「もしも」な物語…アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:日本(2017年)
日本公開日:2017年8月18日
総監督:新房昭之 監督:武内宣之
うちあげはなびしたからみるかよこからみるか
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』物語 簡単紹介
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想(ネタバレなし)
周囲は騒がしいけれど
本作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』、なんか映画ファンにとって今年一番の論争的な作品になっているみたいで…。
その中には去年の一大ムーブメントだった『君の名は。』と比較して大声をあげているだけの人もいます。こうやって見ると本作は『君の名は。』がなかったら周りの反応もおとなしかったかもとも思います。本作を『君の名は。』の二番煎じというのは明らかに誤解ですが(企画の開始は『君の名は。』のヒット後ではないので)、むしろ観客自身が『君の名は。』の二番煎じになっているのが問題なのかもしれません。これは観客が悪いと言いたいのではなく、『君の名は。』を観たという経験値が大半の観客に蓄積されていて、それはどうしたってその後観る作品の評価に影響してくるよ、ていう話です。こういう“『君の名は。』シンドローム”(勝手に命名)は今度、青春アニメ映画に対してしばらく向けられ続くでしょう。製作者も大変です。
『君の名は。』は置いておいて、本作はそれでもじゅうぶん論争あるのもしょうがないと個人的には思ってます。だって、原作が難しい。実写でリメイクすることさえ難しそうなのに、それをアニメ映画化するなんて。同じ系統だと去年実写リメイクされた『セーラー服と機関銃 卒業』のようなものです。また、アニメ映画リメイクだと細田守監督の『時をかける少女』に近い試みですね。
本作の原作について簡単に解説すると、元は1993年にテレビ放送され、1995年に劇場でも公開されたドラマ作品。最近だと『リップヴァンウィンクルの花嫁』を手がけ、今ではアジア圏で人気が非常に高い“岩井俊二”監督の名を日本に知らしめた出世作でもあります。
原作について、その作品の難しさというのは、テーマ自体が抽象的だからというのが背景にあるのですが、それについてはネタバレありで後半にたくさん書きます。
少なくとも普通のベタな青春恋愛映画を期待してみると「あれっ?」となると思いますが、それは原作からしてそうだからです。
よくそんな原作をアニメ映画化する企画が通ったなという感じですが、これは“岩井俊二”監督が邦画監督にはなかなか珍しい“割とオタク寄りな”アニメに理解ある人だからというのが大きい気がします。『魔法少女まどか☆マギカ』さえも観て評価してますからね。
まあ、そんな小難しい映画オタクの小言は忘れて、とにかく夏っぽい映画が観たいという人は本作が一番でしょう。こんなに「夏!」という映画も久しぶりです。
なお、以下のこの感想の後半から、本作アニメ映画だけでなく原作実写ドラマ映画のネタバレも含むので気になる人は注意してください。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想(ネタバレあり)
原作ドラマの描いたもの
まず、原作の“岩井俊二”監督版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の話から。
私は、原作は、少年と少女の成長のズレの儚さを描いた作品だと思ってます。
子どもは小学校低学年くらいまでは男も女も同じ体の成長を見せますが、小学校中学年くらいから、物理的な体の成長も、生物学的な性へ成熟も、精神的な心の成長も、男の子より女の子の方が進んできます。これはそういうものなので仕方がないですが、当人たちは困惑するものです。男の子的には今まで自分と同じだと思っていた女の子が突然全く別の存在に変化していくような不思議な感覚に陥るわけですから。私自身その当時の記憶は薄れていますが、これは私の考えにすぎませんが、今まで一緒に分け隔てなく一緒に遊んでいた男の子と女の子が小学校中学年から中学生くらいには一緒に遊ばなくなり、高校生ぐらいになるとまたつるむようになるのは、その成長のズレが原因なんでしょうね。高校生だと成長は同じレベルになるというか、一応完成ということになりますので。
原作の岩井俊二監督は、そのある一時期の少年と少女の成長のズレに、ドラマの鍵を見出して、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を製作したのだと思います。そもそも岩井俊二監督の作品は、こういう心の成熟度にズレがあるキャラクターを登場させるのが特徴です。
ヒロインのなずなは圧倒的に同年代の男子よりも見た目も中身も大人びており、ひとつ上のステージにいる存在。またこのなずなを演じる“奥菜恵”(当時)の存在感が凄くて、リアルタイムで視聴した人のなかにも釘付けになった人は数知れず。典道のそばでなずなが着替える場面は、まさに少女から大人への変身シーン。なずなは大人の階段を着々と進んでいるのですが、一方で両親の離婚など大人の穢れを目の当たりにして「大人になること」に躊躇も感じられます。水商売で稼ぎたいとか、「大人になること」にどこかシニカルです。だから、子どもである典道に接近するのでしょう。これは恋愛感情というか、もっとふわっとした逃避のようなものと個人的には解釈しています。
その大人へと成長しつつある少女・なずなに対して、主人公含む少年たちがなんとも子どもっぽい。面白いのが、この少年たちにも見た目からして成長の度合いに違いがあって、それに対応するかのように「花火は横から見たら丸いのか?平たいのか?」の各々の意見もバラバラという見せ方。好きな女の子の名前を叫ぶシーンにもそれがよく表れています。ちなみに原作ドラマではここで「セーラームーン!」と叫ぶ子がいるのですが、本作アニメ映画ではいないのは、あれかな、大人になっても2次元が好きな男たちへの配慮かな?
この少年たちも性には興味が出てきているので、原作では女先生の胸を揉んだりするわけです。でもセックスまでには憧れない。『14の夜』でも描かれていた、この未成熟感。少年たちにとって、なずなは抽象的な大人への憧れを向ける相手にぴったりです。これも本当の意味の恋愛感情というよりは、無意識的に大人性に引き寄せられる、光に群がる蛾みたいなものだともいえるのではないでしょうか。
そんな「大人になりつつあるけど大人にはなりたくない」なずなと、「まだまだ子どもだけど大人に近づきたい」典道の、一瞬の交差を描くのが原作です。普通は交差しないはずの二人。でも不可逆な成長線の中で、ありえないけど一晩だけ同調できた…これが原作の「if」なんだと思っています。それが原作のクライマックス、「Forever Friends」が流れる中の、プールで泳ぎ合うなずなと典道なんだろうなと。
長くなりましたが、以上が私の原作の解釈です。
本作アニメの気になる改変
そんな原作をアニメ映画した本作もそのテーマは変わっていません。私はこのテーマ自体とても素晴らしいと思うので、アニメでそれをどうやって表現するのか、楽しみでした。
では、テーマをどうやって表現したのか。当然、原作の実写と同じ手法は使えません。原作は俳優の子役たちのピュアな存在感で説得力を出せますが、アニメは良くも悪くも作り物。作らないといけないです。
まず原作から大きく改変した要素がいくつかあります。
そのひとつが主人公たちの年齢が小学生から中学生に変更されていること。もちろん中高生の客層をターゲットにするための商業的な理由もあるとは思いますが。
私の偏見かもしれませんが、アニメはこういう思春期の年齢ごとの細かい成長を描き分けるのは不得手な気がしていました。だいたい妙にプラトニックか、妙に淫らかの極端な2パターンになっているのではないでしょうか。例えば、『君の名は。』は、私の不満点のひとつに、主人公がプラトニックすぎるというのがあって、普通、高校生にもなれば女性の体になったら胸を揉む以上の関心事があるだろうと。
その点、本作は中学生なので、まあ、ギリギリの矛盾ない変更範囲。でも、私はここにひとつ苦言があって。声です。といっても、声優をつとめた人たちの演技力の問題ではないのです。“広瀬すず”演じるなずなは良いとして、典道ら少年たちの声がガッツリ「声変わり」しているのが気になるのです。声変わりというのは少年が大人になるわかりやすい特徴のひとつ。てことは、本作アニメ映画の典道ら少年たちは「まだまだ子どもだけど」とは言えないよねと。声変わりしていない少年たちが「先生の胸を揉む」のは子どもだしで流せますが、声変わりしている少年たちが「パンチラが」とか言ってると犯罪は言い過ぎですけどセックスへの欲求感がどうしても出ます。少年が大人になりすぎて、少年と少女の成長のズレが上手く表現化できてない気がしました。
一方で、良かったなと思う改変もあって、例えば、大きいポイントだと典道と祐介の水泳勝負になずなも参加する点。さりげなくなずなが圧勝しているのですが、これはなずなの成長度合いを視覚的に見せる良い演出でした。アニメーションならではのダイナミックさもあって、原作にはない魅力です。また、典道ら少年たちの登校場面で、それぞれが別々の乗り物に乗っているのも、少年たちの成長のバラつきが示せていて良かったですね。
アニメもひとつの「if」?
とまあ、声問題に目をつむる(耳をふさぐ?)なら、割と前半はいい感じだなと思いました。
最大の改変は後半です。
そもそも原作は45分くらいしかないので、どうしたって倍ほど引き延ばさないといけません。どうするのだろうと思ったら、あれです、本作の総監督“新房昭之”が手がけた『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』と同じアプローチ。現実と虚構がわからなくなる不可思議な世界に迷い込む展開です。
そのため、結構ベタなSFループものの構造を物語に組み込んできました。そのキーアイテムが「玉」です。ちなみに原作は意外なほどSF要素は薄めで、一度しか時が戻りませんし、どうして時が戻ったのかもわかりません。このポイントは原作当時も批判されていたらしく、原作者“岩井俊二”も本作企画時点から気にしていたようで。やはり中高生の客層に理解してもらうには、このベタなSFループものへの改変は避けられなかったのかな…。
それで、本作はなずなが親に連れ戻されないために時間の巻き戻しを繰り返すというサスペンスが追加されており、それが後半の真ん中くらいまでのストーリーの主軸になります。原作では、なずなは突然帰ると言い出すという、脚本“大根仁”いわく「超展開」があったのですが、それを無くした形ですね。
これだけなら中高生の客層に理解しやすくなるはずですが(原作ファンは苦い顔するでしょうけど)、ただ、本作は原作以上の「超展開」がこの後、続くから大変なことに…。花火の形が違うと困惑する典道に、どっちでもいいじゃないとなずなは答え、そして怒涛の海中シーン。ここで本作はやっと、ありえないけど一晩だけ同調できた「if」を描くのですが、中盤でさんざん原作にないサスペンスSF展開をしておいて、最後にいきなり原作要素に戻るから、中高生の客層はポカーンでしょう。原作ファンもプールじゃないけど、海でなずなと典道の交差が突然始まり、感動も何も困惑したのでは…。しかも、原作以上に物理的に二人がつながるものだから、中高生も原作ファンも咀嚼が間に合わない…。そんなアワアワ状態の観客をよそに物理的に「if」がたくさん降りそそぐ。完全に情報過多です。
ラストはなずなも典道も学校にいないというオリジナルのオチでしたが、まあ、駆け落ちしたという「if」を見せるものと単純に捉えればいいのかもしれません。それこそ原作以上のハッピーエンドといえなくもないです。でも、個人的には「if」は「if」だから美しいのであって、それが現実になるとどうも儚さが薄れて、ループ特有のご都合主義に見えてしまう気も。
原作のもともと持っていた個性が薄れた、大胆なストーリー改変とアニメーションによるファンタジー化。また、かなりたくさんの考察しがいのあるネタを組み込むのは、アニメーション制作の「シャフト」及び総監督・監督の得意とするところ。とりあえず、このアニメ映画リメイクはこの座組でしかできないものだったのは間違いないです。
とまあ、原作ファンは鼻息荒くするでしょうが、当の原作者“岩井俊二”はこういう展開を本来はやってみたかったのかもとも、インタビューを見てて思ったりもするので、私は良しとします。ほら、あれです、これもひとつの「if」ですから(慰めになっていないフォロー)。
今の子どもたちに響く疑問はなんだろう
最後に私が観る前から懸念していたことに「時代の違い」がありました。
これは大胆なストーリー改変やアニメーションによるファンタジー化以前の根本的な問題で…。
「花火は横から見たら丸いのか?平たいのか?」という話題で盛り上がるのが、本作のストーリーの中心線です。もちろんこの「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」というタイトルにもなっている疑問は、先述した少年少女のズレのメタファーでもあり、その質問の答え自体はどうでもいいのですが。
ただ、気になるのは、少なくともこの2017年の現代で、子どもたちはそんな話題で盛り上がるのか?と思うわけです。だって、スマホで調べれば一発でわかりますから。本作は舞台は現代でしょうが、インターネットも登場せず、少年たちの遊ぶゲームも妙にレトロだったりと、情報化社会という現実からは上手く?逃げてましたね。
今のスマホ世代の子どもたちでもあやふやな気持ちにさせる別の疑問が必要になってくるように思うのですよね。何か、別の何かが。でも私のちっぽけな頭では全然思いつかない…。
「理想の職業、公務員になるか?YouTuberになるか?」かな…。やだな、それ…。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer –% Audience –%
IMDb
?.? / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 4/10 ★★★★
(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会 打ち上げ花火下から見るか横から見るか
以上、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の感想でした。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』考察・評価レビュー