ハリー・ディーン・スタントンは微笑む…映画『ラッキー』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ(2017年)
日本公開日:2018年3月17日
監督:ジョン・キャロル・リンチ
ラッキー
らっきー
『ラッキー』あらすじ
独りでずっと生きてきた90歳の男、ラッキー。ひとりで暮らす部屋で目を覚ますとコーヒーを飲んでタバコをふかし、なじみのバーで常連客たちと酒を飲む。そんなある日、自分に人生の終わりが近づいていることに気付いた彼は、「死」について思いを巡らせる。
『ラッキー』感想(ネタバレなし)
遺作という人生のピリオド
映画の公開延期や企画中止よりもはるかに悲しいこと…それは映画業界に携わってきた人が亡くなることです。
こればかりは避けようがありません。どんなかたちであれ「死」は私たちに等しく訪れるもの。あの映画で華麗に活躍していたあの俳優も、素晴らしい名作を生み出したあの監督も、いつかは死んでしまう。それは理屈ではわかっているのに、やはり喪失感は大きいもので…。考えてみると、俳優であれば映画というのはその人のその時期の姿をアルバムのようにおさめた代物ともいえ、私たち映画ファンはそれを後生大事に好んで鑑賞しているので、厳密にはその俳優とリアルタイムで密接に時を重ねているわけではありません。そのため余計に「死」が突然に感じられてしまうというのはあるかもしれませんね。
毎年、本当に多くの映画業界人の方が世界中で亡くなっており、大手の映画ニュースサイトで大々的に取り上げられるものから、ほとんどメディアに載らないものまで、訃報は常に絶えません。
そんなとき、どうしても「遺作」という視点で映画が語られることもあります。厳密には映画は同時進行で複数製作されていることも多々あるので唯一の遺作という言い方はしづらいのですが、少なくともその映画人が最期に関わった作品というのはとても深読みして大事に考えてしまいますよね。別に死はスケジュールで決まっているわけではないので、最初から遺作ありきで作ったわけではないだろうに、でも遺作としてこれ以上ないハマり方をしている運命を感じる映画もあったり。遺作という人生のピリオドがあるのは、特定の業界人だけの現象ですから、余計に不思議。
そして本作『ラッキー Lucky』もまた映画界を支えてきた名俳優の遺作として、(あえて言いましょう)“最高の一本”であったと断言できます。
本作を主演したのは“ハリー・ディーン・スタントン”。意識して映画を浴びるように鑑賞している映画ファンではない限り、あまり知名度の少ない俳優でしょう。確かに主演作として大きくクローズアップされた話題作は多くありません。どちらかといえば名脇役のようなポジションといえなくもないです。例えば、有名な『エイリアン』(1979年)では機関士の役として登場、バケモノの餌食になります(まあ、この作品はたいていの登場人物がエイリアンにやられますけど)。一番、スポットライトがあたったのはヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(1984年)かもしれません。この作品では主演をつとめ、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しました。デヴィッド・リンチ作品にもよく出ていて、最近も『ツイン・ピークス』で顔を見せていました。他にも数百本の作品に出演している、間違いない名俳優です。
その“ハリー・ディーン・スタントン”も残念なことに、2017年9月、この世に別れを告げました。91歳でした。
こうして『ラッキー Lucky』は彼の遺作となったわけですが、お話の内容が「死」という自分に待ち受ける存在を理解しようとする孤独な老人を描いたものであり、まるでこの映画の流れを継承して“ハリー・ディーン・スタントン”がリアルで人生を終えたように思えてしまうくらいのシンクロ率なのです。なんでも主人公は“ハリー・ディーン・スタントン”にあてがきしているそうで、どうりで本人そのものなわけです。
“ハリー・ディーン・スタントン”という役者をずっと見てきた人は当然感慨深く楽しめますし、本作で初めて目にするという人でもOK。
ちなみに本作は俳優の“ジョン・キャロル・リンチ”の監督デビュー作なんですね。最近だと『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』に出演していましたけど、彼もまた名脇役といった感じで、“ハリー・ディーン・スタントン”への愛も溢れるその眼差しを本作でたくさん受け取ることができ、ますます好きになりました。
ぶっきらぼうな本作の主人公と一緒に、「死」とかいうわけのわからん奴と向き合ってみませんか。
『ラッキー』感想(ネタバレあり)
人生の「EXIT」
朝、目覚める。鏡の前で脇を拭く。歯磨きをする。髪をとかす。音楽をかける。くるくる回る。ヨガで体を伸ばす。コーヒーを飲む。着替える。テンガロンハットをかぶる。扉を開けて外に出る。タバコを吸う。カフェへ行く。クロスワード・パズルをする。道中、特定の場所で罵声を吐く。テレビを見る。バーへ行く。眠る。
これが本作の主人公である老人ラッキーの1日のルーチンワーク。結婚もしておらず独りで生きてきたこの男は、おそらくもう長い間このループを繰り返してきたのでしょう。そこに意味などは問う必要もなく、太陽が昇ってまた沈むくらいのありふれた現象のひとつのようなもの。ラッキーの身の回りに暮らす町の住人たちも、そう思っていたはずです。
そしてまた次の日。朝、目覚める。鏡の前で脇を拭く。歯磨きをする。髪をとかす。音楽をかける。くるくる回る。ヨガで体を伸ばす。コーヒーを飲む。バタンと倒れる。
…倒れる? そう、今日は違ったのでした。思わずポツリ…「Jesus Christ」。
病院で診察を受けると、異常なし。良好すぎて、逆に謎だと医者に言われてしまう始末。「なぜ倒れたんだ?」という疑問にも「肉体はいつか限界を迎える。永遠には生きられない」と科学性皆無の抽象論で煙に巻かれるだけ。結局、薬ではなく、飴をもらって帰ってきたラッキー。いつもの日課の流れに戻って、カフェに行くと、ラッキーが倒れたと聞いてえらく心配そうにするカフェの人たち。まあ、太陽が急に透明とかになったら、驚きますよね。
そして、この日、ラッキーは気づくのです。今までどおりのルーチンワークの繰り返しはできないんだと。自分はついに出口に向かい始めたことに。「EXIT」の案内に従って“向こう”へ行くしかないのだと。
「死」ってなんだろう
普通だったらこういう状態になれば「死」を迎える準備の定番があるものです。
最近、日本でも話題の言葉になっている「終活」のように、エンディングノートや遺言書を書いたり、遺影の写真を選んだり、お墓を決めたり、遺産の相続を考えたり、写真や大切なアイテムの処分や受け継ぎに頭を悩ましたり、お世話になった人への感謝を綴ったり…やることなんて山ほどあるものです。
しかし、このラッキーは困ったことにその普通の常識があまり通用しません。なにせ天涯孤独のように生きてきたので親しい家族もおらず、とくに重要になるほどの資産も持っていません。終活しようにも、もうだいたいのものは自分の人生から離れているのです。ある意味、終活がラクだとは言えるかもしれませんが…。
そうなってくると考えることは自然に一点に終着してきます。それは、これからやってくる「死」とは何なのか、自分で答えを見つけること。
そこで肝心なのが「死」というものがイマイチなんなのかよくわからないという根本的な問題。世の中には「宗教」という、死についてそれはそれは懇切丁寧に“わかってます”みたいな顔をして語るまとめサイトみたいな存在もあり、多くの人は宗教が死と向き合う手助けになったりします。でも、このラッキーはわりと宗教にすらほど遠い人生を送ってきたので、それもできない。もちろん、辞書で調べても「死」に関する明確な回答はない。医者も知らない。どうすればいいんだと困り果てるだけ。
ただ、これはラッキーの人生や人格に不手際があるわけでは全くなく、大なり小なり誰でもぶつかる難問。よくお年寄りは人生経験が豊富だからとその英知を期待されたりしますが、そんなもの「死」にはことこどく無意味。
そういう意味ではラッキーに感情移入するのは年齢に限らず難しい話ではないと思います。
“ひとり”でも答えは出せる
ではラッキーはこの哲学的な難問にどう答えを見いだすのか。
彼の周りにはときどき示唆に富んだ発言をさらりとしていく者たちも出現します。
ハワードという同じく高齢の友人は、飼っているリクガメのルーズベルトを遺産相続の相手として指定することを弁護士に相談していますが、当のリクガメは外に逃げ出しており、絶賛ゴーイング・マイウェイ中。リクガメを当初は帰ってくるつもりで待っていたものの、最終的にはアイツにも目的があるのだろうと探すのやめていました。このハワードを演じているのが“デヴィッド・リンチ”だというのがシュールでまた身内感あって良いです。
また、カフェで出会った海兵隊退役軍人の帽子の男とは、第2次世界大戦の話で会話に華が咲きます。その男いわく、沖縄戦では地元の住民が米軍に捕まるのを嫌がって自ら命を捨てていたこと、そしてその凄惨な世界でふと出くわした大勢の死骸の前で微笑んでいた少女の姿…その理由を今も自問自答して考えているようでした。
この2人のエピソードはラッキーにとって重なるようで全然重ならない話。ラッキーはペットを飼っていないし、戦争時代は料理人だったのでそういった直接的な経験もなし。この絶妙に参考になるようでなりきれていないミスマッチな状態は、それだけラッキーの人生が人と触れ合うものではなかった証のようにも見えます。
とにかくラッキーは「ひとり」だったというのが今作の一番の懸案。「lonely」と「being alone」は違うんだ、「alone」は「all」と「one」でできている…などと言う発言からも彼自身その部分を気にしていることはよくわかります。
終盤、ラッキーは知り合いの家族の誕生日会に参加。そこでは自分がたどってきたものとは全く違う世界が広がっていました。大勢の親戚や家族が歌を歌い、祝福する賑やかな空気。ラッキーはおもむろに歌いだし、やがて彼もまたその世界の一部になれたように…。
ラッキーが最後にバーで言い放ったセリフは彼のファイナル・アンサーでは限りません。でも自信に満ちていました。すべては過ぎ去っていく、無になることに対しての、憂いと愛が同居したひとつの向き合い方。
私はラッキーの答えで自分の人生の肯定をもらった気がします。つまり、ラッキー…“ハリー・ディーン・スタントン”は目立たなかったかもしれないけど、意味はあったのです。少なくとも私には。そして他にもそう思った人はいるはずで…。
リクガメだってきっと微笑みながら歩いているんですよ。だったら自分も最期くらいは、ね。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 97% Audience 82%
IMDb
7.4 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★
関連作品紹介
“ハリー・ディーン・スタントン”の出演作品(最近のもの)
・『ランゴ』(2011年)
…カメレオンを主人公にした一風変わった西部劇アニメーション映画。
・『きっと ここが帰る場所』(2011年)
…カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された映画。
・『アベンジャーズ』(2012年)
…ご存知、マーベル映画の大作。警備員役としてこっそり登場。
・『セブン・サイコパス』(2012年)
…『スリー・ビルボード』で高い評価を得たマーティン・マクドナー監督作。
・『ラストスタンド』(2013年)
…アーノルド・シュワルツェネッガー主演作。やっぱり頑固な老人役。
作品ポスター・画像 (C)2016 FILM TROOPE, LLC All Rights Reserved
以上、『ラッキー』の感想でした。
Lucky (2017) [Japanese Review] 『ラッキー』考察・評価レビュー