不在の人々の声を視る…映画『家族を想うとき』の感想です。前半パートはネタバレなし、後半パートからネタバレありの構成です。
製作国:イギリス・フランス・ベルギー(2019年)
日本公開日:2019年12月13日
監督:ケン・ローチ
家族を想うとき
かぞくをおもうとき
『家族を想うとき』あらすじ
イギリスのニューカッスルに暮らすターナー家。フランチャイズの宅配ドライバーとして独立した父のリッキーは、多忙な現場で時間に追われながらも家族を養うため懸命に働いている。妻のアビーもまた、パートタイムの介護福祉士として時間外まで1日中働いていた。家族の幸せのためを思っての仕事が、いつしか家族が一緒に顔を合わせる時間を奪い、二人の子どもとの間にも亀裂が…。
『家族を想うとき』感想(ネタバレなし)
労働者を可視化してきた84歳
私たちの社会を支えているのは偉そうにふんぞり返っている政治家ではありません。私たち労働者です。しかし、労働者の存在はときに可視化されないことがあります。
例えば、コンビニやスーパーマーケットで働いているレジの人たちは、まあ、可視化されやすい部類にいます。でも、そのレジうちの人がどれほど立たされて仕事しているか意識することはあまりないです。私たちがレジうちの人と接するのはせいぜい数分だからです。別に座って仕事してもらってもいいはずなのに…。
アプリでパパっと頼めば店に買いに行ってデリバリーしてくれるサービスはとても便利です。ネットショップで注文すれば早ければその日のうちに届く。これも快適です。
世の中は日に日に利便性が向上しています。しかし、こういう利便性の裏には可視化されていない労働者の酷使が潜んでいます。私たちはそれを“見なかったふり”することが多いもの。
2020年に猛威を振るったコロナ禍は、医療従事者の激務を私たちに可視化しました。労働に見合った報酬を得られないどころか、ボーナスをカットされ、理不尽に責められ、酷い目に遭う医療関係者。さらに医者や看護師はまだ注目されるからいいですが、病院を支える機材整備者や清掃員など影のスタッフは見向きすらもされません。
こうした目に見えない労働者の存在をずっと可視化するべく尽力してきた、かれこれ84歳になる映画監督がいました。
それがイギリスの巨匠“ケン・ローチ”監督です。
“ケン・ローチ”監督の作家性は常に一貫しており、主に労働者階級の人たちにスポットをあて、社会的不正に苦しむ姿を映し出してきました。決して大衆的エンタメに迎合することなく、映画界の商業的市場主義にも批判の目を向け、映画内外で“持たざる者”の隣に立ちます。
『ジミー、野を駆ける伝説』(2014年)を最後に映画界からの引退を表明していた“ケン・ローチ”監督が、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)でカムバックを果たし、カンヌ国際映画祭で2度目のパルム・ドールを受賞したのも必然だったのかもしれません。
なぜなら今の社会は新時代の構造によってますます格差が拡大しているからです。だからこそこの現代には“ケン・ローチ”監督が必要だ…そう実感させられます。
その“ケン・ローチ”監督の最新作『家族を想うとき』は、前作に続く精神を持った一作です。監督自身も「companion piece」と表現するとおり、同じくニューカッスルを舞台に、社会のどん底から抜け出すべく頑張っているのにその動作が仇になってさらに沼にハマってしまう、本当に息が詰まる物語が展開されます。
しかも、今作『家族を想うとき』は配送業者を題材にしているので全世界的に(もちろん日本も)通用するものであり、観ていると言葉にできない“いたたまれない”感情が沸き上がると思います。それは「あ~これは自分にも関係のある問題だな…」という自省のような思いでもあり、同時に自分も同じじゃないかという怖さでもあり…。
なんというか、リアルな社会派ドラマなのに、反転して「ホラー」にも思えてくる…そんな作品です。
『家族を想うとき』もカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されましたがとくに受賞には至りませんでした。しかし、評価は高く、やはり“ケン・ローチ”監督の力を本作でもじゅうぶんすぎるほど感じることができます。
鑑賞して気持ちのいい映画ではありませんし、賑やかな気持ちにもなりません。それでも本作すらも見て見ぬふりをするならば、本当に救いようがないことになってしまうと思います。ぜひ映画でいろいろ感じ取ってください。それがこの社会を変える始まりになるのですから。
オススメ度のチェック
ひとり | ◎(名監督の作品は観て損なし) |
友人 | ◯(シネフィル同士で語り合おう) |
恋人 | ◯(晴れやかな映画ではないが…) |
キッズ | ◯(社会問題を学ぶためなら) |
『家族を想うとき』感想(ネタバレあり)
家族のために働いているはずなのに…
イギリス、ニューカッスル。リッキーは個人面接を受けています。
いろいろやってきたと語るリッキーは、建設関係が多いとあれこれと職業経歴を述べ、どれも環境が過酷で仲間もダメな奴らだったので、自分ひとりで働くことにしたと説明。「生活保護は?」と聞かれますが「いや、俺にもプライドがある」と答え、「立派だな」と褒められます。
そしてマロニーという目の前に座る男は仕事の詳細について説明し出します。
「うちは君を雇うわけじゃない。オーナー制度だ」「君はうちと契約して運送サービスを提供する。雇用関係も売り上げ目標もない、あるのはルールだ」「支払いも給料ではなく運送料」「タイムレコーダーもない」「君はフランチャイズの独立ドライバー」「勝つのも負けるのもすべて自分次第」
「できるか?」と最終確認を促され、「ああ、長い間こんなチャンスを待ってた」と即決するリッキー。彼にはおカネが必要でした。なぜなら家には妻と子どもが2人います。マイホームを持つ夢に向かって前進するには、これが一番である…そう考えていました。
配送には専用の車(バン)が必須であり、どの車にするか悩みます。レンタルか、購入するか。購入の方が総合的にはお得だと判断し、サイズの違う車種を見て回ると、デカイのを勧められます。これがあればたくさん荷物を積めるし、大きい荷物にも対応できて有利だ、と。しかし、価格はもちろん高く、躊躇しますが…。
リッキーは、パートタイムの介護福祉士として働き詰めで夜遅くに車で帰宅してきた妻アビーを待ち、新しい配送の仕事を説明します。「1日14時間週6日働けば、この車でも大丈夫だ」と車の購入に太鼓判を押しますが、車の手付に1000ポンドいるため、アビーの使っている車を売ることを提案。アビーは乗り気ではなく、「私の仕事も車がいるし、バスでは無理だ」と言いますが、家族のためだと訴えられると…。
さっそくリッキーの仕事の日が来ました。出発前に渡されたのはこの仕事で最も大事な「スキャナー」という機械。とても高価で失くすと弁償になりますが、荷物の確認・サインなどあらゆる業務の要です。配達時間に遅れないことを念押しされます。
発送所で荷物を積んでいると、同業者が教えてくれて、尿瓶としてペットボトルをもらいます。リッキーは、からかってるのかと相手にせず、そのペットボトルを車の荷台に投げ捨てました。
初の仕事は慣れないことばかり。違反駐車で切符をきられそうになったり、届け先の人と雑談から口論になったり…。
一方のアビーも、バスで向かった訪問先の相手に時間が忙殺されていきます。1日に何人もの人の家に行かなくてはならず、朝7時半から夜9時まで、交通費は自腹です。
アビーはバスで移動中に長男のセブや下の娘のライザに電話し、あれこれと心配しながらメッセージを残します。こんな一方通行な会話が日常です。
セブは夜に仲間と連れ立って出ていき、スプレーで落書きをするのを日課にしていました。ある日、学校にも行かずに落書きに興じているのを発見され、父リッキーにも責められることに。「可能性を潰すな、負け犬になる」と責する父親に対して、「父さんみたいな?」と反抗的な態度をとるセブ。
さらに14日間の停学処分をくらったことで、リッキーは堪忍袋の緒が切れて激怒。スマホいじりをやめないセブに業を煮やし、スマホを取り上げてしまい、怒ったセブは出ていってしまいました。そしてそのことをめぐり、妻アビーとも口論。家族はどんどんバラバラに引き裂かれてしまいます。
家族のために働いていたはずなのに…。
あまりに残酷すぎる現代の労働
“ケン・ローチ”監督はドラマが重視されるとはいえ、題材に対して非常にドキュメンタリーチックに作ることに定評があり、『家族を想うとき』もとても生々しい労働の描写が続きます。
本作のストーリーは具体的なベースがあるわけではないですが、実際の配送業で働く人々の体験を集約しながら作り上げていったものだそうです。
また、本作でリッキーを主演した“クリス・ヒッチェン”も、配管工として20年以上働いた自営業者であり、40歳を過ぎてから演技の道へ進み、本作のオーディションで見事に合格した経緯があります。そうした現場を生で知る人だからこそのリアリティが映画に説得力のある現実味を与えているのでしょう。
リッキーのあの労働形態はいわゆる「ギグ・エコノミー」と呼ばれるものに近いです。これは、インターネットを通じた単発の仕事でお金を稼ぐような働き方やそれで成り立つ経済システムのことを指します。インターネットやアプリの普及は就職のアクセスを増やしたかのように見えますが、実際は雇用とか自営業とかいったものすら形骸化させ、労働者を責任不在で働かせることを可能にしてしまう。私はもうこれは新時代の奴隷のようなものだと思います。
アビーの介護職もそうですが、本来は専門的な管理のもとでコントロールされるべきなのに、労働者の自己責任のもと、全ての負担が圧し掛かる。耐久レースのような構造になる。こうした労働の惨状の残酷さをまざまざと見せつけるのが本作です。
しかも、リッキーもアビーも本作を通してずっと見ていれば真面目に働いているのはよくわかるのですが、多くの世間の人々は彼や彼女たちの一部しか視認していないので、「不真面目だ」などとクレームにさらされることもある。この理不尽さも本作ではよくわかりますよね。加えて本作ではその描写はないですけど、最近は労働の全てが逐一レビューされてしまう時代ですから。ドラマ『アップロード デジタルなあの世へようこそ』のように「星いくつ」で評価されるのはときに無情です。そういうのは映画批評みたいな世界だけにしてほしいものです。
「昔の父さんに戻ってくれ」
そんな労働を正当に評価されない大人たちですが、それは子どもからの評価も同じ。『家族を想うとき』は2人の子どもの目線で別れています。
16歳のセブは明らかに報われない労働に身を投じている親の後ろ姿を見て、将来に絶望しており、かなり自暴自棄になっている状態です。そのストレスをグラフィティ・アートと称する落書きで発散するだけ。
ただ、セブを不良と片づけることはできず、あの落書きだって彼なりの社会に対する声なのでしょう。『わたしは、ダニエル・ブレイク』ではまさに主人公が公共物に描く文字の落書きで社会への不満を主張するシーンがあります。それとやっていることはそう変わらないと言えます。
セブにとっては親も社会を構成する要素。親を批判するということは、社会を批判するのと同様と考えてもいいはずです。
一方でライザは一見する元気そうで、リッキーも優等生としての娘を評価しています。あの一緒に配送に行くシーンなんかは微笑ましいです。
しかし、現実はそうではない。ここが演出として上手いなと思うのですが、ライザもまた家族の歪みの悪影響をダイレクトに受けており、苦しんでいることがさりげなく示されます。夜中にライザはセブが出歩いていることや、写真へのバツマークの落書きに気づくわけですが、それはライザが眠れていないことの証。ライザが親のやり残した家事のフォローに気を遣い、とくに子どもらしく友人と遊んだりしている光景は一切ないのもツラいところ。あの一人で食事を用意し、一人で自撮りするのが、まさにライザの現実を一番直視させてきますね。
そのライザの苦悩が終盤の「鍵を盗ってしまう」ことに繋がる。家族のためを思って働いたことがマイナスの結末を生む…これを幼いライザ自身も引き起こしてしまうのがなんとも…。
アイテムの使い方が物語を深める
『家族を想うとき』はアイテムの使い方も本当に巧みだなと感心させられます。
例えば、スキャナー。リッキーの配送業に欠かせない機械ですが、あのスキャナーはセブのスマホと重なることになります。セブのスマホを怒りに任せて没収してしまったとき、妻アビーに「あれにはセブの人生が詰まっていた」と諭されますが、それはリッキーにも心当たりがあるわけです。自分もスキャナーという機械に望む望まない関係なしにコントロールされている。あれがないと何もできない。
機械と言えば、電話も忘れてはいけません。アビーは電話をして留守電メッセージに子どもたちへのメッセージを残します。それしかできません。逆に介護先の相手とは1対1で会話する機会が多く、それが虚しさに繋がってもいきます。その電話が終盤、病院に夫といるアビーがマロニーに怒鳴りつけるシーンでも登場します。今度の電話は一方的な伝言ではなく、相手にぶつける言葉です。
尿瓶の使い方も良かったです。最初はこんなものとバカにしていたリッキーですが、それを使ってしまう事態になったとき、それは彼にとっての尊厳を捨てた瞬間でもあります。同時にその尿瓶使用の直後、暴力に襲われます。尊厳が奪われた人間の末路を視覚的に見せつける苦しい場面です。そして、あの襲ってきた相手も“持たざる者”の末路でもあり、そういう意味では二重に追い打ちがあります。
そして検査のためにボロボロな姿で病院に向かったリッキーとアビーの夫婦。その二人の周囲には職業などは違えどおそらく同じ社会の理不尽さに苦い経験をしているであろう人たちが大勢います。待っても待っても自分の番が来ない状態で…。ここで初めて物語が主人公家族以外に拡張するあたりも見せ方が巧妙だなと思いました。
バンは主人公家族にとっての最大限のマイホームと言えます。4人で無理やり乗って夜中にアビーの介護先に急遽向かうシーンの楽しそうな姿が印象的。それがまるで『自転車泥棒』(1948年)のように主人公を振り回していく。映画のラストもバンで終わり、そこには家族の姿はない。希望と絶望を同時に体現するアイテムとしてあれ以上のものはないですね。
あとはやっぱり不在票。本作の原題は「Sorry We Missed You」。不在票に書かれた「ご不在につき失礼」といったニュアンスの言葉ですが、これの活かし方が見事です。犬に父が追われた家でライザが書く不在票のメッセージ、父が最後に家に残す不在票のメッセージ。それらは可視化されていない人からのせめてもの存在の痕跡であり…。
“ケン・ローチ”監督は『家族を想うとき』でも私たちを映画的マジックでアジテートさせてきます。労働者に感謝ですね…みたいな綺麗事ではなく、もっと社会を変えるための実践的な行動(選挙に行くとか、声を上げる労働者を支持するor一緒に声を上げるとか、不正な仕組みを批判するとか)をしていきたいですね。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 88% Audience –%
IMDb
7.6 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019 ソーリー・ウィー・ミスド・ユー
以上、『家族を想うとき』の感想でした。
Sorry We Missed You (2019) [Japanese Review] 『家族を想うとき』考察・評価レビュー