「母は強し」で片づけないで…映画『タリーと私の秘密の時間』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ(2018年)
日本公開日:2018年8月17日
監督:ジェイソン・ライトマン
タリーと私の秘密の時間
たりーとわたしのひみつのじかん
『タリーと私の秘密の時間』あらすじ
何でも完璧にこなしてきたマーロだったが、3人目の子どもが生まれたことで限界を迎えて疲れ果ててしまう。そんなマーロのもとに、夜だけのベビーシッターとしてタリーという若い女性がやってくる。自由奔放で知的な女子のタリーだったが、仕事は的確で、悩みも解決してくれ、マーロはそんなタリーと絆を深めることで次第に元の輝きを取り戻していくが…。
『タリーと私の秘密の時間』感想(ネタバレなし)
母親は強いわけではない
「母の日」などの際、母親を持ち上げるときによく使われるフレーズがあります。「母は強し」だとか、「母は偉大だ」とか、そういう母親を神聖視するような、はたまたまるでスーパーパワーでもあるかのような言い方です。
でも実際は違います。確かに生命を産み落とすことができるのは唯一無二の母親の特殊な能力でしょう。しかしそれを除けば、あとは他の人と何も変わらない普通の人間です。苦しさを感じる、辛くて涙を流す、怒りを爆発させる、失敗に凹む、何もかも嫌になる…そんな当たり前の感情を持っている、完璧ではない存在です。
にもかかわらず、「母は強し」などという過剰な言葉で(悪気はなくとも)褒めたたえてしまうのは、当の母親にしてみれば重圧にしかなっていない場合もあります。だからこういう言葉の使用には本当に慎重にならないといけないのですが、ついつい世の中では多用されがちです。私も何の気なしに口にしてしまったこともあるし、深く反省しないと…。
では母親のリアルな姿を創作物の世界ではしっかり描けているでしょうか。例えば、映画では「母は強し」のイメージがそのまま投影されてしまい、過剰に美化or強化された母親像が目立つものも少なくありません(そしてそれが目指すべきお手本になって、プレッシャーが増すという負の連鎖…)。そんな中、母親の生々しい実像を映し出した映画も存在します。そのひとつが本作『タリーと私の秘密の時間』です。
本作は3人の子を持つ母親とそのベビーシッターの友情を描くというのが表面上の主軸なのですが、宣伝から受ける作品の印象と実際の中身は大きく異なります。実はかなりネタバレ厳禁な物語でもあって、核心的なことは何も言えないのですが…。少なくとも「コミカルでハートウォーミング」などという、そんなタイプの作品ではありません。
むしろ(あえて書きますけど)母親として痛々しさ・弱さ・醜さといったリアルな素の姿がこれでもかと充満しており、母親経験のある人はあまりにもシンクロしすぎてギュッと息が詰まるし、動揺が止まらないかもしれません。逆にこれから母親になろうとする女性であれば、ちょっと怖くなってくることもあるでしょうし、男性であれば、考えてもみなかった母親(妻)の現実に言葉を失うことにもなりえます。
『タリーと私の秘密の時間』を観れば「母は強し」なんて二度と口にできません。
そんな強烈な母親映画を生み出したのが“ジェイソン・ライトマン”監督です。彼は望まない妊娠で出産をすることになったティーンを描いた『JUNO ジュノ』(2007年)や、周りに置いて行かれ大人になり切れていない自分に劣等感を抱えた女性を描いた『ヤング≒アダルト』など、女性を主体にした生っぽい作品を描くことが多いのですが、『タリーと私の秘密の時間』は完全にそれに連なる系譜の一作。
脚本は元ストリッパーという異色の経歴を持つ“ディアブロ・コーディ”で、『JUNO ジュノ』『ヤング≒アダルト』でも脚本を手がけたので、なおさら系統としてまとめたくなります。
ただ本作最大の功労者はやはりこの人かもしれない。それは製作と主演をつとめた“シャーリーズ・セロン”です。今やプロデューサーとして多大な活躍をしている“シャーリーズ・セロン”ですが、『タリーと私の秘密の時間』での女優としての身の捧げ方は尋常ではないです。観ればわかりますが、今作の役作りのために大幅に体重を増やし、あの母親なら誰しもが嫌でも体験することになる体型を再現。元の体型に戻るのに1年半かかったらしいですが、この本気度は感服するしかないです。俳優はどうしてもアクション面で体を張ると評価されやすいですが、こういう体の張り方はあまり注目されづらい部分もあります。でもこの“シャーリーズ・セロン”は彼女のキャリアの中でも最大級にリスキーなベストアクトだったのではないでしょうか。
他の俳優陣は、後に『ターミネーター ニュー・フェイト』で抜群の存在感を発揮し、カルト的なファンを生み出した“マッケンジー・デイヴィス”。『タリーと私の秘密の時間』でも本当に素晴らしい名演で夢中になった人も多いはず。
そして、『死霊館』の“ロン・リビングストン”や、『パドルトン』で脚本家としても活躍する“マーク・デュプラス”なども顔を揃えます。
『タリーと私の秘密の時間』を「母親に感謝するための映画」なんて言いたくない、「母親からの苦悩の叫びを伝える映画」として受け取ってほしい…そんなふうに思う一作です。
オススメ度のチェック
ひとり | ◎(親であれば突き刺さる) |
友人 | ◎(議論のネタになる) |
恋人 | ◎(育児を語り合う機会に) |
キッズ | △(ティーンには見せたい) |
『タリーと私の秘密の時間』感想(ネタバレあり)
タリーが家にやってきた
マーロは息子のジョナにブラッシングをしていました。腕や足に、全身くまなく施していきます。ジョナは発達障害の傾向があり、しかし医者に何度も診せるも正確な病気はわからず、やむを得ずセラピストに推奨された「Wilbarger Protocol(感覚統合療法)」を試しているのでした。
翌朝、本がないと騒ぐ幼い娘のサラの金切り声にうんざりしつつ、子どもを学校に送り届けるために車を走らせます。しかし、駐車場につくと「いつもと駐車場が違う」と後部座席のジョナが癇癪を起こし、前の運転席を足でガンガン蹴ってきます。
マーロは3人目の子どもをお腹に宿らせていました。もうかなりお腹は膨らんでおり、出産予定日もそう遠くはありません。駐車場も妊婦としてなるべく入り口近くに停めたいところです。けれどもジョナはそんなことはわかりません。座席ごしに感じる背中への蹴りの衝撃を受けつつ、グッとこらえるマーロ。
学校では校長からジョナはクラスについていけていませんと報告を受けます。「専門の教師を雇うのはどうですか」と提案されますが、それは自腹で負担しなければならず、そんな余裕もないマーロは愛想よく振る舞って帰るしかできません。
ある日、夫のドリューと一緒に兄であるクレイグの家に食事に招かれます。クレイグ家は裕福であり、妻のエリスとその子どもたちとともに快適に暮らしていました。「3人目はラクよ」とエリスは何気なく語ります。一方で内心では心配しているクレイグは、ナイトシッターを紹介してきます。夫のドリューは仕事の関係で家をあけることが多く、育児はもっぱらマーロが担ってきました。クレイグ家もシャスタというシッターがいます。しかし、マーロは「他人を家にあげるなんて」と難色を示しますが、「お腹の子は予定外なんだろ。前回の二の舞は嫌だろう」「頑なになるな、電話しろ」とサポートを強く勧めるのでした。
マーロは無事に出産しました。元気な女の子で、リアと名付けられました。
その日からマーロの日常はさらにハードワークとなっていきます。おむつを替え、ミルクを用意し、泣く子をあやし、母乳を与え、家事をし、他の2人の子の面倒を見て…。
その忙しさの中、また学校に呼ばれるマーロ。校長から「ジョナは転校した方がいい」とやんわり提案されてしまいます。「浮いている」という言葉にカチンときたマーロは、「知的障がいがあると正直に言いなさいよ!」と怒鳴り声をあげ、「ただ合わないだけです」と弁解する校長を無視して怒りの形相で部屋を出ます。
車に戻ると、泣き止まない赤ん坊の声だけが車内に響き、マーロはクレイグにもらった連絡先の紙に手を伸ばします。
家に夫が帰ってきます。呑気に赤ん坊のリアに話しかける夫に、ナイトシッターを頼んだことをマーロは伝えました。
夜、ノックが聞こえ、シッターが訪問してきました。名前はタリーというそうですが、あまりにも若い年齢に見える見た目にマーロは驚きます。「どうすすめるの?」と初めてで戸惑っていると、タリーは非常に慣れた振る舞いで、「あなたの世話をする」と言います。「赤ちゃんでは?」と聞くと、それは同じことであなたの一部だといともあっさり説明。「2階で休んで」とただ言われ、大人しく従うことに。
夫は2階の部屋でベッドに座り、ヘッドホンでTVゲームをしています。その夫に「変な子だった」と呟くマーロ。
その日からマーロの日常は変わりました。タリーはまるで自分のことを知り尽くしているように親身で、そのうえ知的で博識に富み、全てにおいて完璧でした。マーロとの何気ない会話は楽しく、鬱屈した気分は一気に晴れやかになっていきます。
そんなタリーにはある秘密があり…。
育児を労働として描く
『タリーと私の秘密の時間』を観てまず驚いたのは出産や育児をことさら美化していないことです。前半はそのリアルな描写が際立ちます。
一般的に妊娠は「おめでた」という日本語表現があるように“おめでたいこと”として無条件に扱われます。でも本作ではあの3人目の妊娠はまったくおめでたさが欠片もありません。そもそもどうやら望んでいない妊娠だったらしく、当の夫婦は3人目の妊娠をあまり認識しないようにしているようでした。
そしていざ出産。赤ん坊が生まれた瞬間の場面というのはたいていの映画では感動的シーンとして盛り上がるものですが、今作のあのマーロの出産直後の表情。妊婦の苦しみから解放されたと同時に、今度は育児の苦しみがやってきた…まるで厄介な業務の発注が舞い込んできたような…完全に心が死んでいる姿。あのシーンは本当に強烈ですね。
で、その業務が開始するわけですが、この育児パートを連続で見せていくくだりも、極めて事務的な描写にとどめており、地味ながら衝撃的。なにせ赤ん坊を可愛い生き物としては一切描いていないのですから。
言わずもがな“シャーリーズ・セロン”渾身の肉体による視覚的インパクトも絶大です。
やがてマーロの心が折れます。ポキッと、あっけなく。あの車内での彼女の心が折れた瞬間のシーン。車内という極めて密閉された個人空間で起きるというのも演出として上手いところです。
タリーの正体の伏線は…
それでもって『タリーと私の秘密の時間』のオチの話。結局、ブルックリンに遊びに行った帰り道の車で眠気によって運転を誤り川に落下。病院でマーロの旧姓がタリーだと判明し、あのシッターの正体が判明します。マーロはシッターをそもそも雇っておらず、夫には雇ったふりをしているだけでした。タリーはマーロの空想のシッターでした。
このオチは唐突に見えますが意外にも振り返ると伏線だらけです。
まず学校に行った際、軽食店でヴァイというかつてのルームメイトに出会います。この過去を思い出す刺激が昔の自分を投影したタリーという架空のシッターの想像につながります。
そして家では夫のドリューはTVゲームをしているのですが、それはおそらく彼も彼で仕事の疲れから現実逃避するためなのでしょう。それは妻マーロがバーチャルなシッターに現実逃避することと手段としては同じです。
もちろんタリーがマーロを知り尽くしており、タリーが博識なのも、もともとはマーロが英文科の学歴があるほどに優秀だったという、そういう一致性があるのも正体のヒントにつながっています。会話が弾むのは当然です。自分自身ですから。
極めつけはタリーがウェイトレス衣装で夫と体を重ねるシーン。さすがにあそこで「あれ、変だぞ?」と気づく観客も多いでしょう。あそこの場面は映画として演出がやや飛躍しすぎなのですが、ゾッとするほどの病みっぷりを見せる感じは個人的には嫌いじゃないかな。一応、「ジゴロ」というセックスライフ指導のリアリティ番組をマーロが観ているのがフラグにはなっていますが…。
最終的に、ルームメイトと揉めたというマーロ(タリー)の後悔が終盤の事件の引き金になっていきます。つまりマーロの人生のボタンの掛け違いは、妊娠でも夫との結婚でもなく、あのルームメイトから始まっているということに。クラブのトイレでの乳房が張って痛みに呻きながら母乳を出すシーンは、そのまま彼女の後悔を外に分泌させているとも捉えられなくもないですね。
そんな極限状態に陥っている妻に気づかなかった夫ドリュー。彼の衝撃がラストに全部圧し掛かってくる展開も見せ方が上手いです。彼は極端にダメな夫(父)ではありません。仕事もするし、宿題も見るし、ランチも作るし、子に愛情を見せている。それだけでも世の有害でしかない男と比べればはるかにマシ。でもその中途半端に“良い夫”・“良い父”というのは、夫を責めることもできなくなってしまい、マーロを苦しめることに。こういう夫(父)描写というのも育児映画では斬新かなと思います。
映画で描かれない本当に必要なもの
『タリーと私の秘密の時間』は私もとても素晴らしいと絶賛したい育児・母親映画なのですが、あえて苦言を言うなら、ラストの真実がわかって以降の展開がかなり強引にまとめているのがあれかな、と。エンディングもブラッシングで閉幕するのは好きですけどね。
マーロは要するに産後の精神疾患になってしまったのですが、こういう症状は実在していて、妄想性障害なども引き起こすので、あの作中のような“架空のシッター”もあり得ないわけではないです。
それに対して本作ではあの架空のシッターの存在がマーロにプラスの影響として生き方のヒントを与えた…ように見える描かれ方をしています。映画を観た人の中には、ああいうタリーみたいなシッターがいれば母親はラクになれると思うかもしれません。
でもそれはちょっと危険な認識で、実際に専門家の中には本作の描き方はあまり良くないと指摘する声があります。
あのタリーはマーロにとっての昔の自分の投影であると同時に、脳内で思い浮かべる理想の母親像でもあります。だから完璧に育児や家事をこなせるわけで(赤ん坊を過剰に可愛がったりも…)。しかし、それはやはり危うい憧れであって、自分を苦しめることになります。だからあのタリーは本当はマーロにとっては呪いみたいなものなのかな、と。
本来であれば産後の精神疾患に対してはしっかりとした医療による治療を継続的に受ける必要があります。心の持ちようでどうにかなるわけではないです。夫が改心すればそれで済むものでも当然ありません。
本作を観て、その点だけは誤解しないようにしないとなと思います。
同じく母親映画である『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のような最底辺の貧困層ではないにせよ、『タリーと私の秘密の時間』も社会的なサポートを全然受けられないことは事態を泥沼化させていました。
出産や育児は母親や家庭だけで完結するという固定観念は捨てて社会で取り組まないといけない。そうじゃないとあの生物至上最大の難業(子育て)はクリアできない。そんなふうに考えていきたいものです。母親はあくまでその中のひとりの労働者に過ぎないのですから。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 86% Audience 74%
IMDb
7.0 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
関連作品紹介
母親を題材にした映画の感想一覧です。
・『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』
・『ルーム』
作品ポスター・画像 (C)2017 TULLY PRODUCTIONS.LLC.ALL RIGHTS RESERVED.
以上、『タリーと私の秘密の時間』の感想でした。
Tully (2018) [Japanese Review] 『タリーと私の秘密の時間』考察・評価レビュー