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『聖地には蜘蛛が巣を張る』感想(ネタバレ)…社会がミソジニー殺人鬼を産み落とす

聖地には蜘蛛が巣を張る

社会がミソジニー殺人鬼を産み落とす…映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:Holy Spider
製作国:デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス(2022年)
日本公開日:2023年4月14日
監督:アリ・アッバシ
性描写

聖地には蜘蛛が巣を張る

せいちにはくもがすをはる
聖地には蜘蛛が巣を張る

『聖地には蜘蛛が巣を張る』あらすじ

2000年代初頭。イランの聖地マシュハドで、娼婦を標的にした残忍な連続殺人事件が発生していた。「スパイダー・キラー」と呼ばれる殺人者は「街を浄化する」という声明のもと犯行を繰り返し、多くの住民たちは震撼するが、一部の人々はそんな犯人を英雄視する。真相を追う女性ジャーナリストのラヒミは、事件を覆い隠そうとする不穏な圧力にさらされながらも、危険を顧みず取材と調査を進めるが…。
この記事は「シネマンドレイク」執筆による『聖地には蜘蛛が巣を張る』の感想です。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』感想(ネタバレなし)

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女性を罰してやりたい…それがミソジニー

あえて名前を挙げてやることもないのでその大衆に公言しているネームは伏せますが、2023年になっても日本では「貧困に苦しむ女性を支援する活動をする女性たち」に狙いを定め、その女性たちを攻撃することを楽しんでいる人たちがなおも健在です。ますます暴走して膨れ上がっていると言ってもいいでしょう。その人たちには大義名分があり、「自分たちは不正を正すのだ」と自信満々です。こうして(多くの場合は男性ですが)それらの「女性を正そうとする人」は論客としてインターネット上で支持者を増やし、神格化されています。

この背後にあるのは紛れもなくミソジニー(女性蔑視)であり、ミソジニーの原理がよくわかります。ミソジニーとは全ての女性を敵視することではなく、女性を「良い女性」と「悪い女性」に勝手に分類し、自分たちの独善的な動機で「自分たちが気に入らない女性」を「悪い女性」として集中的に攻撃します。

この女性を「良い女性」と「悪い女性」に選別するという行為は、人権を一切無視して行われ、実際はそこに何の正当性もありません。ただ単に自分こそが絶対的な裁定者なのであり、一部の不届きな女性に裁きを与えられる。その快感に酔いしれているだけです。

残念ながらこうした身勝手な理由で「女性を罰する」という行為は、歴史的に幾度となく繰り返されてきました。ある時は社会規範に従わぬ女性を「魔女」として断罪し、ある時は「精神疾患」として病棟に隔離し、ある時は「ツイフェミ」などと嘲笑したり、ある時は「トランスジェンダリズム」というレトリックでトランスミソジニーを発露したり…。

今回紹介する映画は、身勝手な理由で「女性を罰する」という行為がいとも簡単に実行され、その結果、最悪な顛末を招いた実話の事件を題材にしたものです。

それが本作『聖地には蜘蛛が巣を張る』

『聖地には蜘蛛が巣を張る』を語るならやはり私は監督からですね。本作の監督は、2016年に『マザーズ』で長編映画デビューを果たし、続く2018年の『ボーダー 二つの世界』で鮮烈な物語を届けて衝撃を与えた、あの“アリ・アッバシ”です。私もあの『ボーダー 二つの世界』には度肝を抜きましたし、つい「2019年 映画ベスト10」にランクインさせちゃいましたけど、いまだにどういう作家性の人なのか処理しきれていない…。

その“アリ・アッバシ”監督がついに地元のイランを舞台に描いたのがこの『聖地には蜘蛛が巣を張る』。しかも、イランで起きた実在の連続殺人事件を題材にするというのですから…。

これまでの“アリ・アッバシ”監督作はどちらかと言えば寓話的なダーク・ファンタジーのようなジャンルで包んだような物語だったのですけど、今回の『聖地には蜘蛛が巣を張る』は実話モノ。当然トーンも違ってくるでしょう。

ただ、そこはやはり“アリ・アッバシ”監督で、史実の事件をリアルに映像化する方向性ではなく、あくまでそれに着想を得て、“アリ・アッバシ”流のイマジネーションでダークな寓話にアレンジしているのでした。だから見終わった後は「ああ、やっぱり“アリ・アッバシ”監督作だな…」と妙に納得。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』は女性、それも娼婦が相次いで惨殺される事件を扱っており、その根底にあるのは言うまでもなくミソジニーです。母国の最も有名なフェミサイドを通してミソジニーの歪みを描こうという“アリ・アッバシ”監督の強い意志がグサグサ伝わってきます。“アリ・アッバシ”監督は最近もドラマ『THE LAST OF US』でも醜悪なミソジニーを描くエピソード監督を担当していましたね。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』も高評価で、カンヌ国際映画祭では女優賞に輝きました。その栄光を手にし、本作で闇に紛れる事件を果敢に調べるジャーナリストの主人公を演じた“ザーラ・アミール・エブラヒミ”。こちらの鋭い名演も本作を引き締めます。

史実の事件を題材にすると言っても、ミステリーサスペンスという感じではなく、殺人鬼ひとりよりも社会そのものの怖さを浮かび上がらせる「“信じたくないけど本当に起こってしまった”怖い話」といった感じ。“アリ・アッバシ”監督は容赦なく現実を寓話として告発していくのです。

なお、題材が題材なだけに、女性が無惨に殺されるシーンが何度も挿入されます。男性による暴力の直接的な描写に関するトラウマに起因するフラッシュバック等には留意してください。

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『聖地には蜘蛛が巣を張る』を観る前のQ&A

✔『聖地には蜘蛛が巣を張る』の見どころ
★ミソジニーの醜悪な構造が浮かび上がる。
★スリルを引き立たせる脚色によるサスペンス。
✔『聖地には蜘蛛が巣を張る』の欠点
☆残忍な暴力描写が多い。

オススメ度のチェック

ひとり 4.0:題材に関心あるなら
友人 4.0:シネフィル同士で
恋人 2.5:デート向けではない
キッズ 2.0:直接的な殺人描写あり
↓ここからネタバレが含まれます↓

『聖地には蜘蛛が巣を張る』感想(ネタバレあり)

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あらすじ(前半):街を浄化する

2000年代初頭。イランの聖地マシュハド。このイランで2番目に大きな都市は350万人の人口を抱え、毎年2000万人以上もの観光客と巡礼者が訪れます。その多くが「シーア派イランの心臓部」と呼ばれている壮麗なモスク「イマーム・レザー廟」への参拝のためであり、この街は信仰によって駆動しているのでした。

ある日、タバコを吸いながら髪を縛り、鏡の前で上の服を着るひとりの女性がいました。眠る子どもに起こさないように優しく声をかけ、スカーフを被り、外へ。女性は足早に地元の町を歩き、しばらく行くと、トイレで靴を履き替え、髪をだすようにくるくるといじります。

そしてマシュハドの賑やかな街へと繰り出し、車に乗り込みます。そのまま豪華な部屋で“客”相手に性行為。それが終わるとトイレで整えつつ、また外へ。この女性は路上売春婦として夜は生計を立てていました。

すぐには帰りません。まだ稼がないといけません。今度は車の中で男の相手をします。はしたないカネに文句を言っても、男は用済みになった女性を手荒く追い出すだけです

人影のない路地に座っていると、ヘルメットをしたバイクの男に話しかけられ、後ろに乗ります。しかし、この男は女の頭も含めた全身を黒い布ですっぽり覆うように言い、ボロボロな集合住宅建物の上階へと案内します。

さすがにカネを払ってくれる感じにも見えません。女は警戒して階段の途中で帰ろうとしますが、背を向けた瞬間に男がスカーフで首を絞めてきます。女は押し倒され、抵抗するも言葉もだせず、そのまま息絶えます。

男はその遺体を慣れた手つきで黒い布でくるみ、バイクに乗せて運びます。人が滅多に来ないゴミを捨てる場所に放置し、何食わぬ顔でその場から去ります。そしてまた男はバイクで夜の街に消えていくのでした

ジャーナリストのラヒミは、このマシュハドの地で多発している連続女性殺人事件を調査していました。「スパイダー・キラー」と呼ばれるその殺人者は「街を浄化する」という声明のもと犯行を繰り返し、住民たちは震撼していました。

犯行はいつも同じような手際で、娼婦の女性を夜に狙っています。なのでパターンは読みやすいですが、捜査は一向に進んでいません。地元の警察は非協力的で、地元の聖職者も高圧的な態度を崩さず、ラヒミに冷たい視線を浴びせてきます。

シャリフィと行動するラヒミは何としてでもこの凶行を食い止めたいと考えていましたが、この殺人鬼をあろうことか支持するような声もあり、そうした世間の反応が捜査そのものを鈍らせ、犯人を覆い隠していました。

一方その頃、サイードは家で家族と団欒の時間を過ごしていました。家族思いで敬虔な信仰者でもあり、世間的には良識的な男です。

しかし、素のままバイクに乗るサイードの、道行く娼婦のような女性たちを見る目だけは違っていました。まるで街の汚れを見つけたような視線…。

誰も知りません。このサイードが夜な夜な女性たちを殺している、血に染まったシリアル・キラーだということに…。

この『聖地には蜘蛛が巣を張る』のあらすじは「シネマンドレイク」によってオリジナルで書かれました。内容は2024/01/05に更新されています。
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夜に繰り出す男と女のそれぞれ

ここから『聖地には蜘蛛が巣を張る』のネタバレありの感想本文です。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』は「犯人は誰か?」「どんな手口で殺したのか」という部分をミステリーの核とすることはしません。

冒頭から結構大胆な構成で、ひとりの女性が殺害される過程を被害者目線でかなりじっくり生々しく映し出します。普通のミステリーであれば、これはネタばらしとして後半に描かれそうですが、本作はこれを序盤も序盤で描写してしまう。ここに本作の明確な姿勢がまず現れています。

そして本作は、事件を追うジャーナリストのラヒミと、事件の犯人である庶民のサイード…この2者の視点で交互に物語が展開していきます

ラヒミは有能なジャーナリストですが、とは言えあくまでジャーナリストであり、捜査官ではありません。できることには限界があります。このラヒミは女性ということもあり、彼女の視点でこの舞台となるマシュハド自体がいかにミソジニーな構造を持っているのかということが、身をもって体験するように観客にダイレクトに伝わります。

最終的には囮捜査(厳密には捜査ではないけど)みたいなことをするわけですが、ラヒミも女性として、あっけなくターゲットにされるという恐怖が突きつけられる顛末で、犯人の正体に辿り着けてもやはり怖さが残ります。

一方の犯人のサイードですが、彼は普段は全くの人畜無害な“良き父”・“良き夫”・“良き信仰者”としてこの社会で生きています。その“良き”というところがこの核心であり、サイードは“良き社会”を作るために、夜には別の顔を持っているんですね。これは被害者女性が家族を養うためにやむを得ず水商売をするべく夜には別の顔を持つことになる事象と対比されています。

サイードのやっていることは、いわば「自警団(ヴィジランテ)」であり、汚らわしいセックスワーカーを街から排除しようという善意でやっています。まるで街のゴミ拾いの清掃活動をしている気分です。サイードにしてみれば、街に暮らす“良き女”・“良き子ども”を保護するために、“悪しき女”に天罰を下しているのであって、そこに良心の呵責もありません。

サイードは無自覚なミソジニストであり、セクシズムが動機にありますが、これは決して男性特有のものではないです。世の中には「“良き女”・“良き子ども”を守るべきだ」と掲げて、特定の属性の他者に敵意剥き出しになる人は男女限らずいます。サイードの場合、セックスワーカー差別が介在しています。それに今回だってたぶんターゲットにされるのは女性といっても、中にはクィアな女性(トランス女性も含む)もあり得るでしょう。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』は、そのラヒミとサイードが全く異なる心の内を持ちながら、同じ街の夜に繰り出していく構成を見せることで、そのスリルと構図の俯瞰を同時にやってのけており、とてもスマートな見せ方だと思いました。

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連続殺人鬼ならぬ連続殺人”社会”

『聖地には蜘蛛が巣を張る』は、ひとりの異常者の責任としてこの事件を片付けることはなく、連続殺人鬼ならぬ連続殺人”社会”に目を向けさせます。

サイードを逮捕してからがこの映画のエグさの本番です。法廷で断罪されるどころか、むしろ救世主のように崇められ、庶民だったサイードもすっかり思わず有頂天になってしまっている姿が、ラヒミの虚しさを増大させます。こんな茶番な社会で本当の正義なんてものはあるのか…そう自問自答したくなる、実に嫌な社会の空気です。

『パピチャ 未来へのランウェイ』などの映画と同じですが、『聖地には蜘蛛が巣を張る』もイスラム社会の保守性をこれでもかと突きつけます。この映画自体もイラン側やイスラム指導者に抗議され、主演女優も何百もの脅迫を受け取ったという裏話エピソードが、本作で描き出すものが実在なんだということを図らずとも証明してしまっているのがなんとも…。

結局、殺人は事実なので死刑が確定するのですが、裏でサイードは検察側から「刑執行前に逃がすからね」と言われ、鞭打ちもやっているふりで済まして調子に乗ったり、あのノリはいかにもホモ・ソーシャルという感じです。

しかし、実際に絞首刑は避けられません。己の運命を理解したときのあのサイードの顔。ミソジニー社会の中でいくら神格化されても、捨てられるときはあっさり捨てられるという事実に直面する。初めてサイードの顔に浮かぶ、被害者と同じ恐怖の感情。この描き方も“アリ・アッバシ”監督、エグイです。

ひとりの人物に全部を抱え込ませて処刑するこの行為すらも、つまるところサイードがやっていたことの国家版であり、蜘蛛はよりデカい蜘蛛に食われるというオチ。

けれども最悪のエグさはこの映画の最後の最後に待っていました。サイードの息子が幼い妹を使って殺しの方法を模擬実演してみせるくだり。ほんと、ラストでこんな気分が悪くなるものをみせてくるなんて…。

“アリ・アッバシ”監督って、これまでのフィルモグラフィーでも一貫していますが、「出産や親によって子が何かを継承してしまう」みたいな出生を含む社会システムのおぞましさを描くのが手癖なのかな。

またもや絶望を感じながら映画館を後にする体験をさせてくれた『聖地には蜘蛛が巣を張る』。そしてシアターから外に出て、リアルな社会に目線を移しても、そこにもやはり同じ光景が広がっている、この二重の絶望。

このどこまでも張り巡らされている蜘蛛の巣から脱出する術はあるのだろうかと、暗澹たる気持ちで糸に絡めとられている私でした。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 84% Audience 72%
IMDb
7.3 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
8.0

作品ポスター・画像 (C)Profile Pictures / One Two Films 聖地にはクモが巣を張る ホリー・スパイダー

以上、『聖地には蜘蛛が巣を張る』の感想でした。

Holy Spider (2022) [Japanese Review] 『聖地には蜘蛛が巣を張る』考察・評価レビュー