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『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』感想(ネタバレ)…ウディ・アレンの無自覚な男女観は罪が深い

レイニーデイ・イン・ニューヨーク

ウディ・アレンの無自覚な男女観はオシャレで誤魔化せない…映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:A Rainy Day in New York
製作国:アメリカ(2019年)
日本公開日:2020年7月3日
監督:ウディ・アレン
恋愛描写

レイニーデイ・イン・ニューヨーク

れいにーでいいんにゅーよーく
レイニーデイ・イン・ニューヨーク

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』あらすじ

大学生のラブラブなカップルであるギャツビーとアシュレーは、ニューヨークでロマンチックな週末を過ごそうとしていた。そこへ向かう本来の目的は、アシュレーが学校の課題で有名な映画監督ローランド・ポラードにマンハッタンでインタビューをすること。生粋のニューヨーカーのギャッツビーは、アシュレーにニューヨークの街を案内しようと張り切るが…。

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』感想(ネタバレなし)

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上映中止&俳優後悔…そのワケ

前置きなしでいきなり本題に入りますが、今回は“ウディ・アレン”監督の最新作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の紹介&感想です。

ただ本作を語るにあたってやっぱりあの話題は避けては通れないでしょう。日本の映画情報サイトの中にはその話題を知らんぷりして何食わぬ顔でいるところもありますが、そんな態度はしたくありません。映画界の将来を考えるうえで大切なことですから。

“ウディ・アレン”監督といえば、1977年に『アニー・ホール』でアカデミー監督賞と脚本賞を受賞し、それ以降も確実にキャリアを積み重ねて今では巨匠です(現時点で84歳!)。すっかりロマコメのジャンルを得意とする監督という認識をとくに近年のフィルモグラフィーしか知らない人は持っていると思いますが、もともとスタンドアップコメディアンで、日本に例えるなら志村けんみたいな芸風を披露していました。ちなみに私が“ウディ・アレン”監督作の中で一番好きなのはSFコメディの『スリーパー』(1973年)です。

そんなシネフィルからの人気が圧倒的に高い“ウディ・アレン”監督の最新作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は当然のように注目作でした。出演陣も、“ティモシー・シャラメ”、“セレーナ・ゴメス”、“エル・ファニング”、“ジュード・ロウ”、“ディエゴ・ルナ”、“レベッカ・ホール”など今をときめく若手も加えた豪華な顔ぶれであり、これだけでも見る価値あり!と断言できる一作です。

なのでしたが…本作のアメリカでの配給だったAmazonは上映をとりやめ、俳優たちも続々と出演したことの後悔を表明し、自身の出演料分の額を慈善団体に寄付する行動に出ています。

一体何が起こったのか。映画業界の話題に耳を傾けている人には承知のことだと思いますが、その理由は「“ウディ・アレン”監督への性的虐待の告発」です。でも有名な話ですが案外と詳細を理解していない人もいるでしょう。そもそもこの事件、かなりややこしいのです。

発端は“ウッディ・アレン”監督が自身の作品によく出演させていた女優の“ミア・ファロー”とパートナー関係を持ったこと。当時、“ミア・ファロー”は養子をたくさん抱えており、養子と実の子を合わせて7人の子どもがいたそうです。その後、1987年、“ミア・ファロー”との間にさらに息子を作るなどしましたが、この男女の関係性は冷え込み、別れることになります。

その理由が、“ミア・ファロー”の養子だった韓国人女性“スン=イー・プレヴィン”(当時21歳)と“ウディ・アレン”が交際していたことが発覚したためです。しかも、その後、“ウディ・アレン”はこの“スン=イー・プレヴィン”と結婚します(相手の養子と結婚するなんてアリなのか?と思いますが、まあ法的には問題ないんでしょうね…)。で、いろいろ親権争いが勃発するんですね。

もうこの時点で相当に修羅場です。ところが1992年、“ミア・ファロー”は“ウディ・アレン”が当時7歳だった養女“ディラン”に性的な虐待をしたと告発したことで事態はさらに混迷を深めます。結局この時の告発は告発だけで終わり、刑事裁判も棄却になりました。以降、大雨を傘でしのいだ“ウディ・アレン”は映画監督として何事もなくキャリアを重ね、『ブルージャスミン』(2013年)など賞にも輝く作品を生み出しています。

しかし、そこに思わぬところから突風が飛んできます。“ローナン・ファロー”というジャーナリスト兼弁護士が“ウディ・アレン”の性的虐待を再度暴露したのです。彼はかなり若いのですが、実はあのハーヴェイ・ワインスタインの性的暴行を暴きだし、MeToo運動の原点を作った人物。そして、“ウディ・アレン”と“ミア・ファロー”の実の息子なのです。つまり、息子が父の卑猥な所業をぶちまけたことになります。“ウディ・アレン”も黙っておらず「これは私怨だ!洗脳だ!」と自分の息子と昔のパートナーをクソミソに非難したわけですが、世の中はMeToo運動によって変わりました。そして『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の惨状に至るわけです。

本作はいわゆる「映画に罪はあるか」論争が巻き起こします。でもどこかで私も書いたと思いますけどそれは論点のすり替えであり、大事なのは問題構造を見ることです。映画業界や私たち観客は「そういう人だから」で済ましてきたところがあります。そうやって問題を問題視せずに放置した結果が今です。それは監督やプロデューサーが起こす性的事件や、映画会社が起こすパワハラでも同じでしょう。

“ウディ・アレン”のような人物は特権階級にあり、そう簡単には消えない強いパワーを持っています。そういう人たちが自分の欲望を正当化できるシステムを構築できるのは、『ジェフリー・エプスタイン 権力と背徳の億万長者』でも示されていたとおり。だからこそ私たちはそのシステムにうっかり関与しないようにしないといけません。

もちろん映画を観るか観ないかはその人の自由です。キャンセル・カルチャーに参加するもしないも自由。それに“ウディ・アレン”級の特権層なら手段はいくらでもありますから、表現の自由が脅かされることもないでしょう。なので私は“ウッディ・アレン”監督の心配をする必要はゼロだと思いますし、映画業界の未来を憂うことに専念します。巨匠になることや名作を生みだすことが他の悪しき罪の免罪符にならない、そういう世界のために。

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』をどういう心境で鑑賞するかはあなたしだい。

オススメ度のチェック

ひとり ◯(素直に観たいと思えば自由です)
友人 △(俳優ファン同士ならいいけど)
恋人 ◯(恋愛モノではあるけど)
キッズ △(大人のドラマです)
↓ここからネタバレが含まれます↓

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』感想(ネタバレあり)

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天気はその日にならないとわからない

裕福な両親の息子であるギャツビーは今通っている大学にはさほど興味はありません。しかし、同じくこの大学に通っている恋人のアシュレーのためにここに居続けています。二人は仲良しで、今日もベッタリとくっつき、他愛もない会話は止まりません。

アシュレーは上機嫌でした。なぜなら憧れの大物映画監督にインタビューできる機会をゲットしたのです。その監督の名前はローランド・ポラードといい、大学の課題とはいえ、そんな体験を自分ができるなんて夢のようです。

インタビューはニューヨークのマンハッタンで行われるらしく、だったらとギャツビーもついていってロマンチックな週末を過ごそうという計画になります。ギャツビーはニューヨーク出身であり、あそこは友人も多く、コネも効くので、何かと手を回せます。一方のアシュレーはアリゾナ生まれなので都会を知りません。生粋のニューヨーカーのギャツビーは良いところを見せるチャンスだと考えました。

ニューヨークへ向かうバスの中、隣の席に座る大学生カップルのギャツビーとアシュレー。二人は最高の週末になるという確信がありました。気分は晴れやかです。

さっそくニューヨークに到着。ギャツビーの用意した部屋はオシャレな内装で、セントラルパークが一望できる立地にあります。完全に上京したばかりの田舎者状態のアシュレーは感激しっぱなし。

アシュレーは目的どおりあのポラード監督にインタビューをします。ずいぶん浮足立つ感じになりつつも、溢れ出る楽しさを隠せていないアシュレー。

一方のギャツビーはアシュレーがインタビューしている間、ひとりで街を歩くことに。友人の男と出会うなどして時間を過ごします。彼女のインタビューが終われば一緒に過ごせるので少しの辛抱です。

しかし、アシュレーは「この後、ポラード監督と映画上映を観ることになった」とウキウキ。ギャツビーの頭の中の計画は脆くも崩れ去りました。

またひとりで街をうろつくギャツビー。昔馴染みで学生ディレクターのジョシュと再会し、撮影している現場で人手が足りないからキスの相手役をしてくれと頼まれます。その相手の女性はチャンという名前で、実はギャツビーの知っている顔でした。言われたとおり車の中でキスのシーンを撮ることに。 ガールフレンドのアシュリーがいるという話をしつつ、こんなことをしてていいのかと考えながらも、またキス、さらにキス。

その後、雨の中、別の友人の家へ。彼はフランシスコ・ヴェガと言って巷で話題のスターでした。

ところかわってアシュレーはポラードと映画を観ていまいしたが、ポラードはおもむろに出て行ってしまい、彼を探さないといけないことに。土砂降りの中、車で立ち往生。

またギャツビーもタクシーで偶然チャンと乗り合わせ、メトロポリタン美術館に行ったりして、ブラブラと過ごします。本当はアシュレーと行くはずだった場所なのに…。

ポラード探しのアシュレーは流れでフランシスコ・ヴェガと親しくなり、一緒に行動しているうちに、なんだかマスコミによって「新しい恋人」のように扱われてしまいます。自分には別世界だと思っていたセレブの中に加わったようでワクワクするアシュレー。

ひとりになったギャツビーはTVに映ったアシュリーを目撃。フランシスコとの関係が報じられ、ゴージャスなカップルと伝えられていました。自分は完全に忘れられてしまったのか。意気消沈しかできません。ここに来る前は幸せが待っていると疑っていなかったのに…。

ニューヨークの雨はまだまだ続く…。

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パステルが似合う二人

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は“ウディ・アレン”監督十八番のロマコメであり、しかも舞台がニューヨークになっているので、以前の作風に戻った感じがします。『マンハッタン』(1979年)とか『セレブリティ』(1998年)とか。つまり、今回はかなりいつもの“ウディ・アレン”監督スタイルなので、真新しさみたいなものはほぼないです。逆にかつてのニューヨーク過去作の時代の作品が好きな人は懐かしい気分に浸れます。

それにしても本作はおそらく現代が舞台なのかなと思いますが、全然イマドキな感じはしませんね。映画業界のセレブな世界が描かれてはいるのですが、いつの話なんだ?という空気感。まあ、“ウディ・アレン”監督すっかりハリウッドからも離れているし、人付き合いも選んでいるでしょうから、“ウディ・アレン”監督にとってのセレブ世界はいまだにこういう感じなのかもしれない…。

作風は毎度おなじみの会話劇主体。そこまで複雑ではないのでわかりやすいプロットです。そしてその物語を大きく引き立てるのは俳優陣だと言うのも定番どおり。

今作は“ティモシー・シャラメ”と“エル・ファニング”という、今のハリウッドで最も大活躍して若者からの支持もアツい二人を用意するという豪華っぷり。この二人のカップルとか、最強すぎて眩しすぎますよね。序盤の登場シーンからしてピカピカと輝いており、私は尊い気持ちになりましたよ…。

この二人の衣装も良くて、たぶん意図しているのだと思いますが、二人ともパステルカラーを基調にしたデザインのファッションをしており、すごく柔らかい印象を受けます。キツさは1ミリもなく、役者自身の温かい雰囲気もプラスして、なんて平穏なんだというオーラが出ています。対する“セレーナ・ゴメス”演じるチャンは黄色とか赤とか原色強めの服装で、ちょっと二人とは違う存在感が出ています。

このパステルな二人がときにけばけばしいセレブの世界にポツンと混じるとあら不思議。良いアクセントになってくる。フランシスコ・ヴェガとの恋人扱いでマスコミに囲まれているシーンでも、アシュレーがあまりにも垢ぬけない田舎者感が出ていてユーモラスです。ギャツビーもニューヨーカーを気取っていますが、アシュレーに影響されたのか元からなのかどこか自分も垢ぬけていない感じが出ちゃっています。

なお、“ティモシー・シャラメ”と“エル・ファニング”は相も変わらずキュートであり、ファンの人は悶絶できたでしょう。

私は“ティモシー・シャラメ”がちょこんと丸まって座っている感じが好きなんだなと本作を観て実感しました。なんか猫っぽいですよね。ギャツビーとチャンが美術館に行ったときの場面で、二人とも全く展示物を見ていないのがシュール(実際にいたら迷惑でしかないけど)。

“エル・ファニング”は感情一直線タイプで、しゃっくりしたり、つられて深呼吸したり、もはや5歳児とそんなに変わらない振る舞いです。しかもどうやら素の彼女もこんな感じみたいですし…。天性の愛されキャラなんだなぁ…。

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その男女観はいつの時代の話?

俳優たちは抜群の魅力を発揮していた『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』でしたが、お話自体は私はそこまでノれるものでもなく…。

本作を観ていて思ったのは、グレタ・ガーウィグ監督の『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』と真逆な作品だな、と。

どちらにも“ティモシー・シャラメ”が出演しており、ある種の「女性にとっての典型的な理想の相手」という象徴になっています。ルックスが良いのはもちろんのこと、性格も優しく、乱暴さはなく、そのうえ裕福で、そばにいれば間違いなく安心して暮らせるでしょう。でも、それでいいのか?…と問いを投げかけ、「魔性の男の誘惑に打ち勝って夢や仕事を追うんだ!」とメッセージを打ち出したのが『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』です。
一方でこの『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は“ティモシー・シャラメ”が魔性の男そのもので終わり、周囲の女も彼に振り回されるだけで終わる。コテコテのステレオタイプな男女観です。

エンディングの「男がなんもわかっていない女を捨てて他の若い女に乗り換える」っていうオチ、あれ、どこかで見たような…(とぼけるまでもないけど)。

ここは特筆しないわけにはいかないでしょうが、今作もご多分に漏れず、“ウディ・アレン”監督のいつもの「年配男性が若い女性を振り回すor振り回される」という構図が飛び出し、固定化しています。当然、それは“ウディ・アレン”監督自身がそういう嗜好なのでしょうけど、問題はそれをロマコメというずいぶん都合がいい甘々のデコレーションで包んでしまっている点。

今回のアシュレーの顛末だってそんなにオシャレなストーリーで片づけられない、下手をすればスキャンダルになる出来事ですよ。でもそこに関して一切の悪気はこの作り手には微塵もない。そこにこそ“ウディ・アレン”監督の抱える映画外で起きている問題の本質が浮き彫りになっているんじゃないか。

やはり映画は作り手の本心を映しますね。

私は“ウディ・アレン”監督の例の性的虐待の問題をさらに醜悪にさせているのは、彼自身がこういうロマコメを平気で作っているからだとも思うのです。それが余計に厚顔無恥に見せてしまう。

“ウディ・アレン”監督はそれこそ『スリーパー』なんかでは自分が主演になって自分で体を張ってカリカチュアに全力を出していました。原点回帰するならその作家性にまで戻ってほしいなと私は思わなくもないです。

洗脳だ!策略だ!と言いながら誰にも相手にされず孤独の中で他者を冷笑して自著を書く老人の役とかね…。

『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 45% Audience 59%
IMDb
6.6 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 3/10 ★★★

作品ポスター・画像 (C)2019 Gravier Productions, Inc. レイニーデイインニューヨーク

以上、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の感想でした。

A Rainy Day in New York (2019) [Japanese Review] 『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』考察・評価レビュー