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『40歳の解釈 ラダの場合』感想(ネタバレ)…Netflix;くだらない駄作にしないでくれる?

40歳の解釈 ラダの場合

くだらない駄作にしないでくれる?…Netflix映画『40歳の解釈 ラダの場合』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:The Forty-Year-Old Version
製作国:アメリカ(2020年)
日本では劇場未公開:2020年にNetflixで配信
監督:ラダ・ブランク

40歳の解釈 ラダの場合

よんじゅっさいのかいしゃく らだのばあい
40歳の解釈 ラダの場合

『40歳の解釈 ラダの場合』あらすじ

四十路を目前にして、劇作家としての活路を開こうともがいていたニューヨーク在住のラダは、様々な壁に直面してしまい、どうすることもできないでいた。しかし、ラッパーとして本当の自分を表現することに新たな喜びを見い出すようになり、人生が思わぬ方向に進んでいく。一方で、劇作家としてのチャンスも飛び込んできて…。

『40歳の解釈 ラダの場合』感想(ネタバレなし)

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映画業界は本当に多様性に献身的か?

米アカデミー賞の作品賞において新しい選考基準を導入するという発表が2020年9月にありました。これはかねてより「Oscars So White」などアカデミー賞の白人男性優位が指摘されてきた経緯からのものであり、キャストや製作スタッフなどを指標に新しい選考基準4つのうち2つを満たすことが条件になり、多様性推進を狙った施策(インクルージョン)です。

しかし、これに関して一部のネット上の不特定多数から「表現の自由が損なわれる」などの炎上気味の批判の声があがりました。

けれどもそれは見当違いも甚だしいものであり、全く背景を理解していないものだと私は思います。

例えば、オスカー予想で定評のあるMs.メラニー氏はこんなことをコメントしています。

昨今製作されるほとんどの作品は既に条件をクリアしている、もしくは容易にクリアすることができるはずで、それすら出来ない作品であるならば、今の時代においてのベストピクチャーとは言えないと言うのは、むしろ当然のように思います。

引用:Elle

そして上記の記事でも言及されていますが、この新しい選考基準をもってしても、映画界が多様性に満ち溢れた世界になる保証はなく、楽観視できない状況があるんですね。なぜなら「多様性」なんて言葉で盛り上がっているように表面上は見える業界の内側の現実は依然として相当に厳しいからです(例えば、有色人種や女性の問題については以下の記事がわかりやすいです)。

そしてそこに追い打ちをかけるような無理解な世間の声です。結局のところ、この新しい選考基準で過剰なポリコレだとかなんだとか騒ぐような人たちは、映画を消費することしか考えておらず、そこで働く人のことなど二の次どころか、気にも留めていないのでしょう。

そんな中、今回紹介する映画は、昨今の映画や舞台などの創作の業界がいかにマイノリティが活躍する場として過酷なのかをまざまざと見せつける一作だと思います。それが本作『40歳の解釈 ラダの場合』です。

本作は、40歳間際の黒人女性が劇作家として活躍しようともがく物語です。中年女性の物語という意味でも珍しく、最近だと『ある女流作家の罪と罰』を思い出しますね。今作『40歳の解釈 ラダの場合』はさらにアフリカ系アメリカ人という要素が加わり、マイノリティとしてのレイヤーが二重で重なります。ちなみに原題「The Forty-Year-Old Version」は『40歳の童貞男』のパロディですね。

実は本作は監督・製作・脚本・主演を“ラダ・ブランク”という人が務めており、事実上、この“ラダ・ブランク”の実体験をベースにした、自分語りストーリーなんですね。自分の人生を素材に物語を組み上げて、しかも創作と関連してくる作品と言えば、最近も『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』があったばかりですし、何かと定石なのかもしれません。

ただ『40歳の解釈 ラダの場合』は業界に対するカウンターとしての威力が強烈で、「ここまで言っちゃうか!」という攻めの姿勢100%であり、それこそ現状の映画業界にグサリと突き刺さるものがあります。

本作はサンダンス映画祭で高い評価を受け、批評家も絶賛の嵐。私も本作は普通にアカデミー賞の作品賞にノミネートされていいレベルの一作だと思うのですが…まあ、無理なのかな…。

ちなみに本作はモノクロ映像です。モノクロでブラック・ムービーってあんまり見ていないかも…。

とにかく今の映画界の現実をしっかり見据えたい人にとっては必見の映画ですし、コミカルで痛々しい中年女性のドラマが観たいという需要だけでも満腹になれると思います。

『40歳の解釈 ラダの場合』はNetflixオリジナル作品として2020年10月9日より配信中です。

オススメ度のチェック

ひとり ◎(隠れた傑作を観たいなら)
友人 ◎(シネフィル同士で)
恋人 △(恋愛要素は薄め)
キッズ △(大人のドラマです)
↓ここからネタバレが含まれます↓

『40歳の解釈 ラダの場合』感想(ネタバレあり)

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40歳、人生の岐路に立つ

ラダは劇作家であり、かつては「30歳未満の30人」に選ばれて脚本賞のトロフィーをもらったこともありました。しかし、それが自分のキャリアのピークです。40歳間近となった今はさっぱりな状態で、暗い部屋で隣の壁の奥からヤっている声を聞いたり、テレビを見たり、窓から道行く人を眺めたり、そんなことしかできません。

このままでは生活費すら苦しく、なんとか脚本ワークショップの講師の仕事で食いつないでいました。しかし、ここでもラダは浮いてしまいます。全然世代が違う若者たちとは話が合いません。創作に対するスタンスもです。ワークショップの受講者のひとりであるエレインは詩をラップスタイルで披露し、それに対してラダは微妙な褒め方しかできません。それにイラついたのか、エレインは「先生の最後の脚本は2010年でしょう」と痛い指摘をしてきて、「ヒット作もないのになんで教えられるの」と棘のある言葉を浴びせます。「近々私の脚本が舞台化される」と虚勢を張ってみるラダ。けれどもエレインの態度をめぐってローザという別の受講生とエレインは口論になり、そのまま揉み合いに発展。男子は大盛り上がりする中、とんだ修羅場になってしまいました。

ワークショップを終えたラダは長年の知り合いであるエージェントのアーチーに「舞台化はいつなんだ」と電話します。ユモジャ劇場にて自分で「舞台化はいつ?」と抗議に乗り込んでいくも反応は微妙でした。

出資者パーティーに顔を出すラダ。そこでアーチーと出会い、チャンスがあると持ち掛けられます。それは今この場にいる大物のジョシュ・ウィットマンで、「劇場に空いている時間がある、君の作品を公演できるかも」…だとか。「黒人女性の脚本家は今は注目の的だ」と言われますが、ラダは信用していません。

ウィットマンに対面するとすぐに自分の企画を説明してと言われます。「ハーレム・エイブ」という作品で、黒人の若者が亡くなった両親から食料品店を相続する話で、美しい妻とともに経営に苦戦して、その妻は活動家で…テーマはジェントリフィケーションで…。そうたどたどしく頭の中にある創作案を口にするラダ。

しかし、ウィットマンは「アイディアはいいけど真実味に欠ける」「それは本当に黒人の脚本か?って思ったよ、修正が必要だね」とずいぶん気楽な口調です。ラダも努めて愛想よくその“親切な助言”に耳を傾けて振る舞っていましたが、「ハリエット・タブマンの舞台の脚本家を探している」という提案で堪忍袋の緒が切れ、怒ってウィットマンに掴みかかってしまいました。

自分の部屋で意気消沈するも、時はすでに遅し。

そんな失望の中、ふとラップを考えてみるラダ。案外と言いたいことがスラスラ出てきて、「this is 40, niggas!」と気持ちよくリズムが刻めます。

これがいいんじゃないかと気を良くしたラダはアーチーにラップを見せて、「私はヒップホップをやる。40歳の視点で」と宣言。しかし、アーチーは「君は母親を亡くしてやる気が出ないだけ。演劇を諦める必要はない」となだめます。

けれどもやる気の火がついたラダは止まりません。「ラダムス・プライム」を名乗り、さっそく収録に向かいます。収録作業に協力してくれた「D」もなんだか気に入ってくれたようです。

ところが「ハーレム・エイブ」をウィットマンがやりたいと言っているとアーチーに持ち掛けられ、決意が揺らぎます。脚本は変更になるらしく、妥協をするべきなのか…。そもそも自分はラッパーになりたいのか…。

その迷いが解決しないまま、ステージに立ってしまったラダは「yo,yo,yo」と言うだけで歌いだせない醜態を晒してしまいました。

はたしてラダの人生は傑作になれるのか…。

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一緒にしないで、私は違う

よく「40歳」という中年の始まりのような年齢について、それは女性にとって良いことか、悪いことか、議論になることがあります。「中年の危機」なんて言葉があるように精神的にも肉体的にもツラいものだと捉える人もいますし、逆に周りの目を気にせずに生きられるからむしろ開放的になれて楽しいという人もいます。

これはおそらく一概に言えることではなく、大雑把な物言いになりますけど、まあ、人それぞれなのでしょうね。

そこには年齢だけの問題ではなく、家庭環境や経済状況などいろいろな要素が重なってくるもので、幸福は簡単に数値化して比較もできません。

ただ『40歳の解釈 ラダの場合』は紛れもなく悪い状態に突入しています。そもそも若い時だって決して良かったかと言えばそうではない。それが年齢とともにさらにどんどん沈んでいく。自力では負の沼地から脱出することができなくなっています。

それはもちろんラダが中年ということに加えて、女性で黒人だからというのも大きな原因です。彼女のような立場の人間にはチャンスはフェアには訪れません。

そういう状態のラダに対して、「いや、黒人女性でも成功している人はいるし、まだまだチャンスはあるよ」と励ます人もいるけど、それすらも虚しく響く…。

ラダにしてみれば、ハリエット・タブマンやミシェル・オバマみたいな世間にチヤホヤされる勝ち組の黒人中年女性じゃないんだ!…ってことですね。確かにそんなカリスマと並べて頑張れと言われてもね…。

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創作業界でも起きるジェントリフィケーション

一方でラダに舞い込んでくる劇作家としてのチャンス。これは普通ならハッピーエンドなフラグになるものですが、ここで浮かび上がるのは業界におけるマイノリティへのうわべだけの同調です。

自分の作品が白人の金持ちおばさまたちの享楽にしかならず、白人製作陣のキャリアアップのおつまみに消費される。この辛さ。

もちろん作中のジョシュ・ウィットマンや演出家として起用されてくるジュリーに悪気は全くないのです。だからこそマジョリティな同業者の無自覚な差別構造への加担が、ラダの精神にどっしりと圧力をかけてくるわけです。私たちはマイノリティを尊重しています、だから一緒に仕事しています、多様性を意識したクリエイティブです…。そんな綺麗事の中に本当に当事者であるラダの本意はあるのか。

私は黒人ではないですけど、似たような問題構造はLGBTQ映画界隈として日本でも起こっているのを経験しています。マイノリティを題材に作品を作っていても、結果的に得をしているのはマジョリティである監督や俳優だけで、肝心の当事者は踏み台にされてしまう悲しさ。それを訴えると「いい気分なんだから邪魔をするな」と言わんばかりに握りつぶされる屈辱。マジョリティの観客の熱狂にかき消される当事者の存在。何のために生きているのか、本当にわからなくなります。

作中でも白人の演出家が「これは人種の物語ではない!」と勝手に代弁し出したり、脚色され手を加えられて完成した劇のラストが黒人と白人の融和風なオチで、観客は大盛り上がりだったり。なんだか既視感が満載の映画でした。この光景、日本でもつい最近見たなっていう…。

また、これは例えるなら作中でもラダが劇のテーマにしていた「ジェントリフィケーション」と同じです。本来はジェントリフィケーションは地域発展に用いる概念(経済発展で貧しい者が追い出されて富裕層が住み着くようになる現象)ですが、まさに創作業界でも起きているんだ、と。マイノリティ題材にマジョリティが飛びつくようになり、マイノリティ当事者が追い払われる…。

これにおぞましさを感じてられるかどうかで、特権意識の有無がハッキリ出るんでしょうかね。

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未来を駄作にはしたくない

『40歳の解釈 ラダの場合』はこういう一種の絶望的な窮屈さの中で、ラダがラップという表現に出会っていく物語です。

でも観る前に思っていたような印象とは違いました。私はもっとラップというキャリアで心機一転するようなシンプルな話かと思っていたのですけど、全然そうではありませんでした。

ラダは確かにラップで表現することの方が長けている感じはありますが、それで安易に成功を手にできるわけではないです。ヒップホップはそれはそれで厳しい業界でしょうしね。

しかしラダは間違いなくラップで自分を表現し、それを他者に見せつけることができる。ラップというのは演劇と違って大勢が関わる共同作業ではなく、比較的単独のクリエイティブで成り立たせることができるというのも大きいのかな。

そんなラダを取りまく人間模様も良かったです。

アーチーはアーチー自身でやはり搾取される社会構造に不満を持ちながら、そこに同調しないとやっていけないと妥協に甘んじています。そのアーチーがラダにとっての都合のいいゲイ・フレンドになるわけでもなく、しっかりとその辛さも描かれていくのは嬉しかったです。

また、あのワークショップの若者たち。精子演劇するくだりとか、すごくバカっぽいのですけど、あれはあれで新しい未来の一筋を見せてくれるもの(なんだかんだでジェンダーの視点を取り入れてブラッシュアップしている)。もしかしたらあの子たちの将来は今よりもフェアになっていくのかもしれない、と。希望的観測かもだけど、そんなことも考えたくなる。その中で、エレインとの世代を超えたわずかな意識の共有がいい感じのスパイスになっていました。

さらに作中では直接は登場しないの存在。こうやって見ると、ラダには子どもがいないのですけど、しっかり3世代の黒人女性の物語にもなっているんですね。主人公に子どもがいなくても、こうしたテーマは描けるという点においても、本作はすごくプログレッシブなストーリーを設定していると思います。

これらを総合すると“ラダ・ブランク”は監督としても脚本家として主演としてもめちゃくちゃ才能があると思うのですけど…評価してもしきれない…。

こういう才能を評価できないと業界としてはまさに作中で描かれるようなマジョリティのためだけのフィールドになってしまうわけで、『40歳の解釈 ラダの場合』、もっとたくさん評価されてほしいものです。

『40歳の解釈 ラダの場合』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 99% Audience –%
IMDb
6.1 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 9/10 ★★★★★★★★★

作品ポスター・画像 (C)Hillman Grad Productions

以上、『40歳の解釈 ラダの場合』の感想でした。

The Forty-Year-Old Version (2020) [Japanese Review] 『40歳の解釈 ラダの場合』考察・評価レビュー