トランスレイシャルは認めるべきか?…Netflixドキュメンタリー『レイチェル 黒人と名乗った女性』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:ポーランド(2018年)
日本では劇場未公開:2018年にNetflixで配信
監督:ローラ・ブラウンソン
人種差別描写
レイチェル 黒人と名乗った女性
れいちぇる こくじんとなのったじょせい
『レイチェル 黒人と名乗った女性』あらすじ
2015年、アメリカは人種に関する大きな論争で盛り上がっていた。その渦中にいたのはレイチェル・ドレザルという名の黒人女性だった。彼女は全米黒人地位向上協会に所属し、差別に苦しむ黒人のために様々な人権活動に身を投じてきた、まさに黒人にとってのリーダー的存在。誰しもがレイチェルという黒人を称賛した。彼女が白人だと知るまでは…。
『レイチェル 黒人と名乗った女性』感想(ネタバレなし)
思考実験という罠
最近は日本でもすっかり「多様性」だとか「LGBT」という言葉が浸透し始めました。でも、あまりに急速に言葉だけが独り歩きしている気がして少し不安になってきます。逆に誤解や偏見を生んでしまわないかと…。本当はもっとじっくり教育や啓発に力をかけていくべきなんですけど。
映画界でも人種や性といったアイデンティティの多様性を支持することは今や欠かせないものになっているのは、映画事情に詳しい方なら承知の事実だと思います。まさに「多様性=尊重するのは当たり前」というのが共通認識化してきました。
しかし、多様性という概念はそんな単純には語れないということを如実に示すような出来事が2015年のアメリカで起こりました。
それを題材にしたのが本作『レイチェル 黒人と名乗った女性』というドキュメンタリーです。
個人的にこの作品を観て思ったことは…“考えさせられた”…。いや、バカみたいな感想ですけど、本当にそれしか浮かばないような、とにかくセンシティブな問題に知恵熱が出まくりです。観終わった後の謎の疲労感とモヤモヤはしばらく離れませんし、たぶんずっとこびりつくのではないかな。
内容はとりあえず「あらすじ」に書いたとおり。後は実際にドキュメンタリーを鑑賞して色々と自分なりに考えるべきでしょう。これに関しては外からとやかく言うべき問題ではない気がするし、先ほども言ったように単純な物差しでは語れないものでもあります。だから自分で考えることが重要なんじゃないかなと。
どうしてもテーマがアレなのでネタバレなしで語るとなると抽象的な言葉にとどまってしまいますが、「人種とは何か?」「多様性とは何か?」「アイデンティティとは何か?」を問ううえでの、おそらく現時点で最も回答困難なトピックであるのは間違いありません。
そして、このドキュメンタリー作品はアメリカでは冷静に評価できないはず。つまり、ある程度“外”にいる私たち日本人にこそ評することができる部分もあるかもしれません。
しかし、そこで注意しないといけないのは「思考実験」という罠です。私たちは何かを考えさせられることがとりあえず意味があるのだと思ってしまいがちですが、本当にそうなのでしょうか。
この『レイチェル 黒人と名乗った女性』はそういうことまで問いかけるドキュメンタリーです。
『レイチェル 黒人と名乗った女性』予告動画
『レイチェル 黒人と名乗った女性』感想(ネタバレあり)
真っ向から対立する二者
レイチェル・ドレザルをめぐる一連の騒動。自分の頭を整理するためにも簡単にまとめておきます。
全米黒人地位向上協会(NAACP)のスポケーン支部局の支部長として精力的に活動し、黒人への不当な対応で炎上している警察のオンブズマンとしても働き、大学教授の職も持っていた、黒人活動家のレイチェル・ドレザル。彼女の人生が一変したのは脅迫状事件でした。彼女に届いた脅迫文はよくいる差別主義者によるもの…そう片付いていくと思われた矢先、「レイチェル・ドレザルは白人ではないか」というタレコミが寄せられ、事態は別方向に。結果、レイチェル・ドレザルは確かに白人の両親から生まれた生物学的には白人であり、しかし、本人は黒人であると名乗っているという状況が世間に明らかになります。
このレイチェル・ドレザルの人種問題について、主張は大きく真っ二つに分かれます。
レイチェル・ドレザルと、その近しい支持者の言い分はこうです。
当人いわく、幼いころから自分を黒人だと思ってきたし、2006年から黒人だと言うようになったそうで、これはアイデンティティだと頑なに明言します。その背景には、両親と仲が悪く、劣悪な環境にあったようで、家族と縁を切って新しい自分になるという意味も窺わせます。また、例の暴露事件は、裁判を直前に控えたレイチェルの信用を落とすために、両親の策略で情報を漏らしたのではないかという疑惑もされていました。
そんな彼女を支持する人は、子どもたちや近しい黒人がいますが、基本的に世間は非難の声が絶対的多数。彼女の実態が公になって以降、精神異常者扱いするような誹謗中傷は後を絶ちません。それでも自分の存在を自分でコントロールして示せる場所がSNSしかないと言い、自伝「In Full Color」も出版しますが、結局はニキチ・アマリ・ディアロという新しい名前で人生をスタートすることに。時代が彼女に追い付いていない、いつか人種を選べる時代になっているかも…そんな期待を胸にいまもどこかで生きています。
対する批判的な人たちの言い分はこうです。
その批判のトーンはばらつきがあります。どの人種を選ぼうと勝手だけど嘘を言うのだけはダメだというものから、アイデンティティとして誤魔化すのも許せないという人、さらにはこれは人種文化の盗用だと厳しく非難するものまで。加えて、レイチェルのやっていることは詐欺師以外の何者でもないし、あの脅迫状事件も自作自演の疑いがあるという意見も。
ヘイトクライムの被害者ぶるなという指摘はわかりやすいですが、ことさら激しい怒りを招いているのは黒人コミュニティです。黒人が苦労しながら乗り越えてきたプロセスをたどらずに、表面上の部分だけを良いとこどりしていると。これではレイチェルの成果は黒人の功績だと思っていたのに、それが違うとなるとその功績は全て白人だったからということになりかねない。裏切られた気分なのでしょう。とにかく批判は止む気配がありません。
文化盗用か、アイデンティティか
この終わりの見えない論争に、私なんぞが割って入る自信はこれっぽっちもないです。私は日本に住んでいる人種民族的にはマジョリティな立場ですからね。
批判側について、とくに黒人コミュニティの怒りはごもっとも。人種的に搾取され続けてきた歴史の重さは、幾多の映画でも描かれてきたとおり。その中で功績を上げた人物が「実は白人でした」となったら、それは梯子を外されたというか、完全に騙された気分にはなります。『ブラックパンサー』のラストで「このヒーローは本当は白人です」とテロップがでたら、大ブーイングどころじゃない、たぶんマーベル本社が倒壊してますよ。
そもそも本来の人種とは違う人種を名乗ることはどうしても詐欺的な印象を拭えません。日本でもアメリカ人を名乗って詐欺を働いた日本人がいて、吉田大八監督が『クヒオ大佐』という映画にもしていました。レイチェルが「私は白人の両親から生まれたけど、気持ちとしては黒人です」と最初から言っていればここまで問題は複雑化しなかったのですけど…。
一方でレイチェルの人種に対する主張は安易に他のマイノリティ(例えばトランスジェンダー)などと他者が勝手に重ね合わせて議論してしまいやすい穴があり、そこに落ちるとこの問題がなおさら面倒くさくなってきます。
本来はこういうものは構造が違うので一緒くたにはできないのですけど、これはあくまでレイチェルの問題ですから。
ただ、日本人らしい意見を言うならば、アメリカという国は「人種」という概念が“呪い”のようにのしかかっているなとも思いました。レイチェルが赤ん坊を出産して、その子の人種は母親が申告する母の人種と同一になるという州の決まりで、書類記入を悩むシーン。正直、人種というのを行政的な書類に書かないといけないということは必要なのか、まずそこに疑問を持ってしまうのですが…。
トランスレイシャルを思考実験する前に…
作中でレイチェルの人種認識を「トランスレイシャル」と表現されていました。これは「出生時に割り当てられた性別とジェンダー・アイデンティティが一致しない」という人を指す「トランスジェンダー」にならって、その人種バージョンとしてそういう言い方をしています。
それでも先ほども言ったようにこうした問題を勝手に「トランスジェンダー」の人種バージョンのように語るのはやはり不適切であり、この名称自体が論争を招きます。
加えて、トランスレイシャルという言葉は、本来、異なる人種の子を養子にすることを指す養子縁組界隈の用語であり(厳密には「transracial adoption」と呼ぶ)、そのコミュニティからは、本作のレイチェルのような人をトランスレイシャルと表現するのは誤解を招くのでやめてほしいと主張されていることも付け加えておきます。
こういうレイチェルのような人は今後どんどん現れていくのかは知りません。作中でも「黒人男性だけど、白人や女性的側面を持っていると感じる」と語る人物が映っていましたが、実際に公でレイチェルと同じく白人でありながら黒人だと宣言する人も他に現れています。
でもそうであろうとなかろうと、やはりこの世界は「人種差別」という問題を解決しないとダメでしょう。「トランスレイシャルはありうるのか?」という思考実験をするくらいなら、人種差別をどうやって無くしていくのかを考える。私たちが考えるべきはまずはそれです。
アメリカには奴隷制度に因んだ人種の定義に関するかなりややこしい歴史があります。人種は生物学的に定義はできず、現実では社会的な観点で決められてきました。今の人種は人種差別を前提とした認識になっており、人種差別を語らずに人種は語れません。
人種とはそういうものなのだと再確認するドキュメンタリーでした。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 72% Audience 61%
IMDb
6.2 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)The Rachel Divide
以上、『レイチェル 黒人と名乗った女性』の感想でした。
The Rachel Divide (2018) [Japanese Review] 『レイチェル 黒人と名乗った女性』考察・評価レビュー