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ドラマ『私のトナカイちゃん』感想(ネタバレ)…犯人特定よりも大切なことがある

私のトナカイちゃん

iPhoneから送信…「Netflix」ドラマシリーズ『私のトナカイちゃん』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:Baby Reindeer
製作国:イギリス(2024年)
シーズン1:2024年にNetflixで配信
原案:リチャード・ガッド
性暴力描写 LGBTQ差別描写 性描写 恋愛描写
私のトナカイちゃん

わたしのとなかいちゃん
『私のトナカイちゃん』のポスター。細身の男がガラスのコップの中に閉じ込められ、背後にふくよかな体型の女性が佇むデザイン。

『私のトナカイちゃん』物語 簡単紹介

ロンドンのパブで人生の展望の見えなさに静かに絶望していた売れない芸人の男。そんな彼は寂しそうに佇む女性に些細な優しさを向けた。しかし、そのちょっとした軽い気持ちでの親切が彼女の恐ろしい執着心に火をつけ、それぞれの人生を終わりなく狂わせるような事態に発展していく。仕事も、家も、人間関係も、夢も、何もかも台無しになっていくのを止める手段はなかったのか…。
この記事は「シネマンドレイク」執筆による『私のトナカイちゃん』の感想です。

『私のトナカイちゃん』感想(ネタバレなし)

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そんなことよりも作品にもっと向き合って

「特定班」という言葉があって、これはインターネット上のわずかな情報を頼りに(ときにそれは誤った情報であることもある)、ターゲットにした人物の個人名や住所などの個人情報を特定することに熱中する人々を指します(英語だと「Internet Sleuths」になるかな)。その対象とされる人物は、何かしらの事件などの犯罪を起こした人や、ネット上で炎上したような人だったりします。

もちろん事件性があるゆえに法的な手段に則って警察が捜査の一環で個人情報を特定するのは構いませんし、一般人でも正当なジャーナリズムの範囲内であったり、または法的に訴えるための情報収集として弁護士などの指示のもので行う場合も、それ自体は問題ありません。

問題になるのは、各個人がゲーム感覚で面白半分にこうした行為に手を染める場合です。特定した内容が正確だったかにかぎらず、適切な手順なしでそんなことをするのは、ただのストーキングと同一のオンライン・ハラスメントになりかねません。プライバシーの侵害です。

残念ながら現在のインターネット・カオス空間では、「特定班」が娯楽のひとつとなっており、どこかしらで誰かを特定しようと躍起になっている人たちがいます。

今回紹介するドラマも、そんな「特定班」騒動に巻き込まれた不運な一作です。

それが本作『私のトナカイちゃん』

本作はそんな配信前から話題の作品なんかではありませんでした。小規模なイギリスのドラマシリーズです。有名俳優がでているわけでもなく、著名クリエイターも関わっていません。

物語は、ひとりの30歳前後の男が主人公で、ある日、ひょんなことからこの男はとある女性からストーカーの被害を受けることになってしまいます。その被害によって追い詰められていく様子を描いた一人称的なものです。

実は本作は、主演・製作・脚本である”リチャード・ガッド”の実体験を基にしています(登場人物名は架空のものになっている)。”リチャード・ガッド”は自身が経験したストーカー被害をワンマンショーの舞台劇にし、それは高評価を受けていたのですが、本作はそれをドラマ化したものとなります。

「ストーカー」は一種のスリラー・エンターテインメントのサブジャンルとして定着していますが、この『私のトナカイちゃん』はそうした既存作とはひと味違います。やはり被害当事者が真剣に作り込んでいるだけあって、安易な露悪的スタンスはなく、複雑な心情をしっかり捉えています。事件における被害者や加害者も一面的に描くようなことはしていません。

世間で過小評価されたり誤解されがちなストーカー被害というものの実態について、誠実に社会に訴える力強さのあるパーソナルなドラマです。

それなのに…それだけ丁寧に練り込まれたドラマなのにもかかわらず、本作が「Netflix」で配信されるや、一部の視聴者が”リチャード・ガッド”に加害をした人物を特定してやろうと嗅ぎまわる動きがあって…。それに対して”リチャード・ガッド”は「そんなことはやめてください」とコメントをださないといけない事態になってしまいましたThe Mary Sue

良いドラマなのだけど、わずかな視聴者のモラルがついていけていないのは悲しいですね…。特定する行為こそ本作で描かれるストーカーと同一だろうに…。

そんな残念な視聴者のせいで作品の汚点になってはほしくないのであらためて強調しておきますけど、『私のトナカイちゃん』は本当に良作です。トラウマにいかに向き合うかという心理的葛藤、事件を軽視する社会構造の問題、男らしさの居場所の無さに揺れる男性ジェンダーの戸惑い…いくつもの視点で語れます。クィアな要素も深く介在しており、見逃せないレプリゼンテーションです。

『私のトナカイちゃん』は全7話。1話あたり約30~40分で、時間的には見やすいので一気に鑑賞するのがオススメです。

ただし、フラッシュバックを刺激するストーキングや性暴力の生々しい直接的な描写、セクシュアル・マイノリティ当事者の辛い体験描写があるので、その点はご留意ください。

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『私のトナカイちゃん』を観る前のQ&A

✔『私のトナカイちゃん』の見どころ
★事件に対する誠実な向き合い方。
★トラウマ含めた複雑な心理的葛藤の描き方。
✔『私のトナカイちゃん』の欠点
☆辛い描写が続くので注意。

オススメ度のチェック

ひとり 5.0:隠れた良作
友人 4.0:素直に語り合える人と
恋人 3.5:デート気分ではないけど
キッズ 1.5:暴力や犯罪描写あり
↓ここからネタバレが含まれます↓

『私のトナカイちゃん』感想/考察(ネタバレあり)

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あらすじ(序盤)

ある男が申し訳なさそうに警察署に来ます。そのドニー・ダン「ストーカーで悩んでいる。半年前から」とやや落ち着きなく受付の警官に告げます。「なぜ今頃?」と警官はぶしつけな質問を口にしてきますが…。

それは2015年、ドニーがロンドンの片隅のパブで働いているときでした。ドニーはコメディアンでしたが、全く売れておらず、地味な人生を送っていました。

そのパブにあるひとりの女性が来店します。その女性は席に座るも、何も飲みたくないそうで、うなだれています。あまりに可哀想な姿だったのでドニーは同情してしまい、「紅茶をおごりましょうか」と提案します。

そう言われて女性は初めて顔をあげました。少し明るくなった表情を浮かべて…。

「仕事は?」と聞くと「弁護士」と答えてきます。どうやって学んだのか、どんな事務所があるのか、急に饒舌に語ってきます。大物政治家とも関係があるのだとか、聞いてもいないのにこれ見よがしにアピールしてきます。

その女性、マーサは甲高い笑い声をあげます。マーサの自分語りは変です。けれどもドニーも人のことを言えません。20代後半で夢に破れ、今は元カノのキーリーの母親リズの家に居候し、誰も笑わせられないスベり芸人。孤立していました。自分を見てくれたマーサは確かに異例の存在でした。

それからというものマーサは毎日パブに来ました。毎日違う服で満面の笑み。おごってもらう。ドニーが勤務している間はずっと居座って喋り続けます。

ドニーは話を合わせてあげることにします。「baby reindeer(トナカイちゃん)」と呼んでくるマーサは、屈託なく笑ってくれるのでドニーもおだてて笑わせました。そんな奇妙な男女のペアを目にした周りの男たちは「付き合ってるのかよ」と揶揄ってきますが、ドニーはそこに乗っかってしまいます。それが間違った一歩を踏み出すとは…。

マーサからメールが1日80件以上届き始め、内容も下品で綴りも文構成も変でした。パブでの対面は相変わらず続き、マーサはピクニックに行く気満々でしたが、ドニーはやんわりと断ります。結局、コーヒーに行くことになります。友人として…。

ドニーは人生が上手くいかないことを吐露し、マーサは真剣に慰めてくれます。しかし、手を離さないので怒るとマーサは急に変貌して大声で逆切れのように怒鳴りだしました

マーサはドニーがやっているスタンドアップコメディのステージも見に来て、空気を気にもしない彼女の笑いで場が盛り上がります。それはドニーの人生に欲していた快感でした。

明らかにおかしいマーサに警戒感はあったものの、名前を検索するとストーカーで有罪歴があり、危険人物の可能性が強まりました。

それでもドニーはマーサからのFacebookの友達リクエストを承認してしまい…。

この『私のトナカイちゃん』のあらすじは「シネマンドレイク」によってオリジナルで書かれました。内容は2024/05/01に更新されています。
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居場所のないクィアな男の苦悩

ここから『私のトナカイちゃん』のネタバレありの感想本文です。

『私のトナカイちゃん』はまずやはり被害者の心境というか心理の描写が非常に解像度高く繊細かつ大胆に、そして何よりも自己批評的に描かれるのが印象でした。

主人公のドニー・ダンが後にストーカー加害者となるマーサと最初に接点を持ったのは、ドニーが働くパブで紅茶をおごったこと。本当に些細な客へのサービスです。店員が客に一杯おごるのは小さなバーなどではままある光景です。

ドニーはこれを「同情してしまった」と自戒します。うなだれるマーサの背景にある事情や心の内を知らずに安易に寄り添ってしまった…と。

一方で、ドニーの人生の背景や心の内は作中で多くが明らかになります。

ドニーはクィアで(当人はバイセクシュアルかなと作中では考えている)、しかし親には伝えておらず、周囲にもほとんど明かしていないようです。セクシュアリティのアイデンティティの不明瞭さを恥じているような感じさえこぼれでています。

なのでトランス女性であるテリーと交際している際も(演じている“ナヴァ・マウ”はトランスジェンダー当事者PinkNews)、彼女のことが本当に好きなのにもかかわらず、自分のプロフィールや名前を偽り、目立つところでデートしたり、キスしたりができません。これが「トランスジェンダーへの偏見が心の奥にあるのではないか」と自分を責める材料になってしまっており、ゆえにかLGBTQコミュニティとも少し距離をとってしまっています。

実際、ドニーにトランスフォビアな差別意識があるわけではなく、むしろマーサがテリーをミスジェンダリングな罵倒したりする言動に激怒したり、ちゃんとモラルがあります。逆に言うと、自分が差別主義者と思われてしまうのではないかという恐怖に怯えている感じですね。

それと同時に、ドニーはいかにも性的少数者の権利など興味なさそうな、異性愛規範の女性蔑視の男たち(パブの仲間)の中にあえて囲まれ、そこなら馴染めるかもしれないと自分をたきつけますが、当然上手くいきません。ホモソーシャルなノリにますます自分の惨めさが増すだけです。

このクィアな彷徨いだけではありません。ドニーはコメディアンを始めたばかりの過去に、脚本家の業界人ダリアン・オコナーから性的暴行を繰り返し受けていました。ドラッグに溺れさせられ、仕事を与えるという口実で、いかにもビジネスにありがちなグルーミングをされてしまった経験。これまたドニーの自信の無さに直結しています。

念のため注記しておきますけど、性暴力を受けたから同性愛者になった…わけではないですからね(それはよくある偏見です;PinkNews

こうしてドニーは強烈な自己嫌悪をこじらせてしまい、心理的自傷を慢性化させています。

作中ではこの苦しさを、コメディアンが盛大にギャグをスベらせて観客が冷めていくという空気と重ねるという演出が巧みです。笑うに笑えないのに、当人は笑いにすれば何とかなると思っている(その精神はいかにも空回りした男らしさそのもの)。痛々しさが話数を重ねるごとに充満するドラマです。

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被害者バッシングの中で自己対処する限界

そんな最初から孤立を深めているドニーが、マーサに親近感を覚えるのは無理もありません。自分を白眼視しているのではと邪推させずに見てくれる人の存在は、ドニーを解放的な気分にさせました。

しかし、それはドニーの背景を知っていて初めて理解できる関係性であり、ドニーの心の内を知らない周囲の者からすれば、「自分から危ない奴に手を出した」という自業自得に思われてしまいます。

現に作中ではマーサの過激化するストーキングに苦しみだすドニーについて、周囲の者たちはあまり真剣に理解してくれません。それどころか「あなたのせい」だと周りに責められ、解決する気はあるのかさえも疑われる始末です。

これは典型的な「ヴィクティム・ブレーミング(被害者非難)」なのですが、その仕組みが非常によくわかるドラマですね。

要するに周囲や世間は「同情できる可哀想な被害者」か「同情できない自滅的な情けない者」かという選別をしてくるのです。ここでもまた「同情」という要素が際立ち、その「同情」の問題点が浮き彫りになりますね。

こうやってもっと孤立が悪化し、ドニーはひたすらに自己対処しようとして奔走し、さらに状況はどうにもならなくなっていきます。

最初は穏便に対話で交渉し、次に無視してみて、今度は強く拒絶してみて…。ドニーは有害な男らしさに染まりたくないので、一応女性であるマーサに遠慮するのですが、テリーへの暴力で一気に堪忍袋の緒が切れ、厳しい言葉で怒鳴り散らします。

警察も手順どおりの事務的な態度なので全然被害者保護を前提とした機能を果たしません。あげくには喧嘩両成敗みたいな仲介を望んでもいないのにやってきます。

こうして、被害者側の人生を奪われてしまいます。家、仕事、人間関係、夢も…。

最終的には自暴自棄になって、コメディの最終大会で自分の過去を暴露することになりますが、心理状態としては最悪。それすらも大衆の消費物(動画でバズる)になってしまうというあたりも怖い展開ではあるのですが…。

結局、ドニーの心を救うのは、親身な静かな理解です。保守的だった両親はカミングアウトすると意外にも受け止めてくれました(父はカトリックで性的虐待を受けた経験があると告白もしてくれる)。キーリーもリズもまた居場所を提供してくれました。衣食住と心のケアは外せませんよね。

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でもやはり同情は大切だから

『私のトナカイちゃん』において、被害者のドニーのことはよくわかりますが、マーサの実態は見えてきません。

マーサは作中でもストーキング行為自体はとても人権侵害的な脅威としてリアルに描かれていますが、だからといって「ヤバイ異常者」として単純にレッテルを貼るようなことはしていません。マーサの背景をあえて描かないのはスティグマを助長しないためなのか、ジャンルとしてはかなり冷静な姿勢です。

ドニーはこのマーサと結びつきを感じます。これも起きうる話です。共依存というか、被害者と加害者の間に不本意ながら当人同士にしかわからない接点ができてしまう状況が生じたりします。

ドニーはその結びつきを「これは惹かれているのか」と混乱し、自慰に利用するなど混乱が起きますが、これ自体は変なことではありません。そういう錯乱は普通にあることですから。

ただ、ドニーがマーサを知ろうと頑張っても無駄に終わります。留守電伝言の内容から脅迫に該当する言葉がないか自分でチェックするハメになり、共感の繋がりを感じながら、「次は誰かを刺す」という発言が決め手で逮捕。裁判でマーサは自ら有罪を主張し、「懲役9カ月、5年の接近禁止命令」が下されます。

マーサについてわかったことと言えば、「baby reindeer(トナカイちゃん)」という呼び名の由来がマーサが子どもの頃に持っていた「トナカイのぬいぐるみ」であったこと。マーサにも孤独があったのだろうとどうしようもなく悲しくなりながら、パブでうなだれていると、そんなドニーに同情して店員がおごってくれる…。そんなエンディングで幕を閉じます。

同情で始まり、同情に終わる。それは皮肉ではなく、一番大切なメッセージでしょう。

『私のトナカイちゃん』は露悪的に人間不信を煽るような作品ではないのが良かったです。同情は引き金だけど、同情の価値と向き合うことを諦めていませんでした。寄り添うことはすっごく大事なのだけど、同時に本当に難しいことでもある。そんなことを考えさせられるような…。

そして、各個人には負担があまりに大きすぎることも痛感しますね。要するに、個人に重荷を背負わせない社会のシステムが必要なんですよね。「マーサの正体・本名」「ダリアンのモデルになった実在の人物」なんて検索するだけの反応じゃ意味なくて、被害者も加害者も生まないためにどうやってそんなシステムを作るか。

”リチャード・ガッド”は現在、男性の性暴力被害サバイバー向けの支援団体と共同で活動をしていますThe Guardian。性暴力やストーキングの被害は誰でも起きえます。オンライン・ハラスメントも同様です。

確かな意味のある寄り添いの繋がりを増やして、システムを作っていきましょう。

『私のトナカイちゃん』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 97% Audience 84%
IMDb
8.2 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
9.0
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作品ポスター・画像 (C)Netflix ベイビー・レインディア

以上、『私のトナカイちゃん』の感想でした。

Baby Reindeer (2024) [Japanese Review] 『私のトナカイちゃん』考察・評価レビュー