私の青春はミスではない…映画『ミスエデュケーション』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ・イギリス(2018年)
日本では劇場未公開:2019年にDVDスルー
監督:デジリー・アッカヴァン
LGBTQ差別描写
ミスエデュケーション
みすえでゅけーしょん
『ミスエデュケーション』あらすじ
1993年。交通事故で両親を亡くし、保守的な叔母と暮らすキャメロン・ポストは、同性の恋人を持つ高校生。プロムの夜、彼女は車の後部座席で恋人と甘い時間を過ごそうとするが、運悪く同級生に目撃されてしまう。そして同性愛であるという事実を知った叔母は、キャメロンを矯正治療施設「神の約束」に入所させる。そこで同年代の仲間と出会い、絆を深めていくが…。
『ミスエデュケーション』感想(ネタバレなし)
日本劇場未公開は残念すぎる
LGBTQは病気ではありません。よって“治す”必要など毛頭ありません。何度だって繰り返し言いますとも。
しかし、世界には同性愛などLGBTQを“異常”と捉え、それを“正しい状態”に治療することを目的に活動する「矯正治療(コンバージョン・セラピー)」と名乗る行為がいまだに存在している…という話を、『ある少年の告白』という映画でしました。この作品はそのコンバージョン・セラピーを行う矯正施設に親の勧めで半ば強引に入所したゲイの少年の実話を基にした映画でした。
その映画の感想でも書いたのですが、どうしてもこういう作品を観た日本人の中には、これは宗教が原因の特殊事例なんだと受け取ってしまう人も少なくないようです。無宗教を自負する日本人特有の「これだからキリスト教って、イスラム教って、アレよね…」という若干の宗教蔑視が内在しているのでしょうか。
それを踏まえてあらためて声を大にして言いたいのですけど、LGBTQ差別やそれに起因する矯正治療という発想は宗教に限ったものではありません。そもそも日本は社会全体が矯正施設みたいなものだ、と個人的には思います。一般人レベルでも専門的権威者レベルでさえも、偏見がカビのように日本社会にこびりついています。
それを裏付けるこんなエピソードが最近ありました。
2019年4月に行われた茨城県主催のLGBT支援検討会合にて、県医師会の副会長が「性的マイノリティーの人に、マジョリティーに戻ってもらう治療はないのか」と発言したのです。一応、説明しておきますけど、“LGBTQを治療する”という行為は、非人道的で科学的にも危険で間違っていることを示す専門家の意見は多数あり、ゆえに法律で禁止している国もあるわけです。なのに公式の場でこの発言ですから、有識者とされる人間でさえ、この無知っぷり。呆れると同時に、恐ろしいです。当事者はどれだけ絶望するのかと思うと…。
だからもっとうるさいくらい「LGBTQは病気ではないから治す必要もない」とアピールしないとダメだな、と心に強く再確認したのでした。
そこで話を映画に戻して、本作『ミスエデュケーション』です。
この映画は『ある少年の告白』と同じくコンバージョン・セラピーを行う矯正施設を題材にした作品。原作があって、エミリー・M・ダンフォースが2012年に上梓したヤングアダルト小説で、実話ではありませんが、原作者自身が同性愛者ということで、リアリティがあります。日本では未翻訳でしたが、最近になってクラウドファンディングで翻訳出版が決まり、2020年春以降に発売予定だそうです。
内容は、レズビアンの少女が矯正施設に入所し、同年代のティーンと暮らすという、簡単に言えばそれだけの物語なのですが、『ある少年の告白』と違って『ミスエデュケーション』は「青春映画」の側面が色濃く、視点は常にティーン主体で、タッチもどこか未熟さと危なっかしさに満ちたものになっています。青春劇が好きならハマるはずです。
そしてなにより主演が“クロエ・グレース・モレッツ”だというのが一番のセールスポイントなのは言うまでもないでしょう。最近、1年間程度、俳優業を休業した彼女ですが、『ミスエデュケーション』にはひときわ自分の想いをぶつけたようです。というのも、彼女は4人の兄がいるのですが、そのうち2人がゲイで、彼女が11歳の時にカミングアウトし、兄たちがゲイゆえに差別に苦しむさまもずっと見てきた…というプライベートがありました。だからこそ“クロエ・グレース・モレッツ”はフェミニストとして非常に熱心に平等第一を公言してきたわけで、彼女がこの『ミスエデュケーション』でレズビアン役をするのも説得力があります。
『ミスエデュケーション』は、サンダンス映画祭でグランプリを受賞し、高評価だったのですが、なぜか配給にはあまり恵まれず、日本に至っては劇場未公開。“クロエ・グレース・モレッツ”の人気は日本の映画ファンにもいきわたっているというのに、これはもったいないものです。DVDスルーとなりましたが、ネット配信は(2019年9月時点では)されていないためか、知名度が低く、残念なかぎり。
ひとりでも多くの人に見てもらいたい作品です。大人であれば、アイデンティティに悩む子どもの背中を正しく押すために、反面教師的にこの映画を観てほしいですし、子どもには、自分のアイデンティティに素直になっていいんだという肯定感を、この映画で持ってほしい。
こういう映画が生まれるのは本当に良いことです。ひと昔前なら「同性愛 治療」とネット検索すると、ろくなページしか出てこなかったですが、今はこれら映画がヒットするようになりましたから。
映画は社会を変えます。そう信じています。
オススメ度のチェック
ひとり | ◎(俳優ファンは必見) |
友人 | ◯(議論が盛り上がる) |
恋人 | ◯(青春映画として楽しんで) |
キッズ | ◎(子どもにも見てほしい) |
『ミスエデュケーション』感想(ネタバレあり)
青春の強制リセット
『ミスエデュケーション』は約90分と非常にコンパクトなストーリーにおさまっているので、あまり登場人物の背景が映像なり・ナレーションなりで説明されることはありません。とくに序盤はあれよあれよという間に、もう矯正施設に入ることになっています。
時代は1993年。ビル・クリントンがアメリカ合衆国大統領に就任した年ですね。ちなみにビル・クリントン大統領といえば、婚姻は1人の男性と1人の女性で成立すると定めた「結婚防衛法(DOMA法)」に署名して1996年に法案を成立させた人でもありました。当時のアメリカは同性婚という存在に社会が揺れ動き始めた時期でもあり、当然そのバックラッシュも見られました。
本作の主人公であるティーンエイジャーのキャメロン・ポストは、今、ロマンチックな恋の真っ最中。お相手は同年代のコーリーという女子でした。しかし、同性愛は異常だと揶揄される社会で生きているために、この関係性は公にはできません。キャメロンは自身もボーイフレンドがいるという、一種の“世間的な普通”というカモフラージュを表面上は装いつつ、プロムの日にもこっそりと車の中でコーリーとの甘い時間を過ごしていました。
しかし、その秘密の関係がいともたやすく周囲にバレてしまい、敬虔なクリスチャンである叔母のルースにも知られます。キャメロンの両親は12歳の頃のキャメロンが女の子とキスをした翌日に交通事故で亡くなっており、彼女の中でひとつの罪悪感になっていることが窺えます。今のキャメロンにとっての保護者である叔母に勧められるがままに彼女が入ることになったのが「神の約束」という矯正治療施設。
ここは同性愛だけでなく、いわゆる“性”絡みで問題(あくまで一部の人が問題と考える)を抱えているティーンに対応している合宿キャンプ施設のようです。コンバージョン・セラピー的な矯正プログラムを実施していますが、明確な科学的根拠に基づくでもない、治療とは名ばかりの施設側の“思想”を押し付ける行為に他なりません。
原作ではキャメロンの人生のバックグラウンドがもっと詳細に語られていくようですが、映画ではバッサリとカットされています。この脚色はこれはこれで良かったなと思います。というのも、彼女の人生が一瞬で否定されてしまったという“社会の無慈悲”がより鮮明に強調された印象を与えるからです。本であれば長々と綴っていくことで読者にじっくりキャメロンの人生とシンクロさせる時間を与えられますが、映画ではそうはいかないので、今回の省略は映画らしいアプローチの仕方でしょう。
とにかく映画では、学校という日常は瞬く間になくなり、有無を言わせず車に乗せられ、新しい世界に置き去りにされる。まさに「Fuck」の一言でしか表せられない状況。
キャメロンの青春はここから強制リセットさせられます。
「Two-Spirit」という存在
矯正治療施設で暮らすことになったキャメロンの新世界には、他にも多くの同年代のティーンがいます。それぞれが抱える事情はバラバラですが、誰もが施設で“正しさ”を学んでいることは同じ。
この施設に入所してからのパートは、あくまで表面上はふつうの青春劇そのもの。別に刑務所ではないので、そこまで自由が制限されているわけでもありません。比較的自然の多い環境で、仲間たちと過ごす無邪気な集団生活。
じゃがいもの皮むきをしながら「4 NON BLONDES」の「WHAT´S UP」を熱唱したり、いかにも「ザ・青春!」という感じの爽やかさで、ここだけを切り取ったら、“なんだ、いい青春を送っているじゃない”と思ってしまいかねないです。
しかし、実際はそんなポジティブな生活ではありません。ここで暮らすキャメロンを含むティーンたち全員が、“本来の自分”を抑圧されて生きています。
ビデオテープでエクササイズをするエリンも、カラオケで歌い上げるヘレンも、その行為の裏を読み取るならば、抑圧された自分らしさを別のものにぶつけているだけのようにも受け取れ、非常に息苦しい青春ディストピアです。
そんな中、キャメロンは施設側が押し付ける“正しさ”とは異なる、別の道を照らす存在に出会います。それがジェーンとアダムという二人。この二人は「ラコタ」と呼ばれるアメリカ先住民の部族なのですが、重要なのは「Two-Spirit」だということ。全く聞きなれない存在ですけど、本作の物語にとって大きなキーワードになっています。
「Two-Spirit」は、アメリカ先住民社会の中で歴史的に認知されてきた「第3の性」です。私は当事者ではないので上手く正確に解説できませんが、なんでも“男性でも女性でもない”もしくは“男性でもあり女性でもある”…そういう性の存在がある…というか、そもそもアメリカ先住民の社会では、ジェンダーで人を役割的に分けるという価値観がなかったそうです。少なくともヨーロッパからの移民が押し寄せる前までは。この「Two-Spirit」はアメリカ・インディアンの間で異常として迫害されていたなんてことはなく、むしろ伝統的に重要な意義のある存在として敬われていたこともあるとか。
つまり、「男女」というジェンダーバイナリーは所詮は外部からやってきたひとつの価値観に過ぎないという事実を、この「Two-Spirit」は物語っています。
キャメロンはまさにこの存在を知ることで、“ああ、そうか、自分の知らない全く別の価値観というのもあるんだ”と実感できます。これが他の施設のティーンと、キャメロンの人生を別つきっかけになります。大人が言っていることが全てじゃないという事実は、キャメロンにとっては自己否定から脱する希望です。
アメリカ先住民のトラディショナルな価値観に触れることで、希望を見いだす白人少女という構図も、『ミスエデュケーション』の面白さでもあります。
間違った教育を受けた大人たち
一方、『ミスエデュケーション』では施設側である大人たちの描写も少ないながら印象的です。
この施設は繰り返しますけど決して刑務所的な監獄ではないです。このあたり『ある少年の告白』とは結構違う部分でもあります。『ミスエデュケーション』の場合は、やっていることも子どもたちへの待遇も比較的マイルドです。芝生に寝っ転がったり、グループセッションしたり、理想的な支援施設の姿のように見えます。
ここでホモフォビア(同性愛を嫌悪する人々)には2種類いることが実感できます。
ひとつは、「ゲイなんて気持ち悪いんだ!」「ホモは消えろ!」と露骨に憎悪をぶつけてくるタイプの人。暴力的であり、わかりやすい典型的なヘイトです。
しかし、もうひとつのタイプ、それこそ『ミスエデュケーション』の施設側の人間に該当するホモフォビアは雰囲気が全く違います。「うん、同性愛は間違っているんだ、でも大丈夫、一緒に治していこうね」…なんていう献身的な気持ちで接してくるんですね。表面上、そこに暴力性はなく、ヘイトとは判定されづらいです。
でも、それもやっぱり差別や偏見であることには変わりなく、これぞ「無知の善意」です。これこそ社会に蔓延すると一番恐ろしいものかもしれません。なにせ善意の仮面を堂々と被っているわけですから。
『ミスエデュケーション』の施設側の大人たちも、自分たちのやっていることは本気で正しいと信じて疑わないでいる。子どもたちのためになると確信している。だからこそ、マークという施設の子が起こした性器切断事件にたいしてあれほどの動揺を見せ、涙を流すわけで。
本作のタイトル、「miseducation」は「間違った教育」という意味ですが、これはもちろんこの作中の施設でキャメロンを含む子どもたちが受ける矯正プログラムを指すものです。でも「間違った教育」はあの施設の大人たちやキャメロンの叔母だって受けているんですね。国や社会の教育が根本的に間違っている。そんなミスが負の連鎖として世代を超えて続くこの世界の歪んだ現実。
青春という個人の未来を感じさせるテーマでコーティングされたストーリーのエンディングには、この希望を掴もうとするティーンたちの人生がいずれ社会全体を変えるかも…という展望がチラリと見える。そんな気にさせてくれます。
今、この世界に必要なのは治療ではなく、子どもたちを笑顔にさせる“正しい教育”ですね。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 87% Audience 75%
IMDb
6.6 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)FilmRise
以上、『ミスエデュケーション』の感想でした。
The Miseducation of Cameron Post (2018) [Japanese Review] 『ミスエデュケーション』考察・評価レビュー