四国は良いところだよ、遊びにおいで…映画『太陽』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:日本(2016年)
日本公開日:2016年4月23日
監督:入江悠
性暴力描写
太陽
たいよう
『太陽』物語 簡単紹介
『太陽』感想(ネタバレなし)
俺はアリジゴクになりたくない
「アリジゴク」という昆虫を知っているでしょうか。
名前にインパクトがあるせいか、見たことがなくても知られている昆虫の代表例ですよね。大きな顎を持った太った芋虫のような醜い姿をしており、砂地にすり鉢状のくぼみを作って暮らし、落ちてきた獲物を食べるという見た目どおりの“どん底”暮らしをしています。そのアリジゴクも実は幼虫であり、成長すると「ウスバカゲロウ」という全く違う姿の昆虫に変身します。このあたりは知らない人も多いかもしれません。成虫は翅を手に入れ、幼虫時代とは比べものにもならない身体能力と自由な生活が可能ですが、夜行性であり寿命も短いという影も抱えている…そんな生き物です。つまり、全く正反対の存在に変身できるのです。
本作『太陽』を観た私は真っ先に「アリジゴク(ウスバカゲロウ)」を連想しました。
この映画は独自の世界観を有しているSFです。簡単に説明すると、旧人類「キュリオ」と新人類「ノクス」の2つに人間は分断されて社会が構成されています。「キュリオ」は年寄りも多く、ノクスに管理されて田舎のような村で貧しく生きていますが、「ノクス」は太陽の光に弱く夜しか活動できませんが、身体的能力に優れており、進んだ科学と社会のもとで裕福に暮らしている…という2つの存在。両者は見た目にこそ大きな違いがありませんが、全く異なる性質を持っています。
このあたりが「アリジゴク(ウスバカゲロウ)」を連想した理由。「キュリオ」自身も「アリジゴク」っぽいですが、「キュリオ」のコミュニティもまた「アリジゴク」の巣のような束縛感があるように感じます。
映画の主人公は「ノクス」に憧れる「キュリオ」の少年。それは純粋な憧れのまま終わるのか、それとも予想もしない結末が待っているのか、そのあたりはぜひ鑑賞して確かめてください。
本作の入江悠監督は、過去に手がけた『SR サイタマノラッパー』シリーズでも、閉鎖的なコミュニティに嫌気がさすも離れることのできない主人公を描いており、これが共通した作家性なのかもしれません。それでも、これまでの過去作に多くみられた音楽的要素は中心にはなく、さらには原作は舞台ですし、なかなか斬新な挑戦です。 私も音楽なしで作品を作るのか…と入江悠監督のまだ見ぬ可能性に興味が湧きました。
日本でこういうSFは少し変わっているようにも思います。そもそも本作の原作は、「イキウメ」という2003年に旗揚げされた劇団で、SFやオカルト、ホラーといったジャンル的な雰囲気の強い作品を扱うという特徴があります。私は劇の方は見たことがありませんが、やはり映画化したいと思うくらいですから、完成度が高いのでしょう。演劇と映画では演出などのアプローチは全く違いますし、とくにSFの場合は特殊な設定を見せる際、演劇では視覚的には大胆なことはできないので、最低限の演出と演技で見せることになります。それを映画にどう持ち込んで馴染ませるかは腕の見せ所ですね。
入江悠監督作品としては扱いが低く、Wikipediaでは作品のページすら作られないほど注目の弱い一作になってしまいましたが、決して無視できるような作品でもありません。
SFといっても独自の専門用語は「キュリオ」と「ノクス」の2つのみ。SFを普段観ない人でも入りやすいと思います。珍しい日本製ディストピアSF、変わりダネとして観てみては?
『太陽』感想(ネタバレあり)
ディストピアSFとしては惜しい
あまり予算をかけられない日本の映画界でディストピアSFの世界をつくるのは大変なはず。しかし、本作はロケーションと撮影センスのおかげもあって、一定の説得力があります。明らかに日本らしい田舎の山村である「キュリオ」も、どこか私たちの知っているモノとは違う異世界感が漂っていました。
そもそも田舎って異世界感があるもの。巷では自然あふれる良いところ…みたいなプロモーションがされますけど、見方を変えるとかなり異様です。少なくとも都市部と比較すれば…。電波も届かない孤立した空間、独特の訛りのある言語によるコミュニケーション、ローカルルールのような独自の決まり事、狭いコミュニティゆえの人間関係のパワーバランス…。その全てが異世界であることを強めるような効果を発揮します。
本作はその田舎の異常性を活かして、とくに予算をかけてセットを作ることもせずに、自然に表現しているのは上手い技でした。このへんはさすが入江悠監督。田舎の不気味さを描かせたら右に出る者はいない。この監督に地方PRビデオとか作らせたら、どうなるのだろうか…。ちょっと興味ありますね…。
願わくば、映画の設定上で最悪のディストピアということになっている四国を、画面上のVTRではなく、ちゃんと描いて見せてほしかったかなとは思いましたが、さすがにそれはスケールが大きすぎるか…。
一方で、映像は綺麗でも、SF設定の描写に隙があるのが気になります。とくに「ノクス」が太陽に弱いという設定。太陽光がダメなのはわかるけど、強い光もダメなのでしょうか。カメラのフラッシュに狼狽えるシーンがありましたが、そのわりには劇中の「ノクス」が暮らす施設は非常に明るいんですよね。診察台の明かりとか、部屋全体に映像を投射?するような部屋があったりと、強い光が身近にあるのは違和感です。これは映画化の弊害でしたね。舞台劇だと気にならないのに、映画という映像にするとどうしてもリアリティというノイズが発生するという…。私が気にしすぎかな。
長回しが多いのが本作の特徴でもありますが、全ての長回しが効果的に活きていたとも残念ながら思えなかったのも、うーん。「ノクス」の森繁が外で手錠をかけられてしまい、日の出で死にそうになるシーンも、布をかければいいのでは?というツッコミが頭に一度浮かぶと、急に茶番に見えてしまう。終盤の修羅場シーンも、長回しにする必要性は…あったのかな?
また、「キュリオ」の閉鎖的なコミュニティの感じを出すのに、レイプとか集団リンチとか扇情的なわかりやすい描写ばかりでなく、心理的な窮屈さを示す演出ももっと増やしてほしかったです。主人公の鉄彦を演じた神木隆之介も、「キュリオ」が抱える感情的不安定さを表現しているのはわかりますが、オーバーアクトすぎる部分がどうしても目立つ。さすがに「ワイヤーァァァ」と叫びながら走るのは変でしょう…。
ただ、神木隆之介にしかできない、空回りした主人公っぽさがいいものですね。彼はカッコいいのに、映画に出ると変に作ることなくダメな青年になりきることができるのが素晴らしい。
「キュリオ」から「ノクス」に転身して豹変する結を演じた門脇麦や、役職どおり「キュリオ」と「ノクス」の境にいる森繁を演じた古川雄輝はキャラにハマっており良かったです。でも一番は生田草一を演じた古舘寛治でした。
SF設定や登場人物・場面描写の不安定感には目をつぶるとすれば、日本らしいディストピアSFとしてかなり潜在的な面白さを内包する映画だったのも事実。もっと小さいスケールの世界のほうが良かったかもしれないですけど、それだと舞台になっちゃいますか…。
いつかもっと予算を与えて、規模の大きいSF映画を入江悠監督には撮らせてあげたいのですけど、実現する日は来るのかな…。
ROTTEN TOMATOES
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(C)2015「太陽」製作委員会
以上、『太陽』の感想でした。
『太陽』考察・評価レビュー