その告白には歴史的価値がある…Netflixドキュメンタリー映画『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2020年)
日本では劇場未公開:2020年にNetflixで配信
監督:クリス・ボラン
恋愛描写
シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト
しーくれっとらぶ ろくじゅうごねんごのかみんぐあうと
『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』あらすじ
社会から公然と同性愛者が迫害を受けていた時代。その中で、ずっと関係を隠し続けてきた2人の女性がいた。それから時は過ぎ去り、晩年になってやっとカミングアウトできた喜びも束の間、年を重ねた今だからこその困難が待ち受けていた。2人で一緒にいればどんな苦難も乗り越えられる。そう信じて支え合ってきた2人の生涯に迫っていくと、秘密に隠された愛が顔を覗かせていく。
『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』感想(ネタバレなし)
同性愛者にとってのデートムービー
セクシュアル・マイノリティであるLGBTQにとって「カミングアウト」というものは不本意ながら大きな人生のイベントになってしまいます。
カミングアウトしなければいけない義務があるわけではありません。ただその一方でカミングアウトしづらい空気があるせいで、当事者は「嘘をつき続ける」という状態を強いられます。もし社会に差別や偏見なんてなく、あらゆるジェンダーやセクシュアリティが平等に扱われていたとしたら、カミングアウトなんて概念はなくなります。シスジェンダーやヘテロセクシュアルといったマジョリティの人が普段からしているように、平然と誰が好きとか嫌いとかをペラペラ喋ればいいだけですから。何も気にすることなく。
けれどもそういう社会にはなっていないので、まだまだ今後もLGBTQにとってカミングアウトは不服ではありますが負担として重くズッシリ圧し掛かっていくことでしょう。
しかし、時代の変化にともない、カミングアウトのハードルは徐々にですが下がりつつあります。欧米では芸能人や業界人がオープンリーとして自認を公にすることも珍しくなくなってきました。若い人を中心に抵抗感のほとんどない社会が成熟しつつある匂いも感じます。
日本では残念ながらその段階に到達しておらず、芸能人ですらLGBTQを公言する人は超レアケースであり、LGBTQを自認したうえで各業界で活躍する人も乏しく、庶民レベルだと匿名のSNSで自認を語る程度(私もなのですが…)。
そんな揺れる現代を見ていると、昔はどうだったのだろう?と思うこともあります。LGBTQは何も最近になって突如発生したものではないです。何十年前、いや何百年前からいたわけです。でも、なかなか昔のLGBTQの歴史、もっと言えば体験が語られることはないです。戦争経験とかは語られて映画になったりしますが、LGBTQはあまりないですよね。
その理由はもちろん「言えないから」なのですが。昔を生きた人ほど「言えない」苦しみが今とは桁違いで重かったりします。しかし、それでももし当時を知る先駆者の経験を聞かせてもらえるなら、それはとても貴重で有益なことでしょう。そのカミングアウトは歴史的価値すらあるのです。
そして本作『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』はまさにそのとおり貴重なカミングアウトでした。
このドキュメンタリーは、アメリカで一緒に暮らす二人の高齢者女性にスポットをあてたものです。周囲には「いとこ」だと言っていた彼女たちですが、実は同性愛者であり、65年の時を経てついにカミングアウトします。
高齢者夫婦の愛の人生を追っていくドキュメンタリーといえば最近も『あなた、その川を渡らないで』がありましたが、あちらは異性愛。
この『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』はそれの同性愛版だと思えばいいでしょう。けれども、題材となっているこの老レズビアン・カップルが辿ってきた人生の道のりは「普遍的な愛」なんていう都合のいい言葉で置き換えできるものではありません。同性愛ゆえの苦悩もまた常に横たわり続けていました。
本作を観ると同性愛者が経験してきた歴史の重みを生き証人の口から聞けて、それだけでも歴史的価値があるというのは前述したとおり。また、現在を生きる若い同性愛者当事者にしてみれば、尊敬と同時にこれからの時代の中で自分のアイデンティティを貫くうえでの励ましになってくれる一作にもなると思います。「この人たちがこんなに頑張れたのなら、自分たちもいける」…という自信につながったり…。あまり同性愛カップルで観るのに適している作品って世間には少ないと思うのですが(異性愛モノばっかりだし…)、そういう意味でもこのドキュメンタリーは理想のデートムービーになりますよね。
逆に同性愛者当事者ではない人(異性愛者)であれば、歴史の影でひっそりと偽りながら寄り添い合うしかなかった存在がいる事実を痛感し、ヘテロ規範を見直すきっかけにもなると思います。あとカミングアウトの重みというものを、ほんの少しでもわかってもらえるといいな、と。
『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』をプロデュースしたのは、ドラマ『glee/グリー』でおなじみの“ライアン・マーフィー”。彼自身も同性愛者であると公表しており、最近はドラマ『POSE ポーズ』といった革新的なLGBTQ作品を生み出しており、今後もますます期待したくなります。
『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』はNetflixオリジナル作品として配信中です。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(迷う背中を押してくれる) |
友人 | ◯(親しい友と語るも良し) |
恋人 | ◎(デートムービーに) |
キッズ | ◯(愛の素直な肯定を) |
『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』予告動画
『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』感想(ネタバレあり)
二人が一緒なら幸せだった
イリノイ州、セント・チャールズ。閑静な場所に建つ、ごく普通の一軒家。そこには二人の高齢女性が暮らしていました。名前は、パット・ヘンシェルとテリー・ドナヒュー。
手の震えが止まらず診断を受けているテリーは、パットが取り次いだ医者からの電話を受けます。その際、パットのことを「彼女はいとこです」と説明して…。
二人は人生の岐路に立っていました。もちろん今までも無数の岐路を経験してきたはずですが、今回は特別に大きな決断を要するものです。高齢者同士がこの家で自力で暮らすには限界が来ていました。「家は処分すべきね」と潮時を感じつつ、懐かしい思い出の詰まった家はやはり名残惜しい。その後の予定は不明で、施設に行くかと漠然と考えていますが、明確なプランは決まっていません。
「でも二人が一緒なら幸せだ」…そう口にするのでした。
カナダのエドモントンにはテリーの姪であるダイアナ・ボランがおり、彼女のもとを訪れます。ダイアナにとってテリー叔母さんは特別な人であり、母親のようなものとして絶大な信頼を置いていました。教師になる夢を応援してくれたし、いつも支えてくれたテリーには感謝しても感謝しきれません。
しかし、そんな親密なダイアナでさえもずっと知らされていなかった事実があります。それを教えてくれたのは3年前。ディナーを一緒に食べた時、デザートのタイミングで、テリーは震え泣きながら“あること”をカミングアウトしたのでした。自分たちは同性愛者だ…と。
二人の出会いはパットが18歳、テリーが22歳のとき、地元のアイスホッケー場で。魔法のように惹かれていたと表現していましたが、その出会いはなんとも不意です。
ここで面白いのは、テリーは当時は女子野球選手として活躍しており、非常に女子に囲まれた女だらけコミュニティで暮らしていたわけです。でもその時は自分が同性愛者だとは考えてもおらず、なんとなく聞いた同性愛者の話題も他人事のように捉えていたと語られます。
しかし、パットに出会った瞬間、それは変わります。この「他人事が自分事に変わる瞬間」というのはLGBTQ当事者なら身に覚えがある人も多いはずです。つまり、「自分は“普通”だ」なんて今まさに思っている異性愛者だってそんなのわかんないですよ。単に運命の人に巡り合っていないからなのかもしれない。自分自身が無意識に世間の規範に染まっている中で、“気づくタイミング”は唐突に訪れる。そういう感覚の存在があの二人の体験談からも窺えます。
それにしてもパットの人生はこれまたテリーとは対極的です。そもそも男性の恋人がもとからいたものの、パイロットの婚約者は戦死し、次の男性はトラクター横転で死亡するなんていう、嘘みたいな経歴が本当に凄いです。不謹慎ですけど、同性愛者を支持する神様の粋な計らいなのか…。
ただ、パットの人生はその後も不幸が多く、1959年に父と義母が事故死し、孤独に。そんな中でテリーの両親が養子同然に受け入れてくれたという経緯を見ると、同性愛以前に家族愛としての尊さに感動してきますね。
テリーがパットに惹かれた理由と、パットがテリーに惹かれた理由は、その境遇から違っているのかもしれませんが、とにかくあの二人は出会うべくして出会った運命のペアなのでしょう。
迫害の歴史のサバイバー
しかし、ロマンチックな出会いとして単純に祝えない事情が、この『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』では説明されます。
それは二人が出会った1940~1950年代のアメリカの時代背景です。
この当時、作中では「3人に2人が同性愛を嫌悪していた」と紹介されていましたが、まさに社会全体が「同性愛狩り」をしているような状況でした。現在にもあるような同性愛者への心無い誹謗中傷とかとは次元が違います。積極的に迫害しまくっていたのです。
捕捉的に解説すると、こうも酷い状況になった理由の一つに医学界の問題があります。当時、同性愛は医学的に「精神障害」のひとつとして扱われていたのです。アメリカ精神医学会が出版している「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」というものがあり、これは精神障害の分類をしたりと基準を明示した専門家なら当然参考にする学術的な資料です。このマニュアルに1952年に同性愛は病気として掲載されてしまいます。
無論、医学的なお墨付きが与えられたら庶民はどう考えるか。自信を持って同性愛者を差別してきます。いや、差別している側はこれを迫害だなんて思っていません。科学的に正しいことであるとして自分の所業を疑いもしません。
それどころかそれはどんどん拡大解釈というか、話がオーバーになっていき、まるで同性愛者は社会を乱す危険な異常者であるかのように誇張されて扱われていくことになります。性的倒錯者は見境なく同性を襲うレイプ魔であるとか、コントロールの効かないサイコパスであるとか…。
ゆえに続々と同性愛者は逮捕されていきます。同性愛者自身も逃げ隠れるためにアンダーグラウンドで過ごすことになるのですが、そんな潜伏先にも取り締まりは容赦なくやってきます。女性物を3点身に着けていないという理由で当時はレズビアン・バーに手入れが入り女性が逮捕されたとか、市長が同性愛者の氏名と職業を公表し、解雇され、失業し、自殺者も出たりとか…。本当に恐ろしい時代です。
なお、同性愛者も黙って耐えていたわけではなく、1955年には初のレズビアン組織「Daughters of Bilitis」を設立したり、対抗はしてはいたのですが、いかんせん社会全体の圧力は強大で…。
結局、レズビアンたちの声が響き渡り始めるのは1960年代の第二波フェミニズムまで待たないといけません。
ともかく話を『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』のテリーとパットのカップルに戻しますが、この二人はバーには行っておらず、逮捕などは免れたようです。もしここで逮捕でもされていたら、実質アウティングとなり、同性愛であることが暴露されてしまうのですから、人生は違ったものになっていたでしょう。少なくとも二人がこうして末永く付き合うことはできなかったはずです。パットがテリーに書いた手紙が見つかるシーンで、名前がバレないように一部を破ってあるのがわかりますが、ああいうサラッとした場面に迫害の確かな歴史を感じてしまうとなんだかゾッとしますね。
二人は65年後にカミングアウトします。もちろん今は同性愛でも逮捕されません。だからカミングアウトできるというのもあります。しかし、二人がここに来るまでの道は本当にギリギリだった…そのプレッシャーからの解放というのは、やはり私なんかでは想像がつかないものだなと思います。
カミングアウトした後の苦悩
カミングアウトを聞いたダイアナは「I don’t care」(気にしないよ)と言ってくれたわけですが、これでめでたしめでたし…とはいきません。
とりあえず二人の周辺の人たちは割と受け入れてくれる人が多かったようで、そこはホッとひと安心なのですが、立ちはだかる壁があります。
それは同性愛であろうが異性愛だろうが皮肉にも等しく襲ってくる「老い」という恐怖。「老い」だけは差別しないなんて、なんだかね…。
ということでパーキンソン病が進行するテリーが一番に懸念事項になっており、ダイアナは早急に施設に移り住むべきだと進言します。しかし、なかなか二人は動きません。とくにパットとの距離感を感じるダイアナ。このへんは、まあ、お年寄りあるあるな体験ではありますよね。
でもここでも同性愛者ゆえの葛藤がやっぱり根底にはあるのだと思うのです。つまり、あの二人はずっとこの家で隠れ潜んでいたのであり、いわばここはセーフスペース。単なる思い出の場所以上の意味があります。そこを出て新しい世界で生活するというのは、同性愛者にしてみればとてつもなく大きな覚悟がいることです。たとえ今はそういう差別がなくなった(少なくとも昔と比べれば)としても、簡単には覚悟できない。これは異性愛者にはそうそう理解できるものじゃないと思います。
健康を心配するダイアナが二人(パットとテリー)の乗り気ではない態度にショックを受けて泣きながら怒るシーンが作中ではありますが、あのときのダイアナの気持ちもよくわかると同時に、あの二人の言葉にできない感情もなんとなく察することはできます。それが互いに上手く伝わらない、すれ違ってしまうという悲しいミスコミュニケーション。本当は互いに想いやっているのですけどね…。
そんなこんなでついに施設に入所し、人生の再スタートを切った二人。そして老齢期になってやっと迎えることができた結婚式。「もう互いをいとこと呼ばず、愛する妻と呼べます」なんていうユーモアも交えた誓いの儀式ですが、それはあの二人の人生だけでなく、1940~1950年代という暗黒時代を経験した全ての同性愛者へのゴールでもありました。
最後は故郷のカナダに戻って本当の自分を見せる二人。ちなみに、カナダは2005年に同性婚が合法化されており、なかなかに先進的です。
こうやって見ていると、人間というのはただ老いて朽ちていくだけではない、本当に人生は最後の最後まで何が起こるかわからないものだなと思いますよね。たぶんあの二人はこんなふうに社会が自分を受け入れてくれるなんて想像もしていなかったのでしょうから。
ただ、本作に苦言をつけるわけではないですが、注意点があるとすれば、あの主題となった二人は同性愛者と言えども、中流階級として比較的安定した暮らしができる立場にいる存在です。これがもし有色人種だったり、貧困層だったら、全然話は違ってきます。要するに、この物語を同性愛者の歴史的変化の基本軸みたいに捉えるのはちょっと危ういです。
世界には本当にいろいろな同性愛者、もっと言えばセクシュアル・マイノリティがいて、それぞれの人生がある。今なお苦しんでいる人もいる。カミングアウトできない人もいる。そんなことを考えながら、実社会と向き合ってみてほしいと思います。シークレットじゃないラブが増えるように。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 100% Audience 96%
IMDb
8.0 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)Blumhouse Productions, Netflix
以上、『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』の感想でした。
A Secret Love (2020) [Japanese Review] 『シークレット・ラブ 65年後のカミングアウト』考察・評価レビュー