この協奏曲はノイズが耳に障る…映画『信長協奏曲(コンツェルト)』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:日本(2016年)
日本公開日:2016年1月23日
監督:松山博昭
信長協奏曲(コンツェルト)
のぶながこんつぇると
『信長協奏曲(コンツェルト)』物語 簡単紹介
『信長協奏曲(コンツェルト)』感想(ネタバレなし)
テレビドラマと映画の協奏
テレビドラマの映画化は、興収も予想しやすいお得な映画企画ということもあり、日本ではもはやド定番となりました。しかも、たいていはかなりヒットしてお金をしっかり稼ぐんですね(まあ、例外もありますけど…)。日本ではテレビの力が弱まっているとネットではまことしやかに嘲笑気味で書かれますが、こう言うのを見る限り、今もテレビのパワーは絶大です。やはり強いコンテンツを持っていることは、そう簡単に衰えることのない武器になります。
本作『信長協奏曲(コンツェルト)』も、2014年10月から12月までに放映されたテレビドラマの劇場版です。知っておくべきポイントとしては、本作はドラマの続き…簡単に言えばドラマの最終話を映画でやっちゃおうというノリとなっています。このタイプのドラマ映画化が本当に増えてきた印象。本作はどうかは知りませんが、たぶんドラマのセットやスタッフをそのまま流用していてほぼドラマ予算で作っているのでかなり安上がりになっているのでしょう。企画としては超利益を出しやすいアイディアです。
そのぶん、映画らしさは犠牲にしています。例えば、通常の映画にあるような導入部はほぼなく、いきなり物語が展開します。最初からクライマックスです。世界観や現状の説明はあっさりとしたセリフとフラッシュバックくらいで済ましており、本作だけでは人間関係も含めてなにがなんだかわかりません。当たり前のようにファン向けです。
本物の織田信長は明智光秀として暗躍し、武将・松永久秀はサブローと同じく未来からタイムスリップしてきた現代人であるなど、意外と設定が複雑な本作。必ず事前にテレビドラマを見ましょう。
この作品は現代の高校生が戦国時代にタイムスリップするというSFでもあるのですが、そのタイムスリップものジャンルにはカルチャーギャップコメディとか、時代に適応しつつ成長していく展開とかが付き物です。しかし、この映画単体ではそうした要素はありません。映画の開始時点では主人公サブローはすでに戦国時代に馴染んでいますし、織田信長として仲間からも信頼された状態になっています。
つまり、要するにこの作品が本来持っている一番面白い部分はすでにドラマで終わっているのです。
では、映画では何を楽しめるのかというと、それは「歴史上避けられない織田信長の死とどう向き合うのか」というサスペンスひとつに限られます。あとは、テレビドラマを見てきたファン向けにエンディングを見せるということだけです。
テレビドラマの(ましてや続き物の)劇場版は、従来の映画通からは否定的な意見もあるでしょうが、テレビドラマを楽しんでいる人にしてみれば、映画化はドラマでは実現できないゴージャスな体験ができるというメリットがあります。実際、本作は250人以上のエキストラによる大合戦や、オープンセットを派手に燃やしてみせるなど、映画化だからこそできるスケールアップした最終話が楽しめます。まだ、このドラマ映画化は映画らしい方ですね。
すでにアメリカではテレビドラマと映画の境がなくなりつつあって予算も規模も質も映画クラスになっています、日本ではまだまだテレビドラマのノリが映画に通用する状態が続きそうです。
『信長協奏曲(コンツェルト)』感想(ネタバレあり)
テレビドラマの映画化には注意がいる
この映画は、結構無理の多い設定をたくさん抱えている作品です。といっても現代の人間が戦国時代にタイムスリップするというのは、割と他作品でもよくあるので珍しくありません。それは別にいいんです。本作最大の「無理だろう」ポイントは「現代の高校生が本物の信長になり替わる」という設定でしょう。いくらなんでも高校生が織田信長にはなるのは、漫画やアニメなら誤魔化せても、実写では見た目から無理があります。
ということで、主人公の高校生と織田信長を演じる主演に小栗旬が選ばれているのは、そのせいなのではないかと思ってしまいます。高校生と織田信長の中間が小栗旬…。まあ、わからなくもない妥協のしかたです。相変わらずこのもう若手とも呼べなくなってきた小栗旬は、多才というか、なんでも起用にこなす人。不思議な安定感があります。
でも、結局のところ、高校生にも織田信長にも見えないので物語として何かチグハグな印象が拭いきれません。これはこのドラマ・映画含む実写作品全体のノイズと感じかねない要素ですが、そこが気になるかどうかが作品を受け入れられるの分かれ目ですね。そのノイズもコメディとして振り切れていれば気にならなくなると思います。
ところが、映画では主人公の動機となるものが「世の中を平和にする」なので、コメディだけでは描けません。結局、本作はコメディとしてもシリアスとしても成立しない中途半端な感じになっています。
本作の結末は、明智光秀となっていた本物の織田信長が織田信長として死に、織田信長になっていたサブローが明智光秀として追われ、豊臣秀吉に首を切られた瞬間に現代に戻るというオチでした。そこで、サブローは秀吉に「世の中を平和にしてね。頼んだ!」みたいな感じで平和への思いを託します。
私はこの展開、イマイチ響かなかったです。なぜなら、本作では歴史は変えられないという流れになっている以上、秀吉がこのあと戦乱を続けることは周知の事実なわけです。サブローが思いを託すべきは家康のほうが適切だと思いますが、本作の家康は女たらしなダメそうな奴なので、あんまり平和を託したい相手には思えないのも痛いところ。なにより江戸時代も、貧困で一揆が起きたり、異教徒の弾圧があったりと、決して平和な時代ではなかったと思うのですが…。
現代に戻ったサブローのもとに届けられた帰蝶からの動画メッセージでは、サブローの想いが通じて平和になったと語られますが、説得力はありません。史実はあくまで帰蝶のような裕福層な人が平和を独占してただけです。
これではサブローの語る「平和」がものすごく薄っぺらいものに感じます。
個人的にはこの時代で現代人感覚の「平和」を語るのが無理あるように思ってしまったのがいけなかったのかもしれませんけど。
ただでさえ本作は時代劇ではあっても、リアリティラインがすごーく低い映画で、時代考証とかツッコんではいけないタイプなのですから、真面目に平和を問うのは難しいんじゃないでしょうか。
いっそのこと「バカ殿」みたいなノリで、完全にギャグテイストにすれば、「時代考証が~歴史が~」みたいな文句もでないのに…。それか徹底的にドラマのリアリティを上げるかでしょう。
ドラマの最終話を映画でという企画は、確かに商売としてもおいしいし、予算も増えて派手にできるいいことづくしです。でも、ドラマのノリを映画でそのままやると、どうしてもデメリットが浮き上がります。映像のスケールアップのほかに、ドラマのリアリティアップも欠かせないということがよくわかる作品でした。
でも、今まで書いてきたことは全部あくまで映画ファン側の目線にすぎません。たぶんドラマ好きの人はこれで良いのだろうし、このノリこそがベストアンサー。結局のところ、テレビドラマ的基準と映画的基準のどちらを重視するかの違いにすぎないのでしょうね。
なのでテレビドラマの映画化作品はとりあえずファンの需要に応えられれば合格…ということでいい。私のような映画フリークは無視する。そのスタンスを踏まえれば、じゅうぶんなのかな。
けど、けども! ときにはテレビドラマを映画化するときに、これまでの雰囲気をガラッと変えて新しい挑戦をしてみるのもいいと思いますよ。テレビ局さん、お金、あるでしょう?
ROTTEN TOMATOES
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作品ポスター・画像 (C)石井あゆみ/小学館 (C)2016 フジテレビジョン 小学館 東宝 FNS27社
以上、『信長協奏曲(コンツェルト)』の感想でした。
『信長協奏曲(コンツェルト)』考察・評価レビュー