海外と日本で評価が二極化した理由…映画『未来のミライ』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:日本(2018年)
日本公開日:2018年7月20日
監督:細田守
未来のミライ
みらいのみらい
『未来のミライ』あらすじ
とある都会の片隅。小さな庭に小さな木の生えた、小さな家に暮らす4歳のくんちゃんは、生まれたばかりの妹のミライに両親の愛情を奪われ、戸惑いの日々を過ごしていた。そんな彼の前にある時、学生の姿をした少女が現れる。彼女は、未来からやってきた妹のミライだった。
『未来のミライ』感想(ネタバレなし)
海外で評価された理由
今や日本を代表するアニメ映画監督となった“細田守”監督が2018年に公開した『未来のミライ』。この映画がなんと2018年の米アカデミー賞の長編アニメ映画賞にノミネートされて、大きな話題になりました。これは日本からはジブリ作品以外では初めての快挙です。この他にも『未来のミライ』のアメリカでの高評価を証明する出来事が連発していて、同じ年のゴールデングローブ賞のアニメ映画賞にもノミネートされ、日本の作品としては初めて同賞にノミネートされる作品となりました。
日本のメディアはよく「ポスト・宮崎駿は誰か?」みたいなことを頻繁に話題にしがちですが(私はこの視点は“好きくない”ですけど)、この本作の評価によって“細田守”監督は名実ともに世界のアニメ映画監督のトップクリエイターのひとりとして上り詰めたと言って良いのではないでしょうか。
ただ、本来なら手放しで称賛の拍手が国内から贈られるはずの今回の『未来のミライ』の評価なのですが、そういうノリになりきれない大きな“しこり”がひとつ…。
『未来のミライ』は日本国内での評価が低かったんですね…。それも“細田守”監督史上最悪レベルの酷評が多く、賛否両論というか、限りなく「否」の感想が強めなのでした。
なので、海外での本作の絶賛状態を見つめる日本人は複雑な空気感に包まれていたりも…。
では、なぜ『未来のミライ』はこんなにも海外で高評価され、日本では低評価になるという極端な真逆の反応で迎えられたのでしょうか。
まず、海外の高評価の件ですが、そもそも“細田守”監督作品は『時をかける少女』以降、海外での評価はもともとずっと高いです。決して『未来のミライ』だけ突出して海外での評価が高かったわけではありません。
しかし、ここで注意なのが、『未来のミライ』以前の“細田守”監督作品は、あくまで“知る人ぞ知る”作品として評価されていたということ。要するにその時点の海外では、熱心なアニメファンや業界人くらいしか知らないマニアの嗜む映画でした。例えば、『サマーウォーズ』(2009年)や『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)は、アメリカのいくつかの地方の映画祭+限定公開にとどまっており、一般人が観る機会はほとんどありませんでした。
ところが『バケモノの子』(2015年)から状況が変わり始めます。『バケモノの子』は、アメリカでの公開シアター数は「123」で、『未来のミライ』では「780」のシアターで公開されたのです(この記事で紹介しているシアター数のデータは全て「Box Office Mojo」からの引用)。無論、ディズニーなど大手大作はもっと凄いですよ(『インクレディブル・ファミリー』は4410シアター、『スパイダーマン:スパイダーバース』は3813シアター)。でも、『未来のミライ』のこれはじゅうぶんな進歩です。
つまり、もともとの評価の高さに加えて、『未来のミライ』はインディペンデント映画から大衆映画に向けて少しステージを上げたことが、今回のアメリカの映画賞のノミネートにつながったのではないかと私は思います。米アカデミー賞は、カンヌ国際映画祭などとは違って、少数の審査員の合議で決まるのではなく、大勢の会員の多数決です。言うなれば、たくさんの人に映画を観てもらうことが票の獲得にダイレクトにつながります。
よく米アカデミー賞の長編アニメ映画部門のノミネート状況を見て、「他の日本のアニメ映画監督作ももっと評価されるべき」と不満を漏らす人もいますが、実際は評価はされているんですね。むしろ日本よりもアニメ映画を芸術として評する傾向の強い海外は、日本のアニメ映画監督の才能にいち早く気づいています。
あとの問題は「シアター数」なのです。なるべく多くの人に観てもらえれば、日本のあの監督もこの監督も長編アニメ映画賞は夢じゃないと私は思っています。まあ、多くの劇場で公開するというのが、またビジネス的に大変なことなのですが…。とくに日本映画市場は内向きで、国内でじゅうぶん儲かっているので、あまり海外にまでチャレンジしようとしないのかもしれません。『未来のミライ』は東宝とGKIDSが頑張ったのでしょう。
『未来のミライ』感想(ネタバレあり)
普遍性が世界に支持される
公開数シアター数の後押しが功を奏したことは前述しました。では『未来のミライ』の中身について、海外ではどう具体的に高評価につながったのでしょうか。海外の批評家のコメントをピックアップして参考にしながら分析したいと思います。
この点に関して考えるとき、日本では「きっと作画が良かったのだろう」と推察する声もあります。確かに本作のアニメーション技術は「日本のアニメ映画の最高水準」として『君の名は。』と肩を並べて評する意見もありました。そもそも今は3DCGアニメーションの最盛期。その時代に膨大な時間と作業量をかけて手書きでアニメーションを作っているだけで称賛はされます。本作は間違いなくその粋を集めたものです。
でも、さすがに「作画が良かった」だけではここまでの評価になる理由には弱いです。他にもそういう精密な手書きアニメーションを堪能できる映画はあるわけですから。
だとしたら、本作の高評価の理由は他にあるのか。私が海外の批評家の感想を漁りながら、なるほどねと思ったのは「日本的でありながら、普遍的である」という意見。
本作は日本が舞台なので、当然のように日本の要素もあります。「雛祭り」も物語のキーアイテムになってきますし、日本の戦争の話だって出てきます。でも、それらは、エキゾチックな日本文化をこれ見よがしに見せつけるものでもなければ、ナショナリズム丸出しで歴史を語るものでもないんですね。日本らしい要素はあくまで背景に過ぎません。
本作のメインとなっているのは「4歳の子ども」。これだけです。この子どもの視点が中心になっています。この「4歳」というのが非常に重要で、物語上でもテーマになっていますが、4歳を「まだアイデンティティがそこまで確立していない“あやふやな”存在」として本作では描いています。つまり、あの「くんちゃん」は「日本人」ですらない「4歳の子ども」なのです。
だから本作の物語は海外でも共感されます。国も、宗教も、人種も、ジェンダーも、誰であれ「4歳の子ども」だった時期はあるのですから。
初めての妹への感情は「不思議…」から嫉妬へと移行し、たどりついたのは未来の東京駅。終盤に登場するあの未来の東京駅は、多様性の宝庫です。いろいろな年齢や人種の人が雑多に行き交い、濁流のように流れています。そんな中でまだアイデンティティを持っていない「くんちゃん」がぽつんと取り残され、「自分で自分自身を証明する必要があります」と社会における自分の立ち位置を示すことを促される。新幹線の名前(アイデンティティ)はわかる「くんちゃん」が、自分にも新幹線みたいに固有の“何か”があることを自覚する。
これは非常にSF的なテーマでありながら、全世界の人間に共通する(そして皆が無意識のうちに経験している)もの。あの東京駅は、私たち人間がそこから多様に成長していく出発点を「くんちゃん」らしく具現化したものですよね。
子どもの心の発達を視覚的に描くアニメーション映画といえば、ピクサーの『インサイド・ヘッド』がありましたが、本作はそれに匹敵する、いやそれ以上に難しい領域に手を出した野心作だったといえるのではないでしょうか。本作の脚本は“細田守”監督であり、自分の子どもを参考にして作ったそうで、偶然にも『インサイド・ヘッド』と共通しています。
『未来のミライ』のシナリオは、確かに多少の粗を勢い任せで誤魔化しているところがありますが、じゅうぶんディズニー&ピクサーレベルでも通用するテーマ性であり、もし“細田守”がディズニー&ピクサーのクリエイターでそこでこのシナリオがブラッシュアップされていたら凄いことになったろうなとつい妄想してしまうのは私だけでしょうか。
本当の4歳の子どもを描く大変さ
そのテーマ性ゆえに、本作の主人公である「くんちゃん」は、あまりにもリアルに4歳の子どもです。
私は本作を観た時、「アニメっぽくないアニメーションだな」と思ったものです。どういうことかというと、「アニメ(Anime)」…つまり日本のアニメーションっぽくないということ。
なぜなら、日本のアニメというのは、たいてい子どもを描くときは実年齢よりも知能を“大人びて”描くことが多いから。そうしないと物語を進めづらいからそうするのでしょうけど、この「子ども(知能は若干大人寄り)」が日本のアニメではデフォルトです。
でも、『未来のミライ』の「くんちゃん」は本当に4歳そのまんま。なので本当に手が付けられない感じが映像で、しかもリアルに手書きアニメーションで表現されている。公共の場所で泣きわめく子どもとうっかり遭遇しちゃったような、どこはかとない気まずささえ本作を鑑賞していると感じます。
4歳の子どもを描くと言えば、思い出されるのが他でもない宮崎駿監督の『となりのトトロ』です。主要人物の子どものひとり「メイ」は同じく4歳。『未来のミライ』の「くんちゃん」と同じように年齢相応に描かれていました。海外の批評家でも、『未来のミライ』は児童の目の高さで児童の物語を語るという姿勢が宮崎駿に通じていると評する声もありました。
でも、『となりのトトロ』では「サツキ」という12歳にしてはちょっと大人びた精神を持つもうひとりの子どもをリード役にしていたので、それでバランスがとれていたんですよね。
一方、『未来のミライ』はオール「くんちゃん」。くんちゃん独断場です。この部分が、従来の子ども描写を定番とするアニメに慣れた日本観客を遠ざける一因になった…のかもしれません。
ただの4歳の子どもだけでリアルを保ったままどうやって物語にするのか…そこを本作は工夫していたのが個人的には上手いなと思っている点。ちゃんと突拍子もない冒険活劇が“リアルで”起こることはせず、全部が家の敷地内だけで完結している…この風呂敷を広げたようで実は全然広げていないミニマムなSFスタイルが私は「4歳の子どもを主役にしたSF」を全力で考えた結果として適切な着地だと感心しました。
まあ、日本の低評価の原因として、「くんちゃん」の声が4歳っぽくないというのは確かに違和感にはなるところ。声を担当した“上白石萌歌”は下手ではないにせよ、4歳の子どもの声を演じられるほど声優として力量はないでしょうし。ちなみに、アメリカ版ではくんちゃんは“ジャデン・ウォルドマン”という子役が声をあてているので、たぶんそんなに違和感はないはず。さらにちなみに、アメリカ版ではミライちゃんとおとうさんの声を担当しているのはアジア系の人で、ちゃんと気にしているあたりが時代ですね(おとうさんの声は“ジョン・チョー”!)。
日本のアニメ映画はここから始まる
『未来のミライ』は、日本では試写を観た一部の人のネガティブな感想がまとめサイトなどで誇張・拡散して、バンドワゴン効果的な炎上しやすい土壌ができあがっていたのも、低評価の最初の引き金だった側面も否めません。また、“細田守”監督がメジャーになりすぎていたことも、作品の中身以上に作品を判断される材料になってしまった不幸を招いたかもしれません。
対する、海外(とくにアメリカ)は『未来のミライ』が“細田守”監督作品の初メジャーデビューといっていいくらいの顔見せ作品。かなり新鮮だったはずです。
加えて、2018年の潮流だった「家族モノ」でもありました。批評家の意見として「『万引き家族』や『ROMA ローマ』のような詩的で野心的な家族物語」「その中でも2018年らしい今の家族の映画だった」というコメントもあり、とにかく上手い具合に全てがハマったのでしょう。
もちろん、本作がイマイチだと感じた人は合わなかったというだけですし、気にすることもなし。映画なんてそんなものです。
本作は、日本の評価と海外の評価は別物だということを学べた良い機会になりました。この経験を元に、日本の映画会社さんはぜひ国内評価を気にすることなく、日本のアニメ映画をどんどん海外で、なるべくたくさんの劇場で公開していってください。
日本のアニメ映画の“未来”は可能性に満ち溢れています。『未来のミライ』がそれを証明したのですから。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 92% Audience 90%
IMDb
7.2 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
(C)2018 スタジオ地図
以上、『未来のミライ』の感想でした。
Mirai (2018) [Japanese Review] 『未来のミライ』考察・評価レビュー