正義は埋められたままにしない…映画『ニッケル・ボーイズ』の感想&考察です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:アメリカ(2024年)
日本では劇場未公開:2025年にAmazonで配信
監督:ラメル・ロス
児童虐待描写 人種差別描写
にっけるぼーいず
『ニッケル・ボーイズ』物語 簡単紹介
『ニッケル・ボーイズ』感想(ネタバレなし)
分断と埋没は誰がもたらすのか
2度目の大統領の座を思う存分満喫している王様の“ドナルド・トランプ”は、司法省の公民権局長に“ハルミート・ディロン”という人物を指名しました。インド系アメリカ人の女性である“ハルミート・ディロン”は共和党役員で、最近はすっかりMAGAの一員(というかMAGAじゃないと政治の仕事を貰えない)。最近は多様性の取り組みを「人種的分断(racial divisiveness)」と表現するなどしていました(ACLU)。そんな人が公民権を冠する部署を指揮して担うわけです。
この「多様性こそ分断を招いている」という主張は、保守や右派が好んで用いる反多様性レトリックの定番。本来の事実を逆転させて認知を歪めるという手口です。
公民権の歴史なんてその最たる例ですが、反“多様性”の結果、以前のアメリカでは、白人と黒人は空間そのものを区分され、分断されました。いわゆる人種隔離です。制度化された人種差別のいち形態である人種隔離は、1960年代に沸き上がった公民権運動の時代に徹底的に批判され、法的に潰えました。
しかし、2025年、反“多様性”の次なる形態である反DEIが盛り上がる中、人種隔離の歴史は忘れ去られようとしています。都合の悪いことは土に埋めようとするのです。
こんな今だからこそ、紛れもなく「反“多様性”こそが分断を招いている」ということを再認識しないといけません。
今回紹介する映画は、ある場所のある歴史を映画的な技法で掘り起こし、その反“多様性”の残忍さを思い出させる作品です。
それが本作『ニッケル・ボーイズ』。
まず監督から触れていきますが、本作は“ラメル・ロス”というアフリカ系アメリカ人の長編劇映画監督デビュー作となります。
“ラメル・ロス”監督は、2018年に『Hale County This Morning, This Evening』というドキュメンタリー映画で初めて登場しました。このドキュメンタリーは、アラバマ州ヘイル郡のアフリカ系アメリカ人の生活を映し出したものなのですが、かなり前衛的で独特の表現と構成をしていました。アカデミー賞で長編ドキュメンタリー映画部門にノミネートされて、一気に注目された“ラメル・ロス”監督ですが、まさか次作の『ニッケル・ボーイズ』が今度はアカデミー賞で作品賞にノミネートされるとはね…。
個人的にはこの年のアカデミー賞で作品賞を獲ってほしいなと私が思ったのはこの『ニッケル・ボーイズ』です。まさに今のアメリカに必要な映画だと思います。
『ニッケル・ボーイズ』は、ピューリッツァー賞を受賞した“コルソン・ホワイトヘッド”という小説家の2019年の長編小説を映画化したものです。あまり詳細を言うとあれなのでざっくりと物語を紹介すると、実話に基づいたもので、人種隔離がまかり通っていた1960年代のアメリカにて10代の黒人の少年がとある更生施設に入れられ、そこで過ごす様子を描いています。
ただ、ここで“ラメル・ロス”監督流といいますか、本作は劇映画なのですけども、同時に“ラメル・ロス”監督がドキュメンタリーでやっていたテクニックが全編にわたって炸裂しており、通常のよくある物語の語り口ではありません。観ればわかるのですが、全てが一人称視点で進行するんですね。もともと“ラメル・ロス”監督のドキュメンタリー自体がナラティブな映像の見せ方をしていましたけど、それをもう少しドラマ寄りにした感じでしょうか。
『ニッケル・ボーイズ』はアカデミー賞で脚色賞にもノミネートされましたが、それも納得です。こんな脚色ができるのは“ラメル・ロス”監督だけですよ。
本作の製作には「Plan B Entertainment」も関わっており、「Amazon MGM Studios」の配給になったこともあって、日本では劇場公開されず「Amazonプライムビデオ」で配信スルー。AmazonのCEOは差別主義の権力者に尻尾ふりまくりですけど、カネなんていくらでも持ってるのだから、この映画も日本の映画館で観れるようにしてよ…。
じっくり映画体験に向き合える時間を作ってこの『ニッケル・ボーイズ』をぜひ味わってください。
『ニッケル・ボーイズ』を観る前のQ&A
A:Amazonプライムビデオでオリジナル映画として2025年2月27日から配信中です。
鑑賞の案内チェック
基本 | 直接的な暴力の描写はあまりないですが、苛烈な人種差別の描写は全編にわたって描かれます。とくに未成年が酷い目に遭う展開が主です。 |
キッズ | 低年齢の子どもにはややわかりにくいかもしれません。 |
『ニッケル・ボーイズ』感想/考察(ネタバレあり)
あらすじ(前半)
フロリダ州タラハシー。家族からは「エル」と呼ばれるアフリカ系アメリカ人の少年のエルウッド・カーティスは、裏庭で寝転がっていました。その人生は決して裕福ではなくとも、小さな幸せに満ちていました。
祖母に愛情たっぷりに育てられ、いつでもどこでも祖母がついてきてくれます。エルウッドも品行方正な子で、常に行儀よくしていて、手伝いもすすんでやります。
世間ではマーティン・ルーサー・キング・ジュニアといった活動家が黒人への差別の撤廃を訴えて公民権運動を拡大させていました。その勢いは増しつつあり、メディアでも頻繁に取り上げられます。
しかし、祖母は公民権運動とは距離を置きたがり、真面目に働いていればきっと無縁だと言って孫を諭します。
エルウッドも成長し、10代後半になりました。学校では同じ黒人のヒル先生がいて、南部の教科書の偏った歴史観を否定しながら己で思考することの重要性を教えてくれました。こうしてエルウッドも他の若者たちと同じように公民権運動に参加し始めていました。
ある日、ヒル先生がいい知らせだと話を持ってきます。なんでもメルヴィン・グリッグス技術専門学校が優秀な生徒向けのコースを開設したそうです。成績のいいエルウッドに最適だと推薦してくれ、しかも歴史的黒人大学(HBCU)の授業料無料の短期集中プログラムのチャンスでした。
期待に胸が高まる中、エルウッドは出発します。おカネはかけられないのでキャンパスまでヒッチハイクしていくことにします。
するとサングラスの黒人男性の運転する車が止まってくれました。親切なその人は身なりを整えており、妻に会いにいくらしいです。この車も最近手に入れたと語ります。
ところがしばらく走行すると、後ろから警察車両が近づき、停車します。白人の警官はこの車は盗難車だと言い、運転手をあっさり逮捕。エルウッドも共犯とみなされてしまいます。
こうして有罪となってしまったエルウッド。有無も言わせず事情も無視でした。
エルウッドは未成年であるため、更生施設であるニッケル・アカデミーに送られます。車で着くと、まず同乗していた白人少年が下ろされ、次に少し移動して黒人の施設に連れていかれます。ここが新しい生活の場です。
そこは更生とは名ばかりで、実質は過酷な労働と暴力の支配が平然とのさばっているところでした。そこでエルウッドはターナーという黒人少年に出会い…。
画面の広さは同じでも眼差しが変われば…

ここから『ニッケル・ボーイズ』のネタバレありの感想本文です。
『ニッケル・ボーイズ』の一人称視点というアプローチ。『サウルの息子』をちょっと思い出しもしました。あちらはナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所で従事することになった当事者を、完全な一人称視点ではないですが、極めて登場人物に近い視点で狭い画面に抑えて映し出していた映画です。その限定された映像情報が観客に不安をもたらし、効果的な演出をもたらしていました。
この『ニッケル・ボーイズ』もほとんど強制収容所と変わらない空間が舞台です。更生施設を謳うニッケル・アカデミー(ニッケル校)は、授業はまるでレベルの低いものしかなく、後はひたすらに労働。事実上、囚人労働力を手に入れるために機能しています(小さい子も混じっているのがまた…)。階級制があり、優秀だと「エース」に進級し、まるでそれで卒業できるかのように期待させていますが、逃げられはしません。そして終盤でわかるように、本当に残虐な所業もしていて…。
しかし、本作はその空間に没入させるような意図だけでこの一人称視点が繰り出されているわけではありません。確かにそういう恐怖に没入させるシーンもいくつかはありました。体罰シーンなんてとくにそうですね。
本作でとくに私が感じたのは「眼差し」を意識させるような効果でした。
例えば、序盤は祖母と先生という本当に信頼できる者に囲まれ、エルウッドの世界は狭くても安心感に溢れています。この周囲の眼差しによって、エルウッドは「愛すべき無垢な孫」や「将来有望な若者」と映っています。
ところがニッケル・アカデミーでは様変わり。そこにある眼差しはさまざまでも愛はありません。同じような黒人の子たちのうち、何人かは「イジメの対象」として見下し、一方で教師陣は露骨に「劣った存在」として軽視してきます。
4:3(1.33:1)アスペクト比の狭い画面はまさにエルウッドの隔離された物理的な閉塞感と精神的な自己評価の抑圧を表しているかのようです。
本来であれば、祖母や教師の温かい世界を飛び出して、より広い世界を見るはずだったのに、もっと窮屈な世界を体験することになるとは…。それは祖母の父が白人の女に道を譲らなかったと告発されて刑務所で自死したというあの昔話を彷彿とさせるものです。つまり、話では聞いていたけどここまで残酷な世界が本当にあったのかという…。
エルウッドだってもちろん人種隔離を経験していたはずなのですが、居心地の良い世界を大人に用意してもらっていたからこそ、まだそこまでの自覚はないままでいられました。逃げ場はいくらでもありました。
眼差しが変われば、同じ世界の広さ(画面の広さ)でも体験は激変してしまう。その恐ろしさがこの『ニッケル・ボーイズ』からありありと伝わってきましたね。
分断しても最後は手を伸ばしたい
『ニッケル・ボーイズ』は一人称視点ですが、ずっと“イーサン・ヘリス”演じるエルウッドの視点にはなりません。ここが本作の捻っているところでしたが、途中で“ブランドン・ウィルソン”演じるターナーの視点にも切り替わります。
そのニッケル・アカデミーに辿り着く前に、作中で唐突に1958年の映画『手錠のまゝの脱獄』のワンシーンが挿入されます。これは“シドニー・ポワチエ”主演で、白人と黒人の囚人が最初は互いに反目していましたがやがて絆を深めていくという物語です。
あえて引用しているのは「白人と黒人の友情」というフィクションがいかに非現実的かをその後の展開を通して突き付ける効果が大きいでしょう。なにせ本作ではその直後に白人と黒人は別々の施設に分けられ、友情どころの状況ではないですからね。これが人種隔離です。
そのうえ黒人同士だって簡単に団結できるわけもないです。そんな孤立するエルウッドの前に現れたのがターナーで、その言動からエルウッドと渡り合えるくらいに優秀だと察せます。
けれども公民権運動に触発されて「見て見ぬふりはできない」と正義感を発揮するエルウッドに対して、ターナーは「社会が変わるわけない」と冷笑的。ここでも近似した黒人2人の関係に絶妙にすれ違いが生じることで、同じ世界を共有することの難しさを痛感させます。
エルウッドは内部告発というジャーナリズム的な手段に打って出ますが、それも揉み消され、あげくに拷問的な体罰で死の一歩手前に(日本語訳では「独房」となっていますけど、あれは「sweatbox」という拷問用の箱)。狭い画面どころか本当に狭い空間に殺されそうになる恐怖です。
そして2人は逃亡し、そこで悲劇が…。
大人になったターナー(エルウッドに改名している)は一人称視点ではないのですが、どことなくその視点はもう肉体から魂が離れた実のエルウッドのものではないかと推察もできてしまう…あのシーンは独特の空気がありました。
ニッケル・アカデミーのモデルになった「フロリダ少年院」。1900年から2011年までの歴史があり、職員による生徒への虐待、暴行、性的暴力、拷問、さらには殺害といった陰惨な実態が明らかになり、映画で説明されるように遺体がいくつも敷地から発見されました。
『ニッケル・ボーイズ』はファウンド・フッテージのような役割も果たしています。これは見せられなかったある少年の世界です。あのエルウッドが果たせなかった告発をターナーが引き継ぎ、そしてこの映画自体も担っている…。
ラストの視点も忘れられません。起こしてあげないと始まりませんから。
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–(未評価)
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作品ポスター・画像 (C)Amazon MGM Studios ニッケルボーイズ
以上、『ニッケル・ボーイズ』の感想でした。
Nickel Boys (2024) [Japanese Review] 『ニッケル・ボーイズ』考察・評価レビュー
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