災いの元凶はどこにある?…Netflix映画『月影の下で』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ(2019年)
日本では劇場未公開:2019年にNetflixで配信
監督:ジム・ミックル
月影の下で
つきかげのしたで
『月影の下で』あらすじ
不可解かつ残忍で異様な殺人事件が連発する。警察は翻弄され、マスコミは騒ぎ立てる中、ひとりの警官の男がその犯人に迫っていく。その連続殺人鬼は、現場に忽然と現れては、何事もなく消える。手がかりは乏しい。逮捕に全てを捧げてきた男は、ある日、気づいてしまう。その殺人の裏に潜む、とんでもない事実に。そして、時間の先に待つ自らの運命を…。
『月影の下で』感想(ネタバレなし)
月が綺麗…あれ、血だ…
文豪で知られるあの夏目漱石が「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳したという、限りなく創作だと言われているこの勝手に広まったフワッとしたエピソードのせいで、なんだか迂闊に月を綺麗だと言えなくなった人がいるとしたら、どうしてくれるんだという怒りを突然書きなぐってみる(なお、私はそんな気持ちになったことはない)。
でも月というのはファンタジーの話でもなんでもなく、本当に凄いパワーを秘めています。潮の満ち引きも月の引力のおかげですからね。そう考えると私がこの前、道端で転んだことも、炊いたご飯がやけに固かったのも、スマホのパスログインを急に失敗しまくったのも、全部月のせいなんでしょう。そうだ、月が悪い。
そんな戯言はさておき、今回の紹介する映画『月影の下で』(この邦題、「げつえい」と読ませるのか「つきかげ」と読ませるのか、どっちなんだろう…)は、月の影響で不思議なことが起こる…なんていうロマンチックな物語…とはいきません(月は関係あるけど)。
なにせ監督は“ジム・ミックル”です。初期監督作からその作家性は爆発していました。2006年の『ネズミゾンビ』はその邦題からわかるとおりのインパクトで、ネズミを介して未知のウイルスが感染拡大し、発症すると巨大ネズミ化して人を襲うという、ミッキーの株がだだ下がりのホラー。2010年の『ステイク・ランド 戦いの旅路』は、ヴァンパイアが蔓延る荒廃した世界で、カルト集団からも逃げ惑いながら、理想の血を目指すマッドでブラッドなストーリー。続く2013年の『肉』はさらに過激。このあまりにシンプルすぎてもはや検索してもヒットはしない邦題の映画は、カニバリズムでつながった歪な家族の姿を生々しく描いたショッキング作で、当然「R18+」。どれも非常に偏向しまくったコテコテのジャンル映画ばかりです。でも意外に硬派なドラマがあるのが“ジム・ミックル”監督スタイル。だからか批評家評価もそこまで悪くはない、むしろ良い方だったり。
しかし、2014年の『コールド・バレット 凍てついた七月』は割と普通の(あくまで比較的)クライムサスペンスで、ぶっとんだ勢いは鳴りを潜めたのかなと思ったら、“ジム・ミックル”監督はそんなヤワではなかった。最新作『月影の下で』では従来の荒唐無稽&硬派という異色ジャンル映画感が戻ってきました。
『月影の下で』はジャンルとしてはSFです。犯罪事件の捜査が主軸にありながら、そこにSF要素が絡んできます。これ以上はネタバレになるので言えない。この作品に似ています…とも言えない。困った…。
でも、SFのバックグラウンドにあるのが非常識ですらある人の動機だったりするのは、監督らしいところかもしれないですね。少なくともビジュアルで魅了するのではなく、ストーリーテリングでぐいぐいと引っ張る作品となっています。
主演は“ボイド・ホルブルック”。『LOGAN ローガン』や『ザ・プレデター』、ドラマシリーズの『ナルコス』で活躍している俳優です。『月影の下で』ではかなり多彩な“ボイド・ホルブルック”が見られるので、この一作だけで堪能できます。
『月影の下で』はNetflixオリジナル作品として配信中。これまで“ジム・ミックル”監督作品は日本では『肉』以外劇場未公開だったのに、急に新作が瞬時に見られるようになり、ほんと、時代は変わったなと痛感。こういうマイナー作品にアクセスしやすくなるのは、映画ファンとしては最高です。
『月影の下で』は人肉食べたりしないので、SF好きの人なら普通に見れます。相変わらずちょっと無駄に残酷だったりするときもあるけど…。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(SFが好きなら見るのも良し) |
友人 | ◯(時間があれば鑑賞会) |
恋人 | ◯(暇つぶしにどうぞ) |
キッズ | △(やや残酷描写あり) |
『月影の下で』感想(ネタバレあり)
9年ごとに起こる猟奇殺人の謎
『月影の下で』は冒頭から“ジム・ミックル”監督流のストレートパンチで先制攻撃してきます。
2024年のフィラデルフィア。ビルの室内からのカメラワーク。割れた窓。外には煙、何かの音、そこに広がっているのはまるで戦争でも起きたかのように荒廃した都市。またマイケル・ベイかローランド・エメリッヒが暴れたのか…と思ったのも束の間、そこで映像は終わり。
時代は一気に過去へ。1988年。同じくフィラデルフィア。
何の変哲もない普通の人々の生活がある…と思いきや、大観衆の前で満員のホールでピアノを弾いていた男、夜間バスを運転していた女性、小さな店で料理をしていたコック。3人が次々と目や耳、鼻など体中のいたるところの穴から出血し、絶命。
暴走して横転したバスの現場検証をする捜査官。その中には刑事になりたがってよく首を突っ込むトーマス(トミー)・ロックハートの姿もありました。ホルト刑事に咎められながらも、ノリノリで死体を調べるトーマスは、脳みそが飛び散っている無残な被害者の首に怪しい刺し傷があるのを確認します。それは自然にできたものとは考えにくいもので、他の死体でも同様の傷が発見されました。脳が分解されて大量出血なんて常識的には考えられないため、何かの薬物を投与された殺人なのかと疑うトーマス。検視官に話を聞きに行くと、刺し傷は注射痕で、放射性同位体が検出されたといいます。
謎に頭を悩ませていると、何者かに襲われたという女性からの通報が。その女性は首に刺し傷があり、今は普通に話せる状態だとか。急いで現場に駆け付けると、その女性いわく「青いフードつきパーカーの女の黒人にやられた」と証言。しかし、ホルト刑事が到着し、もう一度話をするように促すと、そのままおびただしい急激な出血によって死亡。
状況の深刻さを理解した警察は、手当たり次第に証言に近い該当者を捕まえまくります。
一方、パトカーで捜索中に容疑者らしき人物にバッタリ遭遇したトーマスとマドックスのコンビ。逃走するので追跡開始。ジラルド駅でひとり追い詰めたトーマスは、その犯人とおぼしき女から「娘の出産おめでとう」「奥さんのこと本当に残念」と意味深なことを言われます。確かにトーマスの妻は妊娠中でしたが、なぜそれを知っているのか。格闘のすえ、女が落とした刺すアイテムを逆に女に刺し、その弾みで女は線路へ。電車に轢かれてしまいました。見つかったのはバラバラの死体と所持品と思われる鍵だけ。しかも女の腕からは警察が使用する銃弾が摘出されたのだとか。
さらに謎が深まる中、事件の間にトーマスは妻が陣痛が始まって病院に行ったことを知り、慌てて駆け付けるも危険な状態で、赤ん坊は無事生まれるも、妻は亡くなってしまいました。
それから9年後の1997年。娘エイミーと妻の墓参りをし、そこにすでに花が手向けられているのを不審に思いつつ、今は刑事に昇進したトーマス。すると、例の9年前と同様の事件が起こったことを聞かされます。しかも、防犯カメラには9年前に轢かれてぐちゃぐちゃになったはずの例の女の姿が。
これは模倣犯なのか。証拠を再検証しだすと、浮かび上がったのはあの当時の容疑者の所持品がファルコン160という飛行機の鍵で、それは去年のモノだということ。つまり、あの時期には存在しえないアイテムのはず。手がかりを求めて飛行場へ向かったトーマスは、そこでまたあの女と出会い、衝撃的なことを告げられるのでした。
現代らしい終末論解釈
『月影の下で』は複雑そうに見えますが、整理すれば話はシンプル。
未来を脅かすある事件を防ぐために、その元凶となる人物を殺すべく、未来から殺し屋がやってくる…言ってしまえば『ターミネーター』の派生形。そこに自分の愛する存在が関与していることが発覚し、自身の善悪が揺るがされ、行動すべきかどうか悩む。このあたりの葛藤は『LOOPER ルーパー』など他の数多のSF映画でよくみるものであり、特段珍しくもありません。
ただ『月影の下で』の特徴は、その未来に起こる世界に破滅をもたらす厄災というのが、白人至上主義的なヘイトクライムを引き金とする戦争だと設定されていることです。これまではこの手の終末論はもっとこう大国同士の争いや天変地異のような、それこそキリスト教原理主義者が熱心に信じるような黙示録的なイベントであるのが定番でした。
しかし、やはり今のアメリカ、そして世界の現状を観察すれば、どう考えてもヘイトこそが世界の崩壊の序章である…という考えに至るのは、残念ではありますが、現実味があります。
実際に世界各地で大量殺人をともなうヘイトクライムが起きたり、日本でも過激政治家が「アホみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう」と平然と言い放ったりしているわけで、本作の物語もフィクションとしては全く笑えません。もし今はなんともなくとも、あの過激発言を連発する政治家に触発されて誰かが大事件を引き起こす未来は、絶対にないとは言い切れない。だとしたらどうするべきか。
『月影の下で』はそうした非常に現代社会への鋭い問いかけをしてくる映画です。
『ターミネーター』をしっかり現代版にアップデートしつつ、互いに逆方向にすれ違っていく2つの時間軸を通しての切ない物語にも時代性を反映させており、そこも良かったところ。
トーマスは最初の1988年は警官、1997年は刑事、ここまでは順調でしたが、2006年は私立探偵というていの実質上は異常者扱いになってしまいます。これは中産階級の没落、そして旧時代的な男性像の形骸化を象徴するようです。対する実はトーマスの孫娘であるあの殺人を繰り返す女は、どんどんと9年ごとに過去に戻っていくわけですが、昔に行けば行くほどその時代は有色人種と女性へ風当たりは冷たく、最終的には偶発的にせよトーマスに殺されてしまいます。
作中で彼女の死がブラック・ライヴズ・マターの引き金になっていくように、やはりここでも時代という荒波からは逃れられない“個”という存在。そのちっぽけさを感じます。
世界を救うといってもスーパーヒーローなんていないのが本作のリアルです。
ここまで描けるのは羨ましい
とまあ、好意的に『月影の下で』の特異性を解釈しましたけど、冷静になればツッコミどころだらけなのは、まあ、隠しようもないことです。
そもそも戦争の原因になる「真のアメリカ運動」につながる白人至上主義を根元から絶つなら、それって奴隷制自体を根絶しないとダメだし、つまりアメリカという国を無かったことにする必要があるのでは…とはどうしても思う部分。少なくともあんな数人程度の殺害では不可能であり(ましてや9年周期でしかタイムトラベルできないならなおさら)、実際はもっと大虐殺でもしないとダメなのではないか…とか。
でも“ジム・ミックル”監督はたぶんそこも織り込み済みなのでしょうね。
序盤のバス運転手が呼んでいる本が「トーマス・ジェファーソン」のモノなのが何よりの証拠。第3代アメリカ合衆国大統領にして、「アメリカ独立宣言」の起草者のひとり。今のアメリカの土台を作った人間の思想に殺意を向けていると暗示させるような仕掛けをポロっと作中で見せている。これはなかなかできることじゃないです。日本なんて天皇批判したらテロ脅迫されるんですから。
“ジム・ミックル”監督はちゃんとアメリカという国そのものの罪を描こうとはしているのだと思います。結局はアメリカって悪なんじゃないか、と。
その批評精神を堂々と描けること自体は本当に素晴らしく、日本人としては羨ましいくらいなのですが、映画としてはだったらもっと踏み込んでも良かったのではとも思ったり。まあ、もちろんあまりに直接的な描写はさすがのアメリカも批判必須だから控えたのかもしれないですが。
最近は『アス』のように痛烈なアメリカ批評を見事なセンスで描いた作品もあり、それと比べると構成力は弱めなのかもしれないです。『月影の下で』はアクション映画的な展開は蛇足だったかも。
なんでわざわざあんなグロテスクな殺し方をするんだ…なんていう野暮な疑問を思ったりしちゃうのは、本作のSFとしての合理性をつい気にしてしまう偏りがあるせいなのか。もう少し理解不能なスリラーに作品のトーンを寄せてもよかったのかも。
ともあれ『月影の下で』は軽めのSFに見せかけて、重厚な不気味さを併せ持つドラマもあって、考えさせる効果もしっかり発揮する。“ジム・ミックル”監督、侮れないなと思いました。
時代は逆戻りできません。私たちも発言や生き方を真剣に考えないと、ね。
“ジム・ミックル”監督、次は差別主義者の人間だけを食べる家族の話とか、どうですか。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 69% Audience –%
IMDb
6.4 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 5/10 ★★★★★
作品ポスター・画像 (C)Automatik
以上、『月影の下で』の感想でした。
In the Shadow of the Moon (2019) [Japanese Review] 『月影の下で』考察・評価レビュー