ボクらを見る目
ドラマシリーズ『ボクらを見る目』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:When They See Us
製作国:アメリカ(2019年)
配信日:2019年にNetflixで配信
監督:エイヴァ・デュヴァーネイ

ボクらを見る目

あらすじ

まだあどけない少年だった5人はある夜を境に突然、世間から恐ろしい怪物と見なされるようになった。身に覚えのないレイプ事件の犯人に仕立て上げられ、憎悪に駆り立てられた警察は暴走し、証拠はすべて嘘で固められた。法廷での闘いは人種間の溝を深め、少年たちの心は引き裂かれる。果たしてこの少年たちに救いはあるのだろうか。

ネタバレなし感想

正義が暴走するとき

警察という言葉を英語で言うと「Police」です。みんな知っている簡単な英単語ですね。

この単語の語源は「秩序ある市民による政治」を意味する古代ギリシャ語だそうです。

警察の仕事は、治安を守ること。人間社会ではいろいろな人がいますから、どうしても“いざこざ”が起きます。当事者同士で穏便に解決できればいいのですが、そうもいかないこともあります。だからこそ、警察の出番です。中立的かつ冷静な行動によって、ときに犯人を捕まえ、人々の暮らしを守ります。私たちは“正しく機能する”警察がいると思えるからこそ、万が一の事態でも安心できるという、一種の平穏の保証を享受することができます。

しかし、もしその警察が“正しく機能していなかったら”

そんなことは考えたくもありませんが、残念ながら起こりえます。というか、すでにたくさん起こっています。

その警察などの社会正義がひとたび狂ってしまったときの絶望的な恐ろしさを、これ以上ないほど体感させるドラマ作品として、大きな話題になったものが本作『ボクらを見る目』です。

本作はNetflixで配信されたドラマシリーズなのですが、4パートに分かれ、それぞれが64分、71分、73分、88分と全体で296分(約5時間)です。ドラマシリーズと呼ぶには短いですし、これだったらちょっと長めの映画と認識してもいいくらいだと思います。

題材となっているのはある実際に起きた事件。その事件は「セントラルパーク・ジョガー事件」と呼ばれており、1989年にニューヨークのセントラルパークで起きました。ジョギングをしていた28歳の白人女性がレイプ暴行され、瀕死の状態で発見されました。一命はとりとめたものの、重体となり、体に重い障害を負うことになります。都市部のど真ん中で起きた凄惨な事件に、世論は震撼し、怒りに震えました。そして、逮捕されたのが当時14~16歳の5人の有色人種少年。ところが実際は犯行を裏付ける証拠は何もなく、それは当たり前で、この少年たちは事件とは一切無関係なのでした。しかし、警察とマスメディア、世論はそんな真実など気にもせず、この少年たちに”正義の鉄槌”を下すことに…。

『ボクらを見る目』はこの逮捕された5人の少年(後に「セントラルパーク・ファイブ」と呼ばれます)の視点になって、この冤罪事件を克明に再現したドラマです。

アメリカには根深い黒人差別があることはあらためて語るまでもないですけど、その差別によって警察が暴走して起きた事件を描いた作品と言えば、最近は『デトロイト』という非常にヘビーな作品がありました。また、冤罪事件を背景に引き裂かれた男女や家族を丁寧に描いた『ビール・ストリートの恋人たち』という映画も賞レースで注目されて目立っていました。




『ボクらを見る目』はそれらに匹敵する、いやそれすらも凌駕する傑作と言えるかもしれません。すでに批評家からも大絶賛され、賞にも輝くことは間違いなしの評価。

監督は“エイヴァ・デュヴァーネイ”で、アフリカ系女性というマイノリティでありながら、その素晴らしいクリエイティビティが高く評価され、業界を牽引する貴重なトップランナーでもあります。もっぱらドキュメンタリーを手がけてきたキャリアがあり、実話を得意とするのですが、“エイヴァ・デュヴァーネイ”監督の名を決定的にした代表作が『グローリー 明日への行進』という映画。偉大な黒人活動家「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」を描いたこの映画はブラック・ムービーとしてマストで観るべき一作です。その後も『13th 憲法修正第13条』など社会に鋭く切り込むドキュメンタリーを生み出していました。また『リンクル・イン・タイム』(日本では劇場未公開でビデオスルー)というファンタジー映画をディズニー配給で手がけ、大作監督としての仲間入りも果たしました。


その“エイヴァ・デュヴァーネイ”監督が自身も切望するかたちで題材に選んだ今作『ボクらを見る目』は、まさに彼女の作家性を詰め込みに詰め込んだ、ベストワークと言えるでしょう。

その内容は衝撃的で、正直、正視に耐えない映像も多く、絶望的な気持ちになって目をそらしたくなりますが、これを見て見ぬふりをするわけにはいかない思いにもさせられます。原題の「When They See Us」(直訳すれば「人々が私たちを見るとき」)の意味を考えれば、なおさら。

Netflixでは作品のキャストや監督、そして冤罪逮捕された当人たちが出演して、その思いを語る番組『オプラ ウィンフリー PRESENTS:今、ボクらを見る目』も配信されており、本編を見た後にこちらも視聴することを強くオススメします。

その中で司会のオプラ・ウィンフリーが本作を「時代精神(ツァイトガイスト)の作品」と評していますが、まさに同感。これは過去の昔話ではなく、今、観るべきこの時代の作品です。2019年の絶対に見逃せないドラマのひとつとして名を挙げられるのも納得の存在でしょう。

オススメ度のチェック
ひとり◎(見て見ぬふりはできない)
友人◎(議論は盛り上がる)
恋人△(気分は落ち込むが…)
キッズ△(心理的にキツイが…)

予告動画






↓ここからネタバレが含まれます↓





ネタバレあり感想

これは警察といえるのか

1989年4月19日。ニューヨークのマンハッタン北部にあるアフリカ系アメリカ人の文化が息づく中心地「ハーレム」。そこで毎日を自由気ままに暮らす子どもたちは、それぞれを思い思いで過ごしていました。父と野球の話で盛り上がる子、夢中になっている楽器の話をする子、女の子と一緒に食事をする子、パーティのことで友人と無駄話をする子…どれもごく普通の日常です。

日も沈みかけてきた頃、大勢の黒人やヒスパニック系の少年たちがニューヨーカーの憩いの場であるセントラルパークにわんさかと集まっていました。なんでも「ワイルディング」だとか。

この「ワイルディング」が何なのか、私たちにはさっぱりわかりませんが、要するに複数で集まってちょっとハメを外してはしゃぐ行為をカッコつけてそう呼んでいるだけで、明確な目的があるわけではないようです。日本でいうところの渋谷の歩行者天国でハロウィンや大晦日に大勢が集まるみたいなものですね。まあ、渋谷と比べたら、作中のあれは超小規模ですけど。

しかし、通報がいくつか寄せられたことで警察のパトカーが出動。公園に集まっていた少年たちは警官に追われて散り散りに。何人かは逮捕されてしまいます。

ところがそれとほぼ同時並行で、ある事件が起きていました。警察は瀕死の重体の女性を公園内で発見。ただちに捜査を開始します。担当はマンハッタン地方検察・性犯罪部長のリンダ・フェアステインという金髪の女性。被害者(名前はパトリシア・マイリ)はジョギングしていたランナーらしく、後頭部を殴られ、ひきずられ、レイプされたと推測。被害女性は危篤状態にあり、犯人を示す証言は何もありませんが、早急に犯人逮捕のために動き出します。

最初は当時の夜に公園内に集まっていた少年たちの中に有力な目撃証言があるかもしれないと考えますが、すぐにこの少年たちを“目撃者”から“容疑者”へと扱いを変更。あの公園にいた少年たちを片っ端から警察に連れてこさせます。

そして最終的に捜査対象となったのは、ケヴィン・リチャードソン、アントロン・マックレイ、ユセフ・サラーム、レイモンド・サンタナ・Jr、コーリー・ワイズの5名でした。

ここから警察による地獄の尋問シーンがスタート。この一連の場面がもう何度見ても恐怖でしかありません。とにかく“少年たちが犯人である”と決めつけていることが大前提にあるので、何でもあり。物的証拠がない以上、自供させるしかなく、手段はあの手この手。

作られたのは100%捏造の自供。そも自白強要をどうやって実行するのか、本作はどこまで真実なのかは知りませんが、相当にリアリティがあり、“これは確かにこんなことさせられたら自白を捏造できる”と嫌々ながらこちらも痛感する光景ばかり。

「早く家に帰りたいだろ?」と寄り添ってみたり、ガラッと変わって脅しをかけてみたり、暴力をふるってみたり。相手が弱い立場の少年だとわかったうえでの舐めきった高圧的な態度。とくに互いにそれぞれを“犯人だ”と証言させる手口など、悪魔の所業です。弁護士の権利を放棄させようとし、親に対しては過去の犯罪歴を今の会社にばらすぞと脅迫し、あらゆる方法で外部の助けを破壊し、少年たちを留置の中で孤立させます。

そのやり方はハッキリ言ってそのへんのギャングよりも怖い。本当にこれが警察なのか?…誰だって疑います。

そもそも私は捜査や犯罪に関する知識なんてゼロですけど、そんな素人の私でも、この少年たちが犯人ではないことはすぐにわかります。辻褄がどう考えたって合いません。それを仕事にしている警察がわからないわけがなく、それでも犯行時間や行動の整合性をなんとかでっちあげるために、何度も自供を変えさせて撮るあたり、もはや狂気。

人種差別が根底にあるとはいえ、人間はこうも理性も知性も失うものなのか、本当に不思議でなりません。

本作の最後パートで真犯人が判明し、それが過去にこの地域で4度も同様の犯罪を起こしていた常習犯だとわかりますが、その作中でも疑問が投げかけられていたとおり、なぜ真っ先にこの犯人との関連を疑わなかったのか。

人種差別は人間を人間でなくさせるものだということを実感せざずにはいられません。

パート1でひととおり尋問が終わって拘置所に集められた4人の少年が初めて顔合わせし、初対面ながらそれぞれを犯人だと言ってしまったことを謝るくだり。本作で聞かれる謝罪の言葉がこのシーンだけだというのが、本当に辛いです。

いろいろな目が交錯する法廷劇

パート2からはいよいよ裁判の開始。物語は法廷劇へ。

こんなことを書くと、史実に当事者に失礼ですけど、あえて言うなら作品としては非常に面白さをだしやすいパートです。前パートは一歩的な集団リンチ状態にありましたが、このパートからは少年側と検察側が表向きは対等に戦えるのですから。

ただそんな単純なバトルとはなりません。ここでいろいろな登場人物がドッと増えて、関係性の歪なども浮き彫りになっていきます。

まず少年側ですが、彼らについてくれるのが「保護者」「弁護士」というステークホルダーです。しかし、単純に一致団結とはいきません。保護者は保護者で何人かは警察の聴取時に子どもに不利な対応をしてしまい、後ろめたさを抱えています。加えて、それぞれの保護者同士でも簡単に連携をとれるかといえば、そうでもなく。なにせついこの間までは赤の他人だったわけですから。それも無理もない。

一方の弁護士側がよりどりみどりな顔ぶれで、最初は大丈夫かと思うような人もいますが、少なくとも作中ではマイナスな印象を残す描かれ方はしていません。たぶん、この描写の理由は、この事件は結局は有罪という判決が出るのですが、それを弁護士の落ち度という安直な原因に落とし込みたくはなかったのでしょう。

対する検察側ですが、こちらもひと悶着。まずこちらの主役はリンダという部長からエリザベス・レデラー検察官にバトンタッチ。レデラー検察官は前パートにも出ていて、しっかり自白をとるように警察にクギをさす役割を果たしていましたが、ついに自分のターン。

正直、私は警察は極悪非道だと思って見ていますけど、このレデラー検察官に関しては若干心配になってくる気持ちもありました。なんといったって、物証ゼロ、目撃者無し、自白は矛盾だらけ…これで有罪にしろという方が無理な話ですよ。ここでリンダvsレデラーという駆け引きが生まれることで、本作が安易な二項対立にならない、サスペンスの魅力になる…“エイヴァ・デュヴァーネイ”監督さすがのさりげない手際だなと感心してしまいました。

全部を史実どおりにしたらつまらない部分もでてくるというもの。そこにどれだけ史実を汚さない程度の脚色を加えるか。製作陣の腕の見せどころなのですが、実に上手いです。視聴している観客も、我を忘れて“これ、有罪になるのか無罪になるのか、どっちなんだ”と思わずハラハラさせる没入的な緊張感がありました。

被害女性のパトリシアをあえて登場させるシーンをしっかり描いたのも素晴らしいな、と。視力も低下し、嗅覚も失い、歩行も障害を抱え、記憶を失っている被害者の痛々しい姿。それを描くことで、そもそもこの冤罪事件の根底にあるのは“起こってはならない暴力”であり、それさえなければ冤罪だって起こらなかったんだという、絶対に忘れてはならない事実を全員に想起させますね。

あと、ただ騒ぎまくるだけのマスコミ、そしてドナルド・トランプに代表される偉そうに口出しするご意見番的な人間。こういう世間の無自覚な悪意の目をハッキリ強調するのも印象的でした。

ボクらを見る目

あなたはどんな目を持っていますか

パート3とパート4は、有罪が確定した5人の少年のその後の話。

前パート2つはそれぞれ警察署と裁判という5人共通した舞台がありましたが、ここから5人はバラバラの境遇になります。そのため、個人個人をそれぞれ掘り下げることになり、若干時間も長くなります。また、前パート2つと違って緊迫的なサスペンスは一旦落ち着くので、目が離せないような釘付けの力は薄め。

だからといって、つまらないわけでは無論ありません。というか、本作は一貫して冤罪当事者たちがどう見られているかを描きだしています。

警察の目、検察の目、裁判官の目、弁護士の目、保護者の目、マスコミの目、一般人の目…とにかくあらゆる視線が凝縮されていた今までと違い、このパートからはまるであのときの騒ぎが嘘のように不気味な静けさ。マスコミすらももう飽きたのか、見向きもしません。あの少年たちが結局は大衆にとってスキャンダラスなネタに過ぎなかったことを強調させ、残酷に映ります。

5人のうち4人は年齢的な理由で罪が軽くなったため、6~7年の収容の後に仮釈放に。

またあの故郷のハーレムに戻ってきますが、人生をあの時の続きからリスタートすることはできません。仮釈放のルールで、重罪犯同士は接触禁止かつ性犯罪者は子どもに近寄れない(レジカウンターとかの仕事は無理)など就職は大きく不利となり、家族との関係性も疎遠になったり、地元が地元ではないような違和感。取り返しのつかない人生の傷を負ったことが悲しいほどよくわかります。

例えば、アントロンは父と険悪になった描写がありますが、『オプラ ウィンフリー PRESENTS:今、ボクらを見る目』を見ると、今なお「父を許せない」と苦しげに語る当人の姿があって、何も言えないです…。

一方、年齢が上だったコーリーは大人の犯罪者と同じ扱いで刑務所に収監されていました。年齢が上といっても1歳程度の違いですが、それはこうも運命を分けるとは。しかも、彼は友人のために警察についていっただけの少年でしたからね(これは実話)。

そのコーリーが経験する刑務所での絶望を描くパート4。

ライカーズ島、アッティカ更生施設、ウェンディ州立刑務所、オーバーン刑務所と場所を変え、周囲からときに暴力を、ときにほんの少しの恵みを受け、それでも仮釈放聴聞会では罪を認めない姿勢を貫く。このパートは作品としてはいわゆる刑務所モノのジャンル的な扱いとも言えますが、当人の苦悩が全面に滲む映像にはこちらも言葉が出ない。

そこへ、マタイアス・レイエスという終身刑の囚人があのセントラルパーク・ジョガー事件の犯人だと名乗り出たことで事件がいとも簡単に解決。罪は晴れます。でもなんでしょうね、この全然嬉しくない気分…

行政は全然謝罪はしていないと言いますし、結局はあの冤罪は何だったのか。誰も総括しようとすらしない世間。あのたくさんあったはずの目が、急に他所を見だす白々しさ。 

でも監督は「あのリンダも古いシステムの一部だ」と言っています。確かに警察は無能です。でも冤罪を引き起こしたのは、秩序あると豪語する社会の無秩序なのでしょうか。それは改善されたのでしょうか。

私は『ボクらを見る目』の感想を見ていて悲しい気持ちになったことがあって、日本の感想の中には「このような事件が繰り返されないことを祈るばかりです」みたいなコメントがあるんですね。でもこの事件の背景になった人種差別は現在進行形で起こっています。もちろんその差別に基づく冤罪も。

いや、アメリカだけじゃない、日本だって起こっているでしょう。犯罪事件が起こるたび、捕まった容疑者を「あいつは○○人だ」と特定の人種・民族で断定して悪人扱いする声はネット上にたくさん蔓延しており、これこそ『ボクらを見る目』で描かれる邪悪な社会体質そのものです。

私たちがあの『ボクらを見る目』の警察と同類になるのか否か。それはすべて私たちの“見る目”にかかっています。

ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 96% Audience 93%
IMDb
9.0 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 9/10 ★★★★★★★★★

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作品ポスター・画像 (C)Harpo Films