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『ある画家の数奇な運命』感想(ネタバレ)…この映画芸術から目を逸らせない

ある画家の数奇な運命

この映画芸術から目を逸らせない…映画『ある画家の数奇な運命』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。

原題:Werk ohne Autor(Never Look Away)
製作国:ドイツ(2018年)
日本公開日:2020年10月2日
監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

ある画家の数奇な運命

あるがかのすうきなうんめい
ある画家の数奇な運命

『ある画家の数奇な運命』あらすじ

ナチ党政権下のドイツ。叔母の影響で幼い頃から芸術に親しむ日々を送っていたクルトは、終戦後に東ドイツの美術学校に進学し、そこで出会ったエリーと恋に落ちる。しかし、エリーの父親は、クルトの人生と大きく関係していた人間だった。しかし、誰もそのことに気づかぬまま、2人は結婚し、クルトは創作の中で自己表現を模索していくが…。

『ある画家の数奇な運命』感想(ネタバレなし)

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ドイツ最高峰の芸術家を下地に

2019年に開催されて大論争を巻き起こした「あいちトリエンナーレ2019」。今も芸術への政治介入は続き、あらためて芸術と政治の関係性について考えさせる一件だったと思います。

歴史的に芸術と政治は常に隣り合わせに存在し、いつも互いを意識してきました。芸術が政治プロパガンダに利用されることもあれば、芸術が政治を真っ向から批判する武器になることもあります。だからこそ権力者は芸術をコントロールしたがりますし、芸術家は権力に厳しい目を向けます。その人が芸術をどういうものだと思っているかで、その人の政治スタンスもわかります。芸術への政治干渉が気にならない人は権力を漫然と支持しているのでしょうし、芸術に政治批判を期待する人は権力への監視を重視している人でしょう。どちらにも無関心な人はきっと権力の問題を見て見ぬふりをして誤魔化して生きたいのでしょう。

しかし、その渦中にいる芸術家はそうは言ってられません。創作という最大難易度の壁にぶちあたっているのですから、とにかく創作に打ち込むのみです。政治や世間の荒波に翻弄されながら…。

今回紹介する映画も、そんな揺れ動く政治や社会の中で自分の創作を見つけ出そうとするひとりの芸術家の物語です。それが本作『ある画家の数奇な運命』

本作はひとりの芸術家を主人公にした物語ですが、モデルになった人物がいます。それが「ゲルハルト・リヒター」という1932年生まれのドイツの画家です。私は芸術に全然詳しくないのですが、ドイツで最も有名な画家なのだとか。まだ存命なので(2020年10月時点)、現代美術界の巨匠として尊敬を集めています。「フォト・ペインティング」という独特の表現方法を生み出した事でも知られ、それは映画内でも描かれているので注目です。

ただこの『ある画家の数奇な運命』はゲルハルト・リヒターの伝記映画…というわけでもないんですね。あくまで彼をモデルにした主人公を描くという部分に力点を置いており、かなり虚実入り乱れたストーリーが展開されます。同時に時代的には第2次世界大戦に直撃していくので、歴史ドラマにもなっていきます。そのため、伝記映画と観ればいいのか、歴史映画と観ればいいのか、掴みどころのない感じもあるのですが、鑑賞しているとそんなことも気にならなくなってきます。

なんというか「物語」の力、さらには「芸術」の力に圧倒されるような映画です。映画時間が3時間超えの超大作なのですけど、その時間の長さも全く苦にならない魅力があります。この映画自体がひとつの芸術品として観客を釘付けにしてしまう感じでしょうか。

監督は西ドイツ出身の“フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク”(ちなみにフルネームは「Florian Maria Georg Christian Graf Henckel von Donnersmarck」でものすごく長い)。2006年の初の長編映画『善き人のためのソナタ』でいきなりアカデミー外国語映画賞を受賞した才能の持ち主であり、2010年には『ツーリスト』という作品でハリウッドデビューもしました。『ある画家の数奇な運命』は久しぶりの監督作ですね。

『ある画家の数奇な運命』の評価も好調で、2018年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされたほか、撮影賞にもノミネートされました。なお、撮影を手がけたのは『ライトスタッフ』や超実写版『ライオン・キング』でも撮影を担当したベテランの“キャレブ・デシャネル”です。確かに本作は撮影が印象的な効果を発揮しており、「おっ!」となるようなマジカルが撮影テクニックで繰り出されるシーンも…。

キャスト陣は、主人公を『ピエロがお前を嘲笑う』の“トム・シリング”が務め、他には『ブリッジ・オブ・スパイ』の“セバスチャン・コッホ”、『未来を乗り換えた男』の“パウラ・ベーア”、『ワイルド わたしの中の獣』『さよなら、アドルフ』の“ザスキア・ローゼンダール”、ドラマ『DARK ダーク』の“オリヴァー・マスッチ”など。全員が素晴らしい名演を披露しており、こちらも注目しないわけにはいきません。

芸術とかに全然興味がなくても大丈夫です。そこまでの知識を必要とするアカデミックな作品でもないですし、アーティスティックな方向に特化しているものでもないです。でも芸術や学問の現場に興味ががあったりすると頷ける場面も多いですけどね。濃厚なドラマの入り口から足を踏み入れれば、いつのまにか足を止めてジッと眺めていることになりますから。

オススメ度のチェック

ひとり ◯(濃厚なドラマを堪能した人向け)
友人 ◯(関心がある者同士で)
恋人 △(やや長いので注意)
キッズ △(大人の長時間ドラマです)
↓ここからネタバレが含まれます↓

『ある画家の数奇な運命』感想(ネタバレあり)

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目を逸らせないものがある

1937年。ドイツのドレスデン。少年・クルトは、若い叔母・エリザベスと一緒に巡回展を訪れます。叔母は芸術が好きで、よくクルトを連れてきていました。そんな叔母をクルトは大好きでした。

アートを前に長々と説明を続けるスタッフをよそに、クルトはわかっているのかわかっていないか、ぼーっと美術品を見つめます。

バスに乗って帰る途中、叔母が待機場にてたくさん並ぶバスの前で手を合わせてお願いをすると、運転手が一斉にクラクションを鳴らしてくれます。それを浴びるように全身で受け止める叔母。じっと見つめるクルト。

社会情勢はどんどん政治支配を増しており、女性たちが道に並び、ナチ指導者を迎えることも。熱狂的に飛び交う「ハイル!」の言葉の中、エリザベスはその前方間近でそれを目の当たりにし、恍惚な表情を浮かべます。

ある日、クルトがピアノの音を聞いて1階に降りると、脱ぎ散らかした服が落ちているのを見つけます。そして全裸でピアノを弾く叔母の姿がそこにありました。「真実はすべて美しい」「決して目を逸らさないで」と叔母は言い放ち、じっとその背中を見つめるクルト。何かに浮かされているように音を繰り返す叔母は突然立ち上がり、ガラス皿で自分の頭をこつき、出血するも笑みを浮かべて気にしません。

異常行動が家族に見つかり、叔母はすぐに診察を受けます。結果は総合失調症。そして叔母は女性クリニックへと連れていかれるのでした。ジタバタと激しく抵抗しながら車に連れ込まれる叔母。それを見つめるクルト。

連行されて医者の前に座らされるエリザベス。その医者はカール・ゼーバントという名のようです。エリザベスはそばに飾ってあった絵を気にし、「娘さんのですか」と他愛もなく会話。部屋の外が騒がしくなり医者が出ていくと、そのうちに自分の診断書を盗み見るエリザベスは、統合失調症と記されており、「Sterilisationstermin」(放射線による不妊化のこと)と書かれているのを発見。戻ってきた医者・カールに座れと命令されるも、部屋の隅に逃げ、抵抗も虚しく連れていかれました。

そしてエリザベスに待っていたのは、ガス室。全裸で息絶えるだけ。

1945年。クルトは成長し、郊外に住んでいましたが、ドレスデンの街が爆撃されているのを目の当たりにします(いわゆる「ドレスデン爆撃」。数万人~十数万人が亡くなったとされる)。

戦争はナチス・ドイツが敗北し、ドレスデンもソ連の支配下に置かれます。医者のカールもソ連兵に捕まり、拷問を受けて投獄されます。独房でロシア語を勉強するカールでしたが、あるとき、外からうめき声が聞こえました。それはソ連将校の妻が出産に苦しんでいる声。すぐさま「自分なら助けられる」と進言し、無事赤ん坊をとりあげることができました。この功績もあって、カールは一応は釈放ということになります。

1951年。青年に育ったクルトは美術学校で絵画の勉強を始めます。そこでファッションデザインを学ぶ学生のエリザベス(エリー)と出会い、一目惚れのように恋に落ちます。エリーの家はかなり豪華で、こっそり部屋に行って体を重ね、窓から抜け出したこともありました。

しかし、エリーの父は娘とクルトの関係をあまり喜ばしく思っていないようです。しかもあろうことか、自分の娘の体さえもコントロールしようとしてきます。

そして、1961年。クルトはエリーとともに西ドイツへと逃亡することに。

クルトは知りません。エリーの父親は、あの愛していた叔母・エリザベスを死に追いやった医者のカールであるということに…。

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芸術に気づく幼少期

芸術家を題材にした映画というのはよくあります。最近だと『永遠の門 ゴッホの見た未来』なんかがそうでした。こちらの映画ではゴッホの作風がそのまま映画演出としても登場したりして、芸術家の人生とクリエイティブな世界が同化していくという、これまた映画ならではの魔法が印象的です。

その一方で『ある画家の数奇な運命』はそういう単刀直入な芸術家映画にはなっていません。第一、まず本作は伝記映画ではなく、主人公の名も「ゲルハルト・リヒター」ではなく「クルト・バーナート」になっているのですから。

つまり、最初から「これは何が現実で何がフィクションかはわからなくしていきますよ~」という作り手の姿勢が全開なわけです。ところがこの宣誓が後の終盤ですごく効果的に活用され、「なるほど、これは上手いな」と思わず唸らされました。

それはひとまず置いておいて、物語は序盤、クルトの幼少期から始まります。ここではクルトは芸術に目覚めているわけでもなく、もっぱら“観る側”に落ち着いています。しかし、クルトには芸術として現実を捉える力があるのかもしれないと思える描写が無言で随所に挿入されます。

それは叔母・エリザベスを見る目です。胸元に目がいったり、バスの一斉クラクションを聞く姿だったり、全裸でピアノを弾く狂気と悲愴の混ざった姿だったり、とにかくクルトは叔母・エリザベスをよく見つめます。ここでクルトの芸術の原点は叔母・エリザベスにあると観客にもしっかり刻み付けるんですね。

冒頭のクルト少年が叔母と見に行くのが「退廃芸術」展なのも、それはそれで意味深に活きてきます。ナチスとしては近代美術や前衛芸術なんてクソです…と言いたいのでしょうけど、クルト少年は今まさに叔母という芸術に見惚れていますよってことですから。芸術は殺せない、勝手に輝きだすのです。

それにしてもこのエリザベスを演じた“ザスキア・ローゼンダール”がこれまた魅惑的な女優で、確かにそこに芸術性を見いだすのもわかるという説得力があります。“ザスキア・ローゼンダール”といえば、ケイト・ショートランド監督の『さよなら、アドルフ』でナチス一家に生まれて戦後自分を見失った女性を熱演したことで話題になった人ですが、『ある画家の数奇な運命』もその系譜の役回りですね(本作では主体性はなく退場してしまいますが…)。ぜひ『ある画家の数奇な運命』で“ザスキア・ローゼンダール”が気になった人は『さよなら、アドルフ』も鑑賞してみてください。

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芸術は静かに反撃してくる

『ある画家の数奇な運命』の中盤になると青年クルトが芸術を学び始めます。ここではアカデミックな世界で生きる若者たちの姿が印象的。とくに東ドイツと西ドイツの対比が際立ちます。

ドレスデンでは社会主義リアリズムが前提にあり、芸術は全てが政治の道具です。たくさんの学生がいても結局は描かされるものは同じになっていき、そこに芸術の息吹はありません。

対する西ドイツの学校はもう自由奔放。初めて来た時のクルトがあっけにとられるように、まるでそこは天と地の差があります。ほんと、みんなが好き勝手に芸術で自己表現をしまくります。壊すも良し、燃やすも良し、何をするのも良し。カタチに縛られませんし、もちろん権力なんて気にしません。

ヨーゼフ・ボイスギュンター・ユッカーといった実在の芸術家をモデルにしたキャラクターも出てきて、なかなかにここも飽きさせない面白さがありました。

そこでクルトは自分を模索することになります。自分の芸術って何だろう…と。
で、ここにきてずっと保留にしていた“とあるサスペンス”がクロスオーバーしていくんですね。

要するに叔母・エリザベスを安楽殺したカール・ゼーバントがエリーの父親だった!という真実です。しかし、ここもユニークで、普通だったらいつ気づくのかと観客をハラハラさせて、気づいてしまった瞬間に物語の山場を迎えるものじゃないですか。「私の大切な叔母を殺したのはお前だったのか!」と憤怒したりして、復讐劇の葛藤が起こってもおかしくないです。

でも『ある画家の数奇な運命』では違って、クルトは明確にその事実を認識しないまま、まるで運命に導かれるようにエリザベスとカールを素材にした作品を作り上げてしまう。それを見たカール本人だけが罪の意識に悶え苦しむことになります。狼狽するのみ。

これ、つまるところ『イングロリアス・バスターズ』と同じく「もしかしたら…」なフィクションのパワーを乗っけた芸術で復讐するってタイプなんですが、ただその本作の演出は実に控えめで、それでいて鋭利で、静かに突き刺す感じ。これがまたいいです。「目を逸らせない」ってそういうことか…っていう。

しかもそこの演出(絵が完成して、クルトの人生が華やいでいく過程)がまた無言の映像だけで映し出され、これがまたひとつのアートみたいで…。映画のマジックというか、芸術のマジックです。

そしてラストはバス待機場を見かけ、クラクションを一斉に鳴らしてもらって、クルトはかつてを思い出し、あの叔母・エリザベスと一体になる。なんかもう完璧な畳みかけじゃないですか。こんな終盤にきっちり決められると文句もなしですよ。
まあ、あえて苦言を述べるなら、本作における「女性」はだいたいが(男主体な芸術世界にとっての)素材でしかないのがあれなのですが…。

本作の前半で叔母・エリザベスが殺されたり、学校教育が社会主義に染まっていくのは、芸術への冒涜そのものでしたが、後半になると今度は芸術からの反撃タイム。それは見事に芸術的で鮮やかにクリーンヒットします。

『ある画家の数奇な運命』を観ると、芸術を前にすれば政治も権力もしょせんは相手にならないんだなとしみじみ感じます。敵うような存在では最初からなかった。ひとりの個人から魂を絞って生み出される芸術は、そんじゃそこらの権力者の都合のいいように手玉にとることはできないし、扱えもしないということをここまで映像で見せつけられるとぐうの音もでないですね。

芸術は別に常に政治的である必要はないのですけど、そこに自分でも意図しないくらいに思わぬ政治性が乗っかり、凄いものができあがってしまう瞬間ってやっぱりあるのかな。

映画を観たというよりは、芸術を観たような気分で映画館を後にする…そんな体験でした。

『ある画家の数奇な運命』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 77% Audience 87%
IMDb
7.7 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 7/10 ★★★★★★★

作品ポスター・画像 (C)2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG ドントルックアウェイ

以上、『ある画家の数奇な運命』の感想でした。

Never Look Away (2018) [Japanese Review] 『ある画家の数奇な運命』考察・評価レビュー