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『少女邂逅』感想(ネタバレ)…枝優花監督の描く女性は新時代を紡ぐ

少女邂逅

枝優花監督の描く女性は新時代を紡ぐ…映画『少女邂逅』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

英題:Girls’ Encounter
製作国:日本(2017年)
日本公開日:2018年6月30日
監督:枝優花
イジメ描写

少女邂逅

しょうじょかいこう
少女邂逅

『少女邂逅』あらすじ

社会から孤立し、声が出なくなってしまったミユリ。そんなミユリの唯一の友達は一匹の蚕だった。ミユリは蚕に「紬」と名付け大切に飼っていたが、いじめっ子の清水にその存在がバレて、蚕を捨てられてしまう。しかし、ミユリの学校に消えた蚕と同じ名前を持つ「富田紬」という少女が転校してくる。

『少女邂逅』感想(ネタバレなし)

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新たな才能「枝優花」

日本の映画業界は男性社会で成り立っているという歴然とした事実は、このブログでも各所で散々書いてきました。映画製作の中心に立つのは圧倒的に男性が多く、女性はマイノリティに追いやられているのは疑いようがありません。映画監督という職業は男性の仕事である…それが現状。詳しくは別記事を参照にしてください。

それでもそんな家父長制を体現するような日本の映画業界においても、懸命に自分のクリエイティビィティを発揮している女性映画人は確かに存在しています。圧倒的多数の男性映画人の影に隠れてしまい、その姿は目立たないです。実際、運が良くてもせいぜい中規模作品どまりなことも多く、大半は小規模作品です。しかし、映画を作っています。

そしてそれらの作品は他のマジョリティにはない個性を放つ映画ばかりです。「こういう切り口もあるのか」「こんな見せ方は珍しいな」…そうした新感覚の体験を味わえる。やっぱり作る人にとっても観る人にとっても、映画には多様性が大事なんだなと痛感します。もっと女性のパワーが邦画に注ぎ込まれれば、絶対に今よりユニークな映画が増える…それは核心を持って言えます。

しかし、そのためには女性映画人の数が少なすぎます。今の日本映画界で活動する有名どころの女性監督の名をあげようと考えてみると、片手か両手で数える程度しかいないです。

こんな状況ですから、もし才能を持った女性監督の新芽を見つけたら「待ってました!」とばかりに歓迎し、業界全体が積極的に育成するくらいのなんらかのインセンティブが必要だと思うのですが…本作『少女邂逅』はまさにそんな邂逅でもありました。

監督は“枝優花”で、大学生時代に製作した『さよならスピカ』が2013年に早稲田映画祭りで観客賞、審査員特別賞を受賞。翌年も『美味しく、腐る。』が同映画祭で観客賞を受賞するなど、かねてより注目を集めていた監督…とのことですが、まあ、大半の世間には知られていない新鋭です。私も当然のように初見の監督。なので本作『少女邂逅』を観る前は未知数だったのでワクワクしていましたが、想像以上の新鮮な中身が待っていました。

本作は、学校でのイジメによって「場面緘黙症」となり、声が出なくなってしまった監督自身の実経験を元にしている…インディペンデント系にありがちなプライベートなテーマ。そう思ったのですが、ありきたりでは終わらない斬新さに一本とられました。

その理由は、まず「少女」と「蚕」を組み合わせた、映画的・物語的な切り口が新しいという点がひとつ。そして、タイトルのとおり「少女」しいては日本社会の女性、いや、世界の女性が抱える問題を投影する普遍性があり、そこに驚いたという点がひとつ。あとはネタバレありの後半感想で。

“枝優花”監督は自分自身や今回の映画製作に影響を及ぼした作品として挙げているのが、岩井俊二監督の『リリイシュシュのすべて』、ロウ・イエ監督の『ブラインド・マッサージ』、そしてエドワード・ヤン監督の『クーリンチェ殺人事件』。なるほどと頷くラインナップです。

かなりピンポイントな作品ですけど、人によっては忘れられない一作になるでしょう。

監督・脚本だけでなく、撮影も音楽も女性が携わっているのも無論、大事なこと(それがレアではない世の中になってほしいのですが)。

ともかく祝福すべき新たな才能。日本映画界の新時代を紡ぐにふさわしい原石を見せてくれる映画。それを見ない理由はないはずです。

オススメ度のチェック

ひとり ◎(心に刺さる一作になるかも)
友人 △(盛り上がれる映画ではない)
恋人 △(盛り上がれる映画ではない)
キッズ △(ティーンには響く場合も)
↓ここからネタバレが含まれます↓

『少女邂逅』感想(ネタバレあり)

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青春の“陰”を描く

日本の青春映画は乱暴に言えば2つに大別できます。ひとつは、青春の“陽”を描くものと、“陰”を描くもの。スラングな表現をすれば「リア充」と「非リア充」。「学校時代は最高の思い出です!」と自信満々に言える人と、そうでない人。どちらを描くかの問題。

なぜこうなるのか。それは実際の青春の世界でも、こうした二極化が起こっているからに他ならないのでしょう。そして、青春の“陽”を経験した者がマジョリティであり、優勢に立ち、“陰”を経験した者はマイノリティとして片隅に立つ。それが暗黙のルールとして、日本人に長い間、浸透している感じすらあります。

それは映画の興行でも同じで、邦画では青春の“陽”を描く作品が多く作られ、映画館で賑やかにたくさん上映されます。対して青春の“陰”を描く作品は少数です。まあ、この興行の格差は実際の観客がそういう配分なのだから…とも言えますが。もちろん、これはあくまで興行の話であって、どちらの映画にも価値があり、優劣をつけるものではないということは付け加えておきます。

そして、本作は青春の“陰”を描く作品。それはご察しのとおり。

青春の“陰”を描く作品にもいろいろなバラエティがあって、同じく2018年に公開された映画でいえば『ミスミソウ』のように、暴力による発露というカタルシスでジャンル映画に傾倒する作品もあります。こちらはちょっとアメリカ映画的な方向性で、ハリウッドでは青春の“陰”を描く役割をホラーやスリラーが担っている歴史的側面があるのが興味深いですが。

一方で『少女邂逅』はその対比を考えるなら、ヨーロッパ映画的と言えるかもしれません。センチメンタルで、アレゴリカルな物語や演出。たぶん本作を観て、ヨーロッパで作られた映画作品のいくつかを連想した人も少なくないのではないでしょうか。

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ファンタジックに見せかけて

本作のなによりも一番の特色となるキーワードは「蚕」です。タイトルも「蚕(かいこ)」と「邂逅(かいこう)」をひっかけたものになっており、これだけで寓話的。作中でも学校で習っている教材として、フランツ・カフカの『変身』が登場しますが、まさにそれを連想させますね。

主人公の小原ミユリは学校でクラスの同級生に日常的にイジメられ、孤立。誰にも助けを求めることもできないなか、偶然、森で出会った蚕を飼い始めます。蚕に「紬(ツムギ)」と名前まで付け、こっそり自分の部屋で誰にも見つからないように大切に育て、話しかける小原ミユリ。ところが、いじめっ子の清水に蚕の存在がバレて蚕を投げ捨てられてしまい、森でまた独り絶望していると、白い少女が助けてくれます。その次の日、ミユリの通う学校に転校してきたのは、あの白い少女、しかも名前は富田紬と言って…。

この序盤のあらすじだけで、富田紬という存在があの蚕の生まれ変わった姿として映る…そう観客に真っ先に印象を与えます。本作は、ちゃんと蚕の生態を反映した物語の絡ませ方をしているあたりに、“枝優花”監督の真面目なこだわりを感じます。

ただ、この蚕の生態へのリアルな“こだわり”…最初は現実に即した考証みたいなもので、ファンタジー的要素への目配せ(富田紬を蚕に見せる)だと思っていたら、終盤に強烈なパンチになって観客に飛んでくるのが本作の凄いところ。

フィクションめいた存在だと思っていた富田紬。彼女の現実がラストに明かされます。ずっと父から性虐待を受けていたこと。売春までして生きていたこと。餓死して死んだこと。

これだけでもなかなかに残酷なオチです。ただ、本作は掘り下げればもっと残酷で映画で…。

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少女は蚕のように生きている

本作はこの富田紬というキャラクターの、まるで“変態”する昆虫のように、段階的にカタチの変わる見せ方が面白いなと思います。

最初は小原ミユリにとっての「救世主」、世間一般の少女にとっての「理想」…そんな風に映ります。友人となった小原ミユリは「生きる価値がある」ということを見いだすことができ、事実、人生を助けられます。学校でも、都会からの転校生というイメージのせいか、かなりチヤホヤされる存在。

ところが、現実の富田紬は「最も救われるべき側の人間」であり、「理想とは程遠い人間」でした。

その反転が一番残酷に響くシーンは、中盤以降、髪型をチェンジした小原ミユリが仲良くなるグループの子たちが口にする何気ないガールズトーク。「紬はカレシは?」「いないよ」「じゃあ、“した”ことは?」「あるよ」…やっぱり紬ならそうだよねと納得する無邪気な少女たちと、そんなに良いものじゃないと冷たく無感情に言い放つ紬。彼女の境遇を知ってしまうと、かなりキツいシーンです。

富田紬という存在をとおして、少女たちが理想に思っていることの裏には実は残酷な現実があるという一面を強烈に突きつける。リア充でも非リア充でも関係なく。ともかくこの“少女全員がそうなんだ”という“枝優花”監督の攻撃範囲の広さですよ。

それを象徴するのがまさに蚕。人間のために家畜化され、糸を吐き、あとは死ぬだけの存在。狭い区画に分けられた個室で飼われるしかない存在。それは学校という狭い空間で生きている女子高生たちそのものでもあり…。あの生物学か何かの授業の実験で蚕を「気持ち悪い」と嫌がっていた少女たちは“自分も蚕と大して変わらない”ということに気づいていないという皮肉。

もちろん少女だけでなく、今の社会で生きる全ての女性に当てはまると拡大解釈もできるわけで。「体しか価値ないじゃん」「自分が不自由なことに気づいていない」…そんな富田紬の吐き捨てるような残酷な言葉は、現代において平等な権利も与えられない「女性」という概念にグサグサと刺さりますよね。

青春映画の枠を超えて、まさかここまで社会風刺の力もみせるとは…。

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次は何に変身するのか

全くリストカットする覚悟を持てなかった小原ミユリが、自分の手首にカッターをあてて真っ赤な血が溢れ出る。

本作のラストもまた安易な着地ではない、議論を呼びそうなものなのですが、実際、製作段階でも他のスタッフと「この結末でいいのか」と揉めたと監督はインタビューで語っています。

私個人の感想を言わせてもらえば、これで大正解だったと思っていて。あそこまで観客の心をザワつかせることをやっておきながら、わかりやすい結末、それこそテンプレのような救いや希望を提示したら、それこそ台無しだと思いますし。

解釈は人それぞれです。私はこのラストは、ポジティブでもなくネガティブでもない、オリジナルな文字どおり“切れ味”で好きです。

本作の冒頭、授業のひとコマで、リストカットについて教師がこう語っています。「変身願望です。自分の存在の価値を見いだせない、そういう人に多い」と。でも本作は少なくとも、リストカットをそんな単純には捉えていないのでしょう。自分の価値を見いだせずにいた序盤の小原ミユリは手首を刃で切ることができなかったわけですから。

地元を離れ、電車で発つ小原ミユリの姿は、富田紬や他の同級生とは異なる道に進もうとしているかのようです。その先に何があるかはわかりません。わかっているのは、今まで見えなかったけど、自分の中には血がたっぷり溢れているということ。糸ではなく。小原ミユリは、死ぬだけの蛾にはなるまいと抵抗しているのか。その変身願望は悪いことでしょうか。

他にも小原ミユリを演じた“保紫萌香”や富田紬を演じた“モトーラ世理奈”といったキャスティングの上手さや、演出など語りがいのある映画でしたが、長くなりすぎるので割愛。序盤のイジメっ子にスカートを上半身まで捲くられ縛られてモゴモゴしている恰好の小原ミユリが、卵や繭に閉じこもる姿に見える演出とか、女性でないと思いつかないだろうなと思うシーンも多くて、いろいろフレッシュなのですけどね。

なんとなく作品を振り返って思ったのは、ここまでくると心理ホラー映画に近いと言えなくもないですね。個人的には『ヘレディタリー 継承』となぜか重なってしまいました(あっちも監督の実体験だって言うし…)。“枝優花”監督、ホラー映画も合いそうです。

全体的にまだまだ未熟な部分も多いのでしょうけど、私は“枝優花”監督の才能は日本映画界を次の階段に導く資産になるとあらためて思いました。少なくともこの才能だけは蚕にしてはいけない、“枝優花”監督の次の変身にも注目していきたいですね。

『少女邂逅』
ROTTEN TOMATOES
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IMDb
— / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★

作品ポスター・画像 (C)2017「少女邂逅」フィルムパートナーズ

以上、『少女邂逅』の感想でした。

『少女邂逅』考察・評価レビュー