主義陰謀論を土台とする保守的な非営利団体「Turning Point USA」も「“トランスジェンダリズム”が急速に社会に拡大している」と主張(The Advocate)。
「“トランスジェンダリズム”」以外にも、「gender ideology(ジェンダー・イデオロギー)」(Human Rights Watch)、「trans-extremism(トランス過激主義)」(PinkNews)、「gender cult(ジェンダー・カルト)」(PinkNews)などの言葉が反トランス論者や団体の間で造られていますが、それらも意味も利用目的も同じです。
日本でも反トランス論者や団体の間で「“トランスジェンダリズム”」という言葉は用いられ、「性自認至上主義(性自認主義)」という訳語をあてることもあります。それに加え、反トランス論者は「“トランスジェンダリズム”」を主張するトランスジェンダー権利運動支持者のことを「TRA」(「Transgender Rights Activist」の頭文字)と呼んで冷笑することがあります(仲岡しゅん)。
また、日本では「トランスセクシュアル(トランスセクシャル)」という言葉も反トランス論者や団体の間で都合よく用いられる事例が散見されます。「トランスセクシュアル」はもともと医学的な用語で、性別適合手術といった外科的な処置を受けた人々を指していました(現在はそういう意味でも使わなくなりつつあります)。反トランス論者は「性別適合手術を受けた“トランスセクシュアル”ならいいけど、性別適合手術を受けたわけではない“トランスジェンダー”は問題だ」という論法で、「トランスセクシュアル」だけを認めるというかたちで、トランスジェンダーの人々を問題視します。この論法は英語圏にも存在します(Gemma Stone)。
他にも日本では「自称にすぎない“性自認”は問題で、医者の診断である“性同一性”が望ましい」というような論調を反トランス論者が展開することがあります(松岡宗嗣;前述したとおり、「性自認」も「性同一性」もどちらも「gender identity」の訳語で意味は同じです)。言葉の意味を反トランス側に都合よく変容させて主導権を握り、トランスジェンダーを病気(精神障害)扱いに留まらせようという狙いが透けています。
トランスジェンダリズムの陰謀論の解説
では「“トランスジェンダリズム”」なる危険なイデオロギーとやらは具体的に実在するのでしょうか。「“トランスジェンダリズム”」を批判する人たちは、何をどう危険だと主張しているのでしょうか?
この「“トランスジェンダリズム”という危険なイデオロギーが社会に拡大している」というレトリックは陰謀論と同一の構造を持っています。そのため、反トランス論者や団体の主張は極めて陰謀論と近似します。
「得体の知れない危険が私たちの社会に迫っています!」と漠然とした不安を煽るのが主目的であり、「ではその“トランスジェンダリズム”って具体的には何なの?」と指摘されても定義できません。むしろ定義しない方がいいのです。もともと実在しないイデオロギーを敵視していれば、永遠に不安を煽れます。科学的な検証などではなく、不安を煽ったもの勝ちの世界です。
これは「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を漠然と使って、犬笛的に自分の気に入らない相手への攻撃手段として駆使する手口と同様です(Krytyka Polityczna)。
以下では、反トランス論者や団体が「“トランスジェンダリズム”」という言葉と絡めながら主張している誤解・偏見・陰謀論をいくつか紹介していきます。
「性自認の主張さえあれば女性スペースに入り放題」?
「“トランスジェンダリズム”」を批判する人たちがよく話題にするのは「女性スペース」です。
「女性スペース」というのも変な言葉で、まるで女性のスペースがそこしかないみたいですが(現実では世界中あらゆる場所は女性のスペースです)、社会的に女性しか立ち入りを許されていない空間を一般に「女性スペース」と呼んでいます。主に、公衆トイレ、更衣室、公衆浴場などです。
反トランス論者や団体は「性自認が女だと言えば、その人は女性スペースに入れてしまう。たとえ男性器を有している人でも!」と主張し、「“トランスジェンダリズム”」はそういう事態を引き起こす危険性があると語っています。
あまり知識が無い人であれば「そういうものなのか!」と不安に駆られそうな、いかにも絶妙に恐怖を煽りたてる主張なのですが、これは専門家や弁護士が説明しているとおり、事実ではありません(立石結夏; 松岡宗嗣)。
そもそもトイレを例に挙げるなら、この男女の区分は結構誤解が多いです。現在のトイレは何を基準に男女を分けているのでしょうか。実のところ、これは曖昧です。出生時に割り当てられた性別に基づいていると思っている人も多いですが、現状は違います。あなたはトイレに入るとき、出生時に割り当てられた性別をチェックされたことはありますか? 性別の記載のある身分証明書の提示を求められたり、ボディチェックされたりしましたか? ないはずです。
実際の現行のトイレは「なんとなく風紀として問題ない空間を維持できるように」という体裁で運用されているだけで、性別確認の厳密性はありません。一種の衆人環視というか、良識に依存しています。
トランスジェンダーの差別が禁止されて、ジェンダー・アイデンティティの尊重が重要視されても、この既存のトイレの運用に変化はありません。
一方、公衆浴場は日本の場合は身体的な特徴で区分することになっています。これは裸になるという環境ゆえです。例えば、すでに「ジェンダー・アイデンティティの差別的取扱いを禁止する」条例を定めている埼玉県でも「戸籍上の男性は女湯で入浴することはできません」と説明されています。
よってトイレも公衆浴場も、ジェンダー・アイデンティティに基づいて男女の区分が一新されるわけでもありません。「性自認が女だと言えば、その人は女性スペースに入れてしまう」ということはないわけです。
では「トランスジェンダーやノンバイナリー当事者は普段はどのトイレを使っているの?」という疑問が湧くかもしれませんが、それは個人で違いますし、ケースバイケースです。自分の性別移行状況に応じて、またはいろいろな要素を複合的に考慮して、相当に気を遣って行動しています(昔も今も、そしてこれからも)。男女分離された公衆トイレをそもそも利用したがらない当事者も珍しくないです。例えば、イリノイ州ではトランスジェンダーの約58%が公衆トイレの利用を避けているとの調査結果もあります(The Advocate)。トランスジェンダーやノンバイナリーの人々にとって男女分離される場所というのは嫌な思いをすることが多いスペースで、当事者に対して暴力が起きることもしばしばです(Beatriz Pagliarini Bagagli et.al 2021)。差別の禁止とは、そういう当事者の苦痛を和らげ、暴力などの不正を防止するためにあるものです。
アメリカではいくつかの州で政治が反トランス優勢となっており、反トランス法案が続々と提案されています。「Trans Legislation Tracker」によれば、2023年5月6日時点で49の州で533の法案が提案され、64の法案が可決しています。それらの法案の中には、男女別トイレの利用を「出生時に割り当てられた性別」や「何らかの身体的性的特徴」で区分することを義務付けるものもあります(PinkNews)。例えば、カンザス州では女性の定義を「卵子を生産できる人」とし、波紋を呼びました(PinkNews)。これらの反トランス法案では、不妊症で卵子を生産できない人など多くのシスジェンダー女性にも支障をきたす恐れがあると指摘されています。
トイレを出生時に割り当てられた男女の2つだけで厳格に区分するということの方が、よっぽど未知のライフスタイルであり、これまでと生活が激変してしまいます。
「性犯罪者が“自分はトランスジェンダーだ”と主張すれば罪に問えない」?
「“トランスジェンダリズム”」という不確かな言葉によって女性スペースの安全が脅かされていると主張され続けてしまっている中で、反トランス論者や団体が掲げる大義名分があります。それは「子どもを守る」「女性を守る」という弱者の保護です。
「子どもを守る」「女性を守る」という目的に反対する人など誰もいないでしょう。ではトランスジェンダーの権利運動の結果、女性スペースで犯罪の危険性が増すのでしょうか?
これについてはすでに多くの専門家がそういう危険の増加を否定しています(Amira Hasenbush et al. 2029; Brian Barnett et al. 2018; HuffPost; NBC News; PinkNews; National Center for Transgender Equality)。
性犯罪者が「自分はトランスジェンダーだ」と主張すれば罪に問えない…ということもありません。なぜなら性別やジェンダーに限らず、性犯罪行為をしたらそれはもう性犯罪だからです。性犯罪の判断は性別やジェンダーで決まりません。性犯罪目的でトイレに侵入した時点で、誰であろうとそれは性犯罪です。
なので子どもや女性が新手の危険に晒されることはありません。実際、すでにトランスジェンダー差別を禁止する法令が施行されて年数が経過している国でも、とくに女性スペースの危険性が増したという報告はありません(OPENLY)。
むしろこうした「“トランスジェンダリズム”」危険主張は、実在しない仮想敵への不安を煽っているだけで、実際の“すでに存在している”犯罪構造をスルーしてしまっています。「“トランスジェンダリズム”」を敵視する風潮が増幅するほど、シスジェンダー男性犯罪者にとってスケープゴートになるので都合がいいです。性暴力被害者サポートを行うNPO法人「全国女性シェルターネット」でも「犯罪者は変装をせずに潜入する人も多く、“紛らわしいから”という理由でトランスジェンダーを批判するのはよくない」と語っています(ハフポスト)。
「子どもを守る」「女性を守る」という名目でトイレから特定の属性の人を排除しようとしたのは、歴史的にこれが初めてではありません。公民権運動時代は、黒人をトイレから追い出し、1970年代~1990年代には同性愛者をトイレから追い出そうとしました(Human Rights Campaign)。それらの「特定の属性の人を排除しようとした」行為が歴史上において子どもや女性を守れた試しはありません。
もちろん悪質な性被害で深刻な心理的ショックを受けた被害女性はいますし、男性に恐怖を感じるなど日常に支障をきたすことはあります。であるならば、なおさらそうした性被害でトラウマを背負った被害女性などに対して、むやみやたらに恐怖を煽るのではなく、適切な情報を提供する責任があります。「下手したらこれからの時代は性自認が女だと言い張れば、性犯罪者が平気で女性スペースに入りやすくなるよ」なんて恐怖を煽って脆弱な被害者の心につけ入るなど、それこそ虐待的な行為に他ならないです。犯罪のターゲットにされやすい人たちの安心を守るのに最も大切なもののひとつは紛れもなく「正確な情報」です(INSPQ)。
「女子トイレが無くなっている」?
巷でオールジェンダートイレが新設されると、こんな情報が飛び交うことがあります。
「女性用トイレが無くなっている」と…。
これはオールジェンダートイレに関する設計への誤解に基づいていることが多いです。
オールジェンダートイレの設計で論点になるのが「小便器」です(Washware Essentials)。無いよりはあった方が混雑の解消に繋がりますが、「小便器」が「個室が並ぶスペース」に普通にあるのは抵抗がある人も多いです。パーテーションで壁を作るのもありですが、最も忌避感に配慮するなら「小便器」用のスペースを独自に作るしかありません。
この「小便器」用のスペースを「男性トイレ」だと誤認してしまっている事例が散見されます(男性トイレだけが残って女性トイレがオールジェンダートイレに変えられたという勘違い)。本来は「小便器」用のスペースも含めて「オールジェンダートイレ」です。
しかし、このオールジェンダートイレの基本設計が根本的に広く理解されていないためか、オールジェンダートイレを新設すると「女性トイレが消えた」と騒ぎになるケースが日本でもたびたび観察されます。中には「自治体が女性トイレを無くそうとしている」という完全に飛躍した誤情報も拡散し、各自治体がそのような事実はないと否定しないといけない事態に発展した事例もあります(渋谷区, NHK; 埼玉新聞)。
これはただの誤解であれば、説明すれば納得してもらえると思うのですが、残念ながら背景に陰謀論がある場合もあります。
この「女性用トイレが無くなっている」というモラルパニックは、いわゆる「Erasing Women(女性の抹消)」陰謀論(Medium)から派生したものです。
この「女性の抹消」陰謀論で有名なのは、2020年の“J.K. ローリング”の態度です(The Week)。“J.K. ローリング”はとある記事の「people who menstruate(生理のある人)」というフレーズに注目し、それについてSNSで非難的に揶揄うようなコメントをつけました。
生理(月経)について言及する際には「女性」を使わずに「生理のある人」という表現を用いるのは、業界では一般的です。例えば、生理を専門とするデジタルプラットフォームの「Vulvani」では、「“生理のある人”という用語は“女性”という用語に取って代わるものではありません」「トランスジェンダーやノンバイナリーの人でも生理を経験するかたもいます」「閉経、ストレス、子宮摘出などの理由で全てのシスジェンダー女性が生理を経験するわけではありません」「“女性”は女性であり、自分自身を女性と定義する人々のグループです。“生理・月経中の人”はさらに大きなグループです」と解説しています。
こうした事実を説明しても、反トランス論者や団体は「トランスジェンダーの権利運動のせいで従来の女性の存在自体が抹消されようとしている」と極端な不安を煽ります。この他にも、「母親」などの言葉が使えなくなる…などという誤解も飛び交ったりしています。
トランスジェンダーの権利は女性の権利と対立するものではありません(ACLU; Human Rights Campaign)。ましてや女性を抹消したりはしません。「UN Women」でもトランスジェンダー差別に反対する声明をだしています。「The Fund for Global Human Rights」は「反トランス的なレトリックは最終的に女性蔑視の暴力を正当化することになる。今、すべての女性に対する暴力が増加しているのと同時に、反トランスの暴力も同時に拡大が起きているのは偶然ではない」と警告しています。
一部の女性スペースを守ることが女性の保護だとするのは本末転倒だという声はフェミニズムからも聞かれます。フェミニスト作家の”ジェシカ・ヴァレンティ”は「全ての女性スペースがパターナリズムに陥っているわけではありませんが、女性スペースで女性を”保護する”ことはときに温情主義的なレトリックで表現されることが多い」と指摘しています。
繰り返しますが、この世界の全てが女性の安全なスペースであるべきです。
「オールジェンダートイレは犯罪が起きやすく危険」?
上記の「女性用トイレが無くなっている」という誤ったパニックに関連もするのですが、オールジェンダートイレに関しては「犯罪が起きやすい場所だ」という主張もまことしやかに流れています。
オールジェンダートイレを設置する際に、安全性、とくに子どもや女性の安全性(主に性犯罪を想定)は最も指摘されやすいです。ただ、実際のところ、オールジェンダートイレによって女性を含むあらゆる利用者の危険性が増加するという証拠はありません(Harvard Political Review)。
そもそも根本的な話として性犯罪には社会に浸透する神話が多いです。
そして「トイレは性犯罪が起きやすい」という一般に信じられやすい性犯罪神話があります(立石結夏 – Web日本評論)。これはイメージに反して誤りで、「Anti-Violence Project」も「性的暴力自体は、通常、公共トイレでは危険リスクとして目立ちません」と説明しています。子どもへの性暴力防止に取り組んでいる「Stop It Now!」でも「子どもは他の場所よりもトイレで危険に晒されているわけではありません。子どもへのリスクに関して“危険な場所”を間違えれば、本来保護を強化すべき機会を見逃してしまいます」と説明しています。
性暴力対策組織である「RAINN」によれば、アメリカで起きる性暴力の55%は自宅(またはそのすぐそば)という最もプライベートな環境で発生しています。そして性犯罪加害者の9割以上が被害者の顔見知りでした(RAINN)。また、児童への性暴力の約70%は住宅内で起きています(Stop It Now!)。
これはこれで衝撃的な数字に思えますが、よくよく考えると当然で、私たちは1日の多くを「自宅」で過ごしています。だから必然的に「自宅」で性暴力に遭いやすくなります。逆に「トイレ」は1日で過ごす時間がほんのわずかしかないのでそこで報告される性暴力の件数も少なくなります。「自宅」は最もプライベートな空間ですが、「プライベートであること」は「安全」を意味しないことが実際の犯罪統計からよくわかります。性犯罪はどうしてもセンセーショナルなイメージだけで偏って認識しがちですが、性犯罪は24時間どこでも起きるものであり、この事実こそ性犯罪対策の土台にしないと全ての被害を防げません。
オールジェンダートイレに話を戻しますが、オールジェンダートイレにはメリットも指摘されています。まず混雑の解消、とくに女性は利用できる個室が増えるので長蛇の列を低減できると説明されることが多いです(ArchDaily; I+S Design)。トイレにいる時間が減るのはトイレに不安がある人にも嬉しいことです。もうひとつは、オープン化による安全性の向上。オールジェンダートイレは設計上、シンプルなのでとてもオープンな環境としてデザインしやすいです。結果、開放的で人の目が行き届きやすくなり、安全確保にプラスになります(Commercial Washrooms)。オールジェンダートイレは単にインクルーシブというだけでなく、トイレの既存の欠点を解消する可能性としても注目されているのです。基本的に今のトイレは「防犯環境設計(CPTED)」に基づいて設計されることが多いですが(Design Out Crime and CPTED Centre)、海外では「Stalled!」のようにオールジェンダートイレに関する学際的なチームもあります。
それでも大衆が「オールジェンダー」という空間に異質さを感じてしまうのは単に慣れていないと思ってしまうからなのか…。でも冷静に考えると、私たちは日々、オフィス、教室、飲食店、図書館…あらゆる場所の「オールジェンダー」な空間で過ごしています。公共の場所のほとんどは「オールジェンダー・スペース」で、思ったほど特殊でもないです。
オールジェンダートイレにまつわる世間の反応は一種の「モラルパニック」です。これは規範に反することが起きたときに大衆が苛烈に感情を駆り立てられて起きるパニック現象のことで、歴史的にさまざまなモラルパニックが起きてきました(Criminal Legal News)。モラルパニックは「folk devil」という逸脱者として非難される存在が設定されることがあるのですが、オールジェンダートイレの場合はまさにそれを推進する人が「folk devil」です。それだけ「公衆トイレは男女別に分けるもの」というのが絶対的規範として社会に定着しているのかもしれませんが、意外に男女分離した公衆トイレの歴史は浅く、今のような男女トイレの普及はアメリカでは1880年代~1920年代になってからです(The Daily Beast)。
反トランス論者や団体が論争にトイレを好んで用いてくるのは、「性犯罪を黙認するのか!」と突きつければ、良識的な人ほど居心地が悪くなって反論しづらくなることを熟知しているからです。こんな非難の中で矢面に立つのは誰でも心苦しいです。そして「性犯罪」を持ち出されると多くが慎重になります。「性犯罪の問題は無視できないよね」と手を止めます。
先ほど「トイレは性犯罪が起きやすい」というのは先入観であるという話をしましたが、例外となる被害者がいます。トランスジェンダーの人たちです。トランスジェンダーの人々の9%がトイレで性的暴行を受けたと報告されています(The Daily Beast)。女性から性的暴行を受けるトランス女性もいます(GenderGP)。女性トイレを使ったことで暴行を受けたトランス男性の人もいます(The Advocate)。トランスジェンダーの人にとってはトイレは性暴力が起きやすい場所です。これはトイレが危険なのではなく、トイレで差別が浮き彫りになりやすいからです。
より性暴力を防ぎたいと考えるなら…性暴力根絶を達成したいならば…最新の安全なオールジェンダートイレは必要です。そして差別を無くさないと性暴力は消えません(National Sexual Violence Resource Center)。
にもかかわらず反トランス論者の一部はオールジェンダートイレに不信感を植え付けるのに懸命で、オールジェンダートイレを性的な嫌がらせの場として自ら進んで荒らすこともあります(PinkNews)。
「アイツはトランスジェンダーだ」陰謀論
これは主に著名人などについて、「あいつは実はトランスジェンダーなんだ」と言って、言いがかりをつける行為です。もちろん正確な根拠などはなく、でっち上げです。
有名な事例だと、過去に“ミシェル・オバマ”がターゲットにされ、「実は男だ」とネット上でデマが流されました。フランス大統領の“エマニュエル・マクロン”の妻である“ブリジット・マクロン”も同様の被害に遭い(Euronews)、また俳優の“ダニエル・ラドクリフ”のガールフレンドである女性に対してもトランスジェンダーだとする無根拠の噂が飛び交いました(PinkNews)。
基本的に自分が批判したい相手(およびその関係者)をトランスジェンダー扱いするのが手口です。
この「あいつは実はトランスジェンダーなんだ」と勝手に断定してくる人たちのことを、ネットスラングで「トランスヴェスティゲーター(transvestigator)」と言います。「Qアノン」界隈で始まった陰謀論のようです(Newsweek)。
上記で説明した「あいつは実はトランスジェンダーなんだ」という陰謀論の応用として、何か凶悪な犯罪事件を引き起こした加害者に対して、「あいつは実はトランスジェンダーなんだ」と根拠なく勝手に断定するケースもあります。
例えば、2022年5月にテキサスで起きた銃乱射事件について、陰謀論者の議員として有名な“マージョリー・テイラー・グリーン”は「加害者はトランスジェンダーである」という誤情報を拡散しました(The Independent)。また、2023年3月に起きたテネシー州ナッシュビルで起きた銃乱射事件でも、加害者はトランスジェンダーであったという不確かな情報が飛び交い、右翼メディアはしきりに「トランスジェンダー・キラー」と煽り立てました(The Advocate; FAIR)。2018年にも同様の事例があり(Them)、ほとんど毎年の時事的陰謀論になっています。。
源流にあるのは、トランスジェンダーに対するネットいじめです(NBC News)。トランスジェンダーの人を犯罪者扱いするオンライン上の嫌がらせは頻発しています。
加えてアメリカの場合、銃犯罪において銃所持の問題から目を逸らし、加害者側の個人の問題にすり替えたいという、銃団体と癒着の深い保守政治家の思惑があると思われます。「加害者はトランスジェンダーである」という誤情報の発端はたいていは「4chan」などですが、一部の政治家はその情報をここぞとばかりに利用しています。以前は銃乱射事件が起きれば「暴力的なゲームや映画」を槍玉にしていましたが、最近はトランスジェンダーに攻撃を集め、差別を正当化して一石二鳥を狙っています。
「Trans Journalists Association」は「外見、性表現、または代名詞に基づいて、誰かをシスジェンダーまたはトランスジェンダーであると想定しないようにしてください」と声明をだしています。
「トランスジェンダーがスポーツで勝ちまくっている」陰謀論
トランスジェンダーのアスリートはスポーツ界隈では論争的なトピックになっていますが、この中で「トランスジェンダー女性の選手が常に圧倒的に強く、女性スポーツを脅かしている!」と主張する人が現れています。発端となって批判のマトとなった人物のひとりは、トランスジェンダーで水泳選手の“リア・トーマス”です(The Independent)。
反トランス論者や団体の主張はこうです。トランスジェンダー女性は身体は男性なのだから、女性選手と一緒に競技をすれば、当然有利になるに決まっている…と。
ただ、トランスジェンダー女性の選手がスポーツの公平性に悪影響を与えているという事実はありません(PinkNews; Teen Vogue)。そもそも一般に考えられているほど、性ホルモンは筋力などに男女の違いをもたらしていません。閉経前の女性は同年代の男性に比べてテストステロンが約10分の1と少ないにもかかわらず、相対的な筋力は同程度で、パフォーマンスの違いにほとんど影響を与えないことは研究でも示されています(Sarah E. Alexander et al. 2021)。
スポーツ選手の性差を研究しているエリック・ヴィレイン博士は「テストステロンが実際に競争において優位性をもたらしているかどうかについては、科学的には確認されていません」と解説(NPR)。カナダスポーツ倫理センターの2022年の報告でもトランス女性がシスジェンダーの男性と同等であるという通説に言及し、「トランス女性がセンセーショナルに取り上げられすぎている」と説明しています(Hotpress)。
トランスジェンダーの選手も、シスジェンダーの選手と同じように、勝つときもあれば、負けるときもあります。そして多くのアスリートが痛感しているように、厳しい競争において勝つのは大変です。差別と偏見とも戦いながら、過酷なスポーツの世界で健闘しているトランスジェンダーのアスリートは少ないながら存在しています(Outsports)。
反トランス論者や団体の人たちは、トランスジェンダーの人がスポーツでどういう成績をおさめようとも批判するようではありますが…(LGBTQ Nation)。
根本的に言えば、こうしたトランスジェンダーをスポーツ界から排除する反トランスの主張は「女は男よりも弱い」という前提に立っており、女性差別的です。実際のところ、女性は男性より筋力や運動のパフォーマンスで劣っているというのは誤解が多いです(The Muscle PhD)。遺伝子的構造や内部および外部の生殖構造は、運動パフォーマンスの有用な指標ではありません(ACLU)。最近もいくつかの運動項目において女性が男性より良い成績をおさめる事例が確認されており(Cosmos)、社会が決めつける「女の弱さ」こそ証拠は乏しく、現実では思われているほど「女は男よりも弱くない」のです。
「トランスジェンダーの子どもの数が増えている」陰謀論
これは「trans social contagion theory(トランス社会的伝染理論)」と呼ばれており、要するに「若い世代の間でトランスジェンダーだと感じる子が急速に増大している」というもの。
反トランスの団体である「Genspect」の顧問を務める“リサ・リットマン”が2018年に発表した論文が発端で、その中で「性的違和が急速に発現している」と報告しました。この「突発性性別違和(急性の性別違和;rapid-onset gender dysphoria)」は「ROGD」と頭文字で呼ばれることもあります(MIT Technology Review)。
しかし、これらは科学的に否定されています(MIT Technology Review)。トランスジェンダーの子どもが増えている事実も統計的にありません。基本的にここ数十年で可視化されるトランスジェンダーが増えており、絶対数が増えたのではなく、トランスジェンダーの包括性が若い世代を中心に向上して、表にでてきやすくなっただけと言われています(PinkNews)。
反トランス論者がこれらの主張をこぞって持ち出すのは「トランスジェンダーというのは結局は子どもが勘違いしているだけの“混乱”にすぎず、そしてトレンド(流行)なのだ」と矮小化したいためです(Julia Serano)。
こうした主張をする反トランス論者や団体は、「indoctrination(教化)」という言葉を好んで用い(LGBTQ Nation)、無垢な子どもたちが「“トランスジェンダリズム”」に洗脳されていると不安を煽ります。また、「woke indoctrination」という言葉を使うこともあり(LGBTQ Nation)、「woke」というのは「ポリティカル・コレクトネス」の最新の言い換えであり、かつて教育におけるポリティカル・コレクトネスが保守派政治家に批判されていたときのロジックがそのまま応用されたかたちです。
「グルーミング」陰謀論
トランスジェンダーの子どもに対して、「ジェンダー・アファーミング・ケア」が行われることがあります。これは出生時に割り当てられた性別とジェンダー・アイデンティティが一致しないとき、社会的、心理的、行動的、および医学的介入によってサポートする行為です。性別移行(トランジション)を手助けし、場合によってはホルモン療法も行います。
米国医科大学協会など多くの医療専門組織がこの「ジェンダー・アファーミング・ケア」は子どもにも有効であると認めており、LGBTQクリニックを運営する専門家も「糖尿病の人にインスリンを投与するのと同じように医学的に必要なもの」と述べています(AAMC)。アメリカ小児学会、内分泌学会、アメリカ内科学会、アメリカ産科婦人科学会なども同様です。
一部の人たちは、この「ジェンダー・アファーミング・ケア」は子どもに有害であり、児童虐待(グルーミング)であると主張しています(The Adovacte)。性別移行をした子どもたちは後悔しているとも…。これは上記で説明した「トランスジェンダーの子どもの数が増えている」陰謀論とも関連しています。
無論、そのような事実はありません。しかし、反トランスの論者たちはこの「ジェンダー・アファーミング・ケア」を猛烈に敵視しています。気候変動問題は捏造と主張していることでも知られるアメリカの伝統的な保守系メディア「National Review [注意!この外部リンク先は差別的主張の記事です]」にいたっては、「ジェンダー・アファーミング・ケア」で使われる思春期ブロッカーを「核のボタン」呼ばわりしていたりするほど…。
「グルーミング」陰謀論はホルモン療法だけを敵視するにとどまらず、LGBTQのキャラクターが登場する子ども向けアニメなどの番組も、子どもを「sexualization(性化)」しているとして批判の対象としています(LGBTQ Nation)。子どもを対象としたLGBTQの支援団体やイベントを「グルーミングだ」と非難することも各地で起きています。
反トランス論者は「あくまで脆弱な子どもの期間を守る」ことを掲げますが、実際はセクシュアル・マイノリティの大人全体に影響を及ぼすことを否定はしません(LGBTQ Nation)。「ジェンダー・アファーミング・ケア」を行うクリニックに脅迫などの嫌がらせをする事例も起きており(Time)、クリニック利用者の健康を脅かしています。
「グルーミング」陰謀論の歴史を振り返ると、アメリカにおいては1970年代に同性愛差別が激化していた時代まで遡れます。“アニタ・ブライアント”の「Save Our Children」はその有名な(そして悪名高い)一例です(Slate)。ロシアには「Occupy Pedophilia」というLGBT狩りを行う自警団組織も存在していました(Them)。アメリカでこの陰謀論が再び白熱しだしたきっかけは、2016年のアメリカ大統領選挙の期間中に広まった、民主党のヒラリー・クリントン候補陣営の関係者が人身売買や児童性的虐待に関与しているという通称「ピザゲート」陰謀だと言われています(Them)。この出来事に端を発する「あらゆるものを児童虐待やペドフィリアに結び付ける」陰謀論はQアノンによって蔓延し続け、2020年代はトランスジェンダーやドラァグがそのターゲットとなっているわけです。Lee LeveilleはこれらをQアノンの後継と位置づけ、「Tアノン(TAnon)」と呼称しています。
これらの「子どもとトランスジェンダー」をめぐる一連の陰謀論の歴史に関しては、Julia SeranoやLee Leveilleの記事に非常に詳細に解説されています(いずれも英語)。
「トランスジェンダーはレズビアンを脅かす」陰謀論
女性に惹かれるという性的指向を持つ女性の中には自分たちを「レズビアン」と呼称し、コミュニティの中で互いのエンパワーメントを高め、平等を求めています。レズビアンは「LGBTQ」の連帯の欠かせない一員です。
しかし、反トランス論者の中には、このレズビアンに狙いを定め、トランスジェンダーへの不安を煽ろうとする者もいます。
具体的には「レズビアンの人がトランス女性とセックスするように圧力をかけられている」などの主張です(rabble.ca)。また、「若いレズビアンがトランスジェンダーの男性に移行することを奨励または強制されている」という話も飛び交うこともあります(PinkNews)。さらに「LGBTQ+の傘の下でレズビアンが小児性愛者とひとまとめにされている」と主張されることもあります(PinkNews)。レズビアンだけでなく男性のゲイも含む同性愛者全般において、トランスジェンダーが脅威であるかのような主張もあります(PinkNews)。
以前は「Get The L Out」というキャンペーンが背景にありました(PinkNews)。2023年には「The Lesbian Project」という反トランス・イニシアチブも登場しています(PinkNews)。2021年にはBBCがこの「トランスジェンダーはレズビアンを脅かす」陰謀論を支持するかのような報道を行い、大きく非難を浴びました(NBCNews)。“キャスリーン・ストック”のような反トランス論者がこうした主張の中心にいます(PinkNews)。
もちろんそのような主張を裏付ける事実はありません。レズビアンの人が誰と性的関係を持つかは個人の自由です。トランスジェンダーによってレズビアン含む同性愛のアイデンティティが消去されることもないです。
これらは通称「Drop the T」と呼ばれる策略のひとつで(The Advocate)、「LGBT」からトランスジェンダーを除外させて、連帯を乱し、性的少数者全体を弱体化させようと狙ったものです。歴史的には1970年代以降、一部の同性愛者がトランスジェンダーを差別して権利運動から追い出そうとしたことがありました。その反省から「LGBT」という言葉が生まれました。2010年代以降の「Drop the T」はそれをまた再現しようという反トランス現象です。
大多数の同性愛者はトランスジェンダーの包括を支持しています。「レズビアン可視化の週(Lesbian Visibility Week)」の創設者である“リンダ・ライリー”は、こうした一部の動きに対して毅然とトランスジェンダーへの連帯を表明しています(フロントロウ)。レズビアン向けのマッチングアプリ「HER」も反トランスに賛同していません(PinkNews)。
「アセクシュアルになってしまう」陰謀論
「グルーミング」陰謀論と関係するのですが、これは「思春期ブロッカーを使用した子どもがアセクシュアルになってしまう」と主張するものです(Prism)。
アセクシュアル(アセクシャル)とは他者に性的に惹かれない性的指向のことです。「生殖能力がない」という意味ではありません。
この陰謀論はおそらくイギリスが発端で、「Stonewall」というイギリスの最大級のLGBTQ団体へのバッシングが背景にあります。「Stonewall」は2021年~2022年頃からアセクシュアルを包括した活動を積極的に展開するようになりました。しかし、これに目を付けたのが反トランスの人たち。もともと「Stonewall」は反トランスジェンダー界隈から目の敵にされており、過去にはトランスジェンダーの権利運動に反対する人たちが分裂独立して「LGB Alliance」という組織が生まれたりもしました。
なので「Stonewall」がアセクシュアルを包括する活動を展開し始めたのを見て、「これは裏があるに違いない」と考える人たちが現れました。その人たちいわく「アセクシュアルというのは、ジェンダー・アファーミング・ケアの失敗で子どもが他者に性的に関心が持てなくなったのを誤魔化すため」ということになっているようです。
こうしたトランスジェンダー差別とアセクシュアル差別の連動の動きは、アセクシュアル・アロマンティックの当事者で活動家でもある“ヤスミン・ブノワ”が報告しています(AセクAロマ部)。
当然、アセクシュアルは性的指向なので、外的要因でそうなったりはしません。アセクシュアルの人は普通に世の中にいます。
「猫のトイレ」陰謀論
2022年、コロラド州の共和党議員は「猫であると自認する生徒のために学校に猫用トイレを設置している」と語りました(NBCNews)。同年にミネソタ州知事の共和党候補も同様の発言をして懸念を表明しました(CNN)。
これはジェンダー・アイデンティティへの冷笑が発端にあります。以前から「ジェンダー・アイデンティティはいい加減で信用できない」と主張する反トランス論者は、「男性や女性を自認できるなら、動物やモノを自認することもできる」と大喜利のように嘲って小馬鹿にすることがありました。「性自認は攻撃ヘリコプター」のミームが現れたのはひとつの象徴でした。
そんな嘲りがいつの間にか一部の反トランス論者の間で本気になってしまい、「行き過ぎた“トランスジェンダリズム”のせいでついには“猫を自認する子”が本当に現れて、学校が猫用のトイレを設置している」と素で勘違いする大人がでてきてしまいました。トイレに波及しているのは、トランスジェンダーを包括するうえでオールジェンダートイレが学校に設置されることへの反発からです(Them)。
これの巻き添えを食らったのは「Furries(ファーリー)」という、擬人化された動物のキャラクターに扮したり、イベントに参加して仲間と交流したりする人たちです。一部の反トランス論者は「ファーリーは行き過ぎた“トランスジェンダリズム”の結果」と誤解し、ファーリーの人たちを誹謗中傷するようになってしまいました。
そんな世間でも、ファーリーの人たちはLGBTQと連帯する姿勢を見せており、トランスジェンダー差別にも声をあげて反対してくれています(PinkNews)。