僕は普通じゃない…映画『ワンダー 君は太陽』の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ(2017年)
日本公開日:2018年6月15日
監督:スティーブン・チョボウスキー
ワンダー 君は太陽
わんだー きみはたいよう
『ワンダー 君は太陽』あらすじ
10歳の少年オギーは、生まれつきの遺伝子の疾患により、人とは違う顔をもっていた。幼い頃からずっと母イザベルと自宅学習をしながら家族と一緒に家で過ごしてきたオギーは、初めて学校へ通うことになる。
『ワンダー 君は太陽』感想(ネタバレなし)
こんな経験ありませんか
自分語りをします。少しお付き合いください。
昔、こんな出来事がありました。私はある建物でスタッフとして働いており、2階にいたときに、ひとりの男性が階段を使って1階に降りようとしていました。その2階には大勢の人が食事をしていて、ほとんどが外国人。1階に降りようとした男性も外国人です。これだけなら何も問題ありません。たとえ外国人でも異国の階段くらい普通に降りられますから。問題はその男性が明らかに足が不自由そうで杖をついていたことです。階段を降りるのは大変そうだと他者から見てもわかります。ここにはエレベーターもエスカレーターもありません。私は一瞬迷いながらも、その男性に駆け寄り、「大丈夫ですか」と慣れない英語で話しかけ、サポートしようとしました。その男性は「いや~、この足が動かんもんでね」くらいの冗談っぽいニュアンスでやんわり返答してくれました。結局、私は階段を降り切るまでその男性の横で見守ることをしただけでした。
この出来事は私の頭の中でモヤモヤを残しました。「サポートのために駆け寄ったのは本当に良いことだったのか」と。適切な配慮なのか、余計なお世話なのか、はたまた完全に間違った対応なのか。正解なんてあるのかもわかりませんが、少なくとも今の私はあのときの行動をポジティブには捉えていません(ほかにもいろいろな諸事情もあって)。
自分語りは以上です。
でも、こんな似たような経験は多くの人が人生でひとつやふたつしているものだと思います。何が相手のためになるのかわからず、距離を測ろうとして余計によそよそしくなる。とくに相手が自分とは違う、いわゆる「障がい」を抱えていればなおさら。意識しないのもマズいだろうし、意識しすぎるのもマズい気がする。そんなジレンマ。
今回の紹介する映画『ワンダー 君は太陽』を鑑賞した時、その記憶が思い出されたのでした。
本作は、生まれつき顔の一部が奇形の状態になっている男の子の物語。これは「トリーチャーコリンズ症候群」という実際に存在する病気で、研究では50000~10000人あたり1人の新生児に見られるものだそうで、先天性の遺伝子疾患です。患者の発育に合わせて顔の矯正手術を繰り返すなどしなくてはなりませんが、無論、その顔と付き合いながら人生を歩むことになります。他ではない苦労が立ちはだかるのは言うまでもありません。
ただ、本作はその「障がい」をもった子の苦労を描くだけではないのが面白いところ。正直、私も本作を鑑賞する前は「この子がいろいろな壁にぶちあたりながらも成長していく、よくある感動系ストーリーなんだろうな」と思っていました。観終わった後なら言えます。私が間違っていましたと。ナメてました、すみませんと。
ネタバレになるので詳しくは言えませんが、本作は、全方向に「配慮(皮肉ではなく本当に良い意味の言葉)」の行き届いた、緻密なストーリー&キャラクターデザインが素晴らしいです。それは単に「あ~感動した(すっきり)」という観客の満足のためではなく、ちゃんと観終わった後に「周りとの付き合い方を見つめ直そうかな」と思わせる力があることにもつながっていると思います。
万人にオススメしやすい映画です。人間関係に悩んだとき、前に進む方法がわからなくなったとき、気軽にこの映画を観てみてください。
『ワンダー 君は太陽』感想(ネタバレあり)
感動ポルノを乗り越えるには
この手の「障がい」を扱った映画はごまんとあるわけですが、そのとき必ず問題になるのが「感動ポルノ」です。要するに観客を感動させるためだけの要素として「障がい」を利用していることをいい、結果的に「障がい」の実態が反映されていないことにもなります。この感動ポルノは、障がいを抱える当事者たちからも批判のまとになりやすいですし、映画批評家からも欠点として挙げられやすいポイントです。私もたまに感動ポルノ的だとあんな作品やこんな作品に苦言を呈することもしばしば。
しかし、じゃあ、どうやったら感動ポルノではなくできるのですか?と言われると困ります。
いや、もちろん、安易に感動させないつくりにすればいいのですけど、それだと映画としての面白味は欠けるのも問題。障がいを普通に描くべきなのはわかりますが、映画なのである程度ドラマ性が設定されますし、なにか感情を動かす仕掛けが必要です。つまり、映画で「障がい」を扱うときは、感動のためだけの素材として使ってはダメだけど、普通すぎると“映画としての”面白さが足りないから、何か味をつけなくてはいけない…という複雑なバランス感覚が求められるんですね。作り手は大変だなぁ(他人事)。
例えば、『シェイプ・オブ・ウォーター』のような作品はその問題をクリアしやすい部類です。SF要素がありますから、「障がい」ありきで頼らなくても勝負できます。
でも、SF要素のないリアルな実生活を舞台にした映画はその手が使えません。困ったものです。
この映画製作上の悩みこそ、私がこの記事の冒頭で“自分語り”をした「配慮はどこまでが適切なのか」というジレンマにも重なると思います。
そこで本作『ワンダー 君は太陽』は、この感動ポルノ問題に対してひとつの“解”を見せているのが、素晴らしいと思った最大のポイントです。いや、“解”というか、感動ポルノ自体をメタ的に風刺している感じでしょうか。
太陽ではなく銀河系の話
「僕は普通の10歳の子じゃない。普通のことはするよ。でも僕は普通の子には見えない」
そんなオギーの語りで始まる本作。顔の問題で基本的に母イザベルの自宅学習を受けてきたオギーは、作中の翻訳で「5年生」となった機会に学校に通うことになります(州にもよりますが、アメリカの教育制度「K12」ではちょうど5年生が区切りでスタートになることが多いです)。
当然、好奇の目で見られるオギーは、イジメられたり、避けられたりで、孤立。この状況をオギーのユニークな語りで見せていくくだりが続きます。スター・ウォーズの好きなキャラは「ボバ・フェット」と発言したり(ずっと顔がヘルメットで隠れているキャラです)、ちゃんとオギーの性格が垣間見えていくのは愛らしいですし、可哀想でもあります。
学校という外の世界に飛び出したことで「なぜ僕は醜いの?」と泣きながら自分の境遇に再び悩むオギー。
ここで感動した人には申し訳ないですが、正直、私はこの調子で今作が物語を進めるならあまりノれないなと思っていたわけです。どうしても感動ポルノという言葉がちらつきます。
しかし、この映画の製作者はそんなことも計算のうちでした。むしろ序盤はわざとらしい前振り。なんと、ここから物語はオギーの姉であるヴィアの視点に切り替わるのです。そして、オギーの同級生のジャック、ヴィアの同級生のミランダと視点が次々変わり、オギーを中心とした人間関係が当人の言葉で説明されていきます。作中にもあるように本作は「オギー(息子;サン;太陽)」を軸にした銀河系の物語。群像劇スタイルなんですね。
なるほど、こうきたか…! そんな風に納得してしまいました。
それぞれが抱える苦しさのジレンマ
というのも、そうすることで本作は安直な感動ポルノになりえません。
障がいを抱えたオギーが物語上担う役割が大幅に減りますし、「オギー=可哀想な子」という認識もひっくり返ります。
ヴィアが語る“普通の”ヴィアの悩み。「私は世界一手のかからない子」だと言われ、それでも「1度でいいから私を見てほしい」と本音を心の中でぼやく、“正しい姉”であろうとするヴィア。祖母という真の理解者を失い、彼女もまた人知れず孤独を感じていました。
ジャックが語る“普通の”ジャックの悩み。親に学歴を期待され、重圧を感じているなか、障がいを抱えたオギーの登場によって、その子の“正しい友人”になってあげないといけないという新たなプレッシャーが追加されたジャック。ジャックもまた孤独です。
ミランダが語る“普通の”ミランダの悩み。家庭環境が良くないため、温かい家庭を築いている友人のヴィアの家族に憧れを持つミランダ。自分の支えだった他人の家族との関係を、ほんの些細な大人びた意地で切ってしまった彼女の「私が助けを欲しい」という言葉も孤独に消えます。
オギーはこの3人の悩みや孤独を理解しきれておらず、ときに厳しい言葉を浴びせます。作中でハロウィンの日、オギーがジャックの“裏切り”を目撃したことで吐いてしまったとき、なぐさめるヴィアに放ったセリフ…「ヴィアのイヤな一日と一緒にしないで」はかなりズルく刺さる言葉でした。オギー自身の境遇はもちろんわかりますけど、でも一歩間違えれば被害妄想になりかねない境界線を超えてしまうこともありうる。
だからといって「障がいを持っていない子」にも悩みがあるという話を自慢げに言いたいわけでもなく、あくまで「障がい」を普通に扱うことは、頑張りはしているのだけど、綺麗ごとではどうにもできない難しさもやっぱりあるのだという苦しさを感じさせます。
本作に登場するこれらの人物は良い子すぎると思うかもしれませんが、ただ「良い子」には良い子なりの苦しさがあるということを言いたいのだろうと私は感じましたし、その点は非常に共感します。
オギーは太陽なので、これらの人物の孤独の影を照らすこともできるし、逆に近づきすぎて火傷を負ってしまうこともある。それでも互いをできたら助け合えたらいいよね…そんな話。
本作のこれらの視点は『Love、サイモン 17歳の告白』や『ぼくとアールと彼女のさよなら』といった作品にも通じるものがありましたね。
みんなハッピーではないからこそ
このヴィア、ジャック、ミランダの3人以外にも、大人たちも内面に抱える複雑な苦しさが描写されていました。
一番わかりやすいのは母親のイザベルです。オギーのために人生の夢をあきらめ、全てを尽くして“正しい母”であろうとする姿。
あと、これはわかりにくいですが、教員たちも実はそういう問題性を抱えているのでは?と匂わせるものがありました。例えば、校長のトゥシュマン。オギーに初めて会ったときから「おケツ校長だ」と自分の名前で自虐してみせる彼ですが、名前や風貌からしておそらくユダヤ系なのでしょうか(ちなみに演じているのはユダヤ系の“マンディ・パティンキン”)。であれば、あの年齢ならいろいろな苦労を経験してきたはずです。
また、担任のアフリカ系のブラウン先生は、序盤の授業で「ウォール街で働いていて夢だった教師になった」と語ります。これも金融危機などの歴史的事実を鑑みると、いろいろあったんだろうなと察することができます。
一方、オギーをイジメる中心の子として描かれるジュリアンですが、最終的に悲しい結末を迎えます。あの描写は賛否分かれそうですが、私はこれでありかなと思いました。もし最後の賞の授与のあの場にジュリアンがいて一緒に拍手しているような「みんなハッピー」な展開だったら、私はこの映画の評価をワンランク下げていたかもしれません。親の介入によって本人の意図しないような対立によって引き裂かれ、しこりを残すというのは、そう綺麗事ではいかないという現実を示すもので、良かったんじゃないかなと。あの後に別の上級生のいじめグループが現れるのも良くて、つまり、いじめの構図はそう簡単になくならないけど、少しずつ仲間を増やして世の中を変えていこうという真っ当で地に足ついたメッセージだと思います。
話は飛びますが、演出も良かったですね。イザベルが論文執筆を再開するくだりのフロッピーからUSBメモリへと変わるアイテムの変化、オギーとジャックのゲーム「マインクラフト」での仲直り…いろいろ印象に残りました。
苦言をいうなら、アカデミー賞でメイクアップ&ヘアスタイリング賞をとったオギーを演じた“ジェイコブ・トレンブレイ”のメイクですが、ちょっと“おとなしめ”かなと。本当は題材となった病気の子をそのまま起用すべきですし、そのハンディキャッパーの起用で成功した映画も『クワイエット・プレイス』などありますから、もっとやれたんじゃないかと思いますが…。
実際の「トリーチャーコリンズ症候群」の子どもたちの生の声を聞きたいところですが、ほとんど表の世界では見られません。
それはつまり…。うん、「#choosekind」でいきましょう。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 84% Audience 88%
IMDb
8.0 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 8/10 ★★★★★★★★
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以上、『ワンダー 君は太陽』の感想でした。
Wonder (2017) [Japanese Review] 『ワンダー 君は太陽』考察・評価レビュー