こんなろくでもない世界でも…映画『ソーリー、ベイビー(Sorry, Baby)』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2025年)
日本公開日:2025年12月に一部で限定公開
監督:エヴァ・ヴィクター
性暴力描写 性描写 恋愛描写
そーりーべいびー

『Sorry, Baby』物語 簡単紹介
『Sorry, Baby』感想(ネタバレなし)
ごめんね、でも映画があるよ
始まる前からわかっていたけど、2025年はろくでもない1年でした。そんなどうしようもない世界で、心が荒んでしまわないように、どうやってほんのわずかの希望を見いだすか。それが本当に大切になってきているなと痛感しますね。
身に染みている人は少なくないと思うのです。正義もない、救いもない、将来が見えない…そんな今、全てを抱え込んでしまっている自分。どうしたらいいんだろうか…。
もう何もかも終わりにしようかと思い詰めたとき、とりあえずまずはこの映画を観てみるのもいいかもしれません。
それが本作『Sorry, Baby』です。
本作は、かつて大学院時代に指導教員から性的暴力を受けた経験を引きずるひとりの主人公を描いたもの。性暴力の被害者を主題にした作品なので、確かに主軸にあるのはシリアスで重たいのですが、この映画がユニークなのは、それでもあえて皮肉なユーモアを利かせながら、性暴力のトラウマがまとわりつく主人公の心情を映している点です。それ自体がまるでセラピーのようになっています。
私も本作を観たとき、ちょっと昔のツラい記憶をフラッシュバックしてしまって沈んだ瞬間もあったのですが、映画が終わるころには少し気分が楽になっていた気がします。
そのうえ、ここが本作の芯の部分で大事だと思うのですが、本作はクィア表象があって、そのクィアネスが希望としてさりげなく下支えしているのです。クィアであることが悲劇として描かれる作品はいくらでもありますが、最悪の世の中で希望になる作品は貴重ですよね。それだけでホっと温かくさせてくれます。
『Sorry, Baby』を監督・脚本、そして主演もするのは、これが長編映画監督デビュー作となったフランス系アメリカ人の“エヴァ・ヴィクター”。もともと俳優業をしていたのですが、ここにきて新鋭監督として鮮烈な登場を果たしました。“エヴァ・ヴィクター”はノンバイナリー当事者でもあり、本作は先ほども言ったクィア表象としてノンバイナリーに触れる要素があります。
製作には『ムーンライト』の“バリー・ジェンキンス”が名を連ねています。
“エヴァ・ヴィクター”と共演するのは、『ミッキー17』の“ナオミ・アッキー”、『フレンチ・イグジット 〜さよならは言わずに〜』の“ルーカス・ヘッジズ”、ドラマ『マーダー・イン・ザ・ワールドエンド』の“ルイ・キャンセミ”、『Sugar Daddy』の“ケリー・マコーマック”など。
あなたの手を握り締めてくれる友人が今はいない人でも、この映画がその代わりになってくれると思います。
『Sorry, Baby』を観る前のQ&A
鑑賞の案内チェック
| 基本 | 性暴力を直接的には描いていませんが、その被害者のトラウマに焦点をあてています。フラッシュバック等に注意してください。 |
| キッズ | 性的な話題があります。 |
『Sorry, Baby』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(序盤)
アグネス・ウォードは人里離れた森の中にある静かな地に建つ家に、1匹の猫と一緒に暮らしています。ニューイングランドのリベラルアーツカレッジ「フェアポイント」の文学教授でもありますが、この家は人で溢れかえる職場とは空気は違います。
肌寒い夜、家にニューヨークから友人のリディが車で訪ねてきます。久しぶりの再会です。でもやることは平凡。ソファで寝そべり、くだらない話を呟き、リラックスするだけ。
翌日、2人で森を歩き、地面に寝そべって空を見上げたり、他愛もない時間を過ごします。リディは念願叶ってパートナーのフランと望んだかたちで結婚したばかりでした。でもアグネスの前ではリディも昔に戻ったように気楽でいてくれます。
夜、近所のギャビンが玄関を叩きます。何かアグネスに用事があったようですが、リディがいたことで少し場違いに感じたのか、誤魔化しながら帰っていきます。
彼が玄関を閉めて帰った後、リディは「彼とヤってるの?」と揶揄います。
2人で歯磨きをしているとき、リディは妊娠したと伝えてきます。精子提供による妊娠でした。アグネスは顔を高揚させて喜びます。妊娠10週くらいだそうで、まだ実感はほとんどありません。
次の日も2人で並んで、これから待ち受ける出産について、思ったことをただ口にして語り合います。
アグネスとリディは、フェアポイントの元大学院生でグループ仲間だったナターシャ、ローガン、デヴィンという友人を訪ね、ディナーを囲みます。みんなプレストン・デッカーという教授の指導を受けていました。ひたすらに論文執筆と向き合う日々だったあの頃。
しかし、その話題が大学院時代に映り始めると、アグネスはそわそわしだして席を立ちます。その様子に気づいていたのはリディだけです。リディはナターシャにひと言放ちますが、それ以上の詳細には踏み込みません。
ずっと一緒にはいられず、アグネスのもとをリディは離れる日がやってきました。名残惜しそうに別れます。死なないでと言い合って…。

ここから『Sorry, Baby』のネタバレありの感想本文です。
共感力のない他者と自分
『Sorry, Baby』は、いくつかの「年」にパートが分割されて構成されており、序盤から少し前に戻ることで、主人公のアグネスに何が起きたのかが描かれます。ただ、「描かれる」と言っても、直接的には描かれません。
端的に言えば、アグネスは指導教員のプレストン・デッカーから彼の自宅で性暴力を受けるわけですが、その現場である家の外観を固定カメラで映し、時間がパっと切り替わる中、最後にアグネスが急ぎ足で飛び出していく姿を映すのみ。その後は、親友のリディに風呂場で呆然自失で詳細を語る姿が描かれます。
起きたこととしては本当に悲痛な性的加害事件なのですが、本作は当事者目線ながらもシリアス一辺倒な描かれ方にはなりません。全編にわたってシニカルなユーモアが駆使されています。
事件翌日に、アグネスとリディの2人で病院に行くと、男性の医者は無慈悲に(いかにもマニュアル的な口調で)質問してきます。また、大学に相談すると、今度は女性2人が「深刻に受け止めています」「女同士ですからツラいのはよくわかります」と棒読みで「責任はとれない」というただ一点の現実をやたら遠回しに同情風のデコレーションで覆い隠して突き付けてきます。
厚かましくも共感力のない他者たち。場が違えば大笑いして話のネタにしてやりたいところですけども、今はそういう余裕はない…。でもこういう人たちは現実にいる…というか、これが人間の限界なのかもしれません。他人に共感することはあまりに難しいです。
実際のところ、この主人公も他人に共感するを得意としているわけではないでしょう。たぶん自分が性暴力の被害者を前にしたら同じ振る舞いをしていたかもしれない…。
私は本作が描いているのは「被害者特有の苦悩」というよりは「共感することの難しさ」なんじゃないかなと感じました。
ちょっと笑うのは猫の存在で、作中でアグネスが子猫を拾ってきて、この構図は「小動物が癒しを与える」という非常にベタな展開を期待させますが、そうはなりません。むしろ猫が捕まえて家に持ってきた半死半生のネズミの殺処分を自分がやらないといけないハメになるという、トラウマを追加注文する猫の身勝手さ。猫が最も厚かましくも共感力のない他者の象徴でした。本作のポスターは巧妙なミスリードだったのか…。
こういう深刻な被害をシニカルなユーモアで描くというアプローチは、一見すると不謹慎で被害者感情を逆撫でしそうですが、でもこうすることでしかあの体験を処理できないことってありますよね。
本作のアプローチはこれはこれでセラピーにはなっているのだろうとは思います。自己流の不器用さが目立つものであっても…。
トラウマを物語で解体する
『Sorry, Baby』は加害者の描き方も特徴的でした。
あの指導教員は、凶悪で狡猾なレイプ魔ではない…あまりにもありふれた平凡でひ弱な男として描かれています。「なんでこんな奴に…」と自己嫌悪に陥りたくなるくらいに、普通の男です。でもそれもまた現実。
本作ではあの加害者の背景などは一切描かれません。自分で逃げるように辞職してからのその後はわかりません。かなり突き放した描き方です。
対して、アグネス自身はどう加害者に向き合えばいいのか困惑したままです。法的に訴えも起こせず、何か復讐したい気持ちがあるようで、でもそれも曖昧で…。
アグネスはあの指導教員を学問の先輩として敬意を払っていたのは事実であり、その指導教員のおかげでキャリアがあるのも無視できない…。陪審員の審査の際にその刑罰への期待の薄さを口にして対象から外されてしまいますが、ありのままの本音でしょう。
この虚無感。ろくでもない世界に対して、自分が何をしても意味ないのでは?と半ば放棄するしかできない…。このぽっかり穴の開いた感覚を、この映画は上手く表現できていたのではないでしょうか。
一方で、同じ指導教員と接していたナターシャのあの告白を聞いたとき、アグネスは激しいパニック発作に襲われます。これはある意味、自分もナターシャのように被害を内面化して正当化してしまっていたかもしれないという恐怖心が沸き上がったからなのか。
そんな中、リディやギャビンとの対話の中で、男性のペニスを相対化する視線もたびたび浮き上がり、そうやってひとつひとつトラウマを解体する試みの描写も丁寧でした。
また、アグネスが大学の授業で“ウラジーミル・ナボコフ”の『ロリータ』を題材に、この倫理的に不快な文学をどう受け止めるかを議論しているシーンがあります。これはいかにもアグネスらしい試みですよね。学問としてトラウマの解体を模索するという…。
それはもちろんこの映画を解釈する観客に通じる話です。この映画を観ながら自身の経験したトラウマと向き合っていく(私みたいな)観客も絶対にいるわけですから。
ノンバイナリーは希望になる
という感じでこれだけでも『Sorry, Baby』は映画としてしっかり作り込まれていると感じるのですが、ここにさらにクィアネスの折り込みかたがまた素晴らしいなと思いました。
孤独や死に繋がったり、周囲の無理解に沈んだり、酷い言葉や待遇に晒されたり…そういう描写は、性的マイノリティを主題にするよくある映画の定番です。実際、ただでさえ性暴力被害を描いているのですから、そこに上乗せで、性的マイノリティとしての苦難も描く…というのが物語として真っ先に思いつきそうですし、そうしている他の作品を私は今までいくつも観てきました。
しかし、本作における「クィアであること」は悲劇の象徴ではありません。
まず、主人公のアグネスの親友であるリディは、作中のセリフでチラっと女性に惹かれることを匂わせていましたが、でもオープンにセクシュアリティを公表しているわけでもない…自覚無しの当事者です。
そのリディはフランというパートナーがいて、そのフランはノンバイナリーと思われます(演じているのは、“E・R・ファイトマスター”というノンバイナリー当事者の俳優)。作中でリディは「やっと州に認められて結婚できるようになった」と言っていますが、これはおそらく同性婚の話ではなく(ニューヨークでは2011年から同性同士の結婚はすでに法的に可能)、結婚証明書にノンバイナリーとして性別が記載できるようになったという話のことでしょう。ニューヨークでそれが可能になったのは2023年~2024年であり、進歩的でリベラルだといわれるニューヨークでもやっとのことでした。
そしてアグネスもまたジェンダー・アイデンティティがノンバイナリーに傾いていることを示唆させています。一番わかりやすいのが、陪審員審査の書類で、性別の欄の「F(女)」と「M(男)」の中間に「○」、Fに「○」を記入し、その間に両矢印「⇔」を書き記すシーンですかね。それでもアグネスが明確にそのアイデンティティを認識している素振りはありません。
別にノンバイナリーだから物語が劇的に展開するわけではないです。本当にただそれだけです。それでもこの世界で、何気なくクィアであることが、新たなまだ見ぬ楽しさや喜びが詰まった始まりに繋がっているかもしれない…。そう思えるならこれ以上の希望はないですよね。
よくAFAB(出生時に女性と割り当てられた)のノンバイナリーに対する偏見として「性差別が嫌でノンバイナリーと認識しているのだ(自己逃避だ)」というものがあるのですが、本作でもさりげなく映し出されるように、まわりがどうであろうとノンバイナリーはノンバイナリーです。それに、加害などの作用が自分のアイデンティティを決めるなんて考え方、虚しいだけじゃないですか。
私たちは生まれたときからノンバイナリーに祝福され、希望を与えられている(アグネスが赤ん坊にそうしたように)。それでじゅうぶんじゃないかと晴れやかにさせてくれるエンディングの映画でした。
シネマンドレイクの個人的評価
LGBTQレプリゼンテーション評価
◎(充実/独創的)
以上、『Sorry, Baby』の感想でした。
作品ポスター・画像 (C)A24 ソーリーベイビー
Sorry, Baby (2025) [Japanese Review] 『Sorry, Baby』考察・評価レビュー
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