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『メアリーの総て』感想(ネタバレ)…私が怪物を創りだしました

メアリーの総て

私が怪物を創りだしました…映画『メアリーの総て』(メアリーのすべて)の感想&レビューです。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。

原題:Mary Shelley
製作国:イギリス・ルクセンブルク・アメリカ(2017年)
日本公開日:2018年12月15日
監督:ハイファ・アル=マンスール

メアリーの総て

めありーのすべて
メアリーの総て

『メアリーの総て』あらすじ

19世紀のイギリスで小説家を夢見る少女メアリーは詩人パーシー・シェリーと出会う。2人は互いの才能に惹かれあい、情熱に身を任せて駆け落ちするが、メアリーは数々の悲劇に見舞われてしまう。そんな彼女は後に歴史に残る創作物を生みだすことになる。

『メアリーの総て』感想(ネタバレなし)

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原作者は少女だった

「コミックスゲート(Comicsgate)」という言葉をご存知でしょうか。

この用語を使う人たちが主張しているのは、簡単に言ってしまえば「“ポリティカル・コレクトネス”のせいで創作業界がダメになってしまう!」というもの。

最近、女性・非白人・LGBTQなどマイノリティをキャラクターとして描いたり、またそうした人を製作側に起用することが目立ち始めました。差別や偏見を無くし、業界が率先して多様性を推進していくべきとして大手企業も積極的に取り組んでいます。

しかし、その潮流に対して異を唱えるのが反ポリコレのコミックスゲート派です。ポリコレは表現の過剰な規制を招き、商業を衰退させ、あげくに業界全体が委縮して崩壊する…そう警鐘をならしています。

でも、コミックスゲート派の言うことは本当でしょうか。例えば、最近に行われたハリウッド映画におけるジェンダーと興行収入の関連性に関する研究によれば、女性を中心とした作品は男性のものよりもヒットして成功していることが立証されています。

そもそも「コミックスゲート派の人たちはポリティカル・コレクトネスという言葉の意味を理解していない」という意見もあります。ポリコレは正論の押しつけでもなければ、表現の規制を目指すものでもなく、表現の幅を広げるものだと。また「創作の歴史を全然わかっていない」という声もあがっています。ポリコレの言葉が生まれる以前からその精神は創作の原動力となっており、そのおかげで今の豊かな創作物が存在するのにと。

そうした創作とポリコレとの古い歴史を感じさせる映画が本作『メアリーの総て』です。

本作はあの文学史に名を残す、今のSFやホラーといったジャンルの原点ともなったゴシック小説「フランケンシュタイン(Frankenstein: or The Modern Prometheus)」を生み出したメアリー・シェリーにスポットをあてた1800年代初めを描く伝記映画です。

メアリー・シェリー、そう、女性であり、しかも執筆し始めたときの年齢は10代。「えっ、そんな若い女の子があんな怪奇物語を作っていたの!?」と驚いた人も多いはず。

革新的作家メアリー・シェリーがどういう人物だったかは本作を観てもらうとして、ここから本作ではあまり描かれない部分の補足説明をちょっとしておきます。

実はメアリー・シェリーの周囲はフェミニズム的に非常に重要な女性がたくさんいました。まず、彼女の母です。その母「メアリー・ウルストンクラフト」はフェミニズムの創始者とも呼ばれ、とくに男女の教育の機会の平等について熱心に活動していました。また、メアリー・シェリーの親友であった「エイダ・ラブレス」は世界最初のプログラマーとも称されています。

もちろん、メアリー・シェリー自身も「フランケンシュタイン」を書きあげるうえでフェミニズム的感情がエネルギーになったわけで、その話を知りたい方はぜひ映画で。

少なくとも本作を観れば「女に創作は無理だ」とか「女のせいで表現が制限される」なんてことは戯言なのは一目瞭然でしょう(それでもわかってくれない人がいるから困るのですけど…)。

フェミニズムの視点で見なくても、単純に文学の歴史を知るうえでも興味深いですし、メアリー・シェリーを演じる“エル・ファニング”目当てで鑑賞するのもアリですよ。

↓ここからネタバレが含まれます↓

『メアリーの総て』感想(ネタバレあり)

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監督はあの名作の人

前半の「ネタバレなし感想」で言及し忘れていましたが、本作『メアリーの総て』の監督も特筆できる人物です。“ハイファ・アル=マンスール”…たぶん映画に詳しくなければ知らないマイナーな監督でしょうけど、知っている人は知っている有名な人です。

彼女はサウジアラビア初の女性監督作品として『少女は自転車にのって』という映画を2012年に製作。世界から大きな注目を浴び、高評価を受けました。サウジアラビアは映画館が禁止されており、さらに保守的なイスラム教に基づく戒律のせいで、とくに女性の人権がないに等しい国でした。その不自由さのひとつだったのが「女性は自動車や自転車を運転してはいけない」というもの。『少女は自転車にのって』はまさにそこをテーマに、抑圧的な社会で生きる少女の少しばかりの解放を描いたフレッシュな映画でした。ちなみにこの映画の公開後、サウジアラビアでは映画館も、女性の自動車や自転車の運転も解禁となりました。

そんな物語を手がけた“ハイファ・アル=マンスール”の長編2作目に、メアリー・シェリーの伝記映画をセッティングするのは、“なるほど、それは良さそう!”と納得です。これも抑圧的な社会で生きる少女の少しばかりの解放ですから。

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「フランケンシュタイン」の解釈も刺激される裏話

実際、『メアリーの総て』は『少女は自転車にのって』と全く同じく少女の視点で、展開も似たような感じで物語は進み続けます。

まずは父と継母のもとで暮らすメアリーは、小説家になる夢を抱くもそれを全く叶えられそうにない“閉じた世界”でくすぶる無垢な少女という立ち位置です。

そこへ転機が訪れます。ある夜、豪華な屋敷で格式のある読書会が開かれ、メアリーは“異端の天才詩人”と噂されるパーシー・シェリーという男と出会い、心を惹かれていきます。この男性ならば、自分を“閉じた世界”から救い出してくれるかも。そんな期待を寄せながら急接近していく二人はついに駆け落ち。新天地へ旅立ちます。

その“パーシーの世界”(男たちの世界)では、確かに贅沢な生活と自由を手にし、ついには赤ん坊という自分のいわば“創作物”を手にして幸せを享受することになったメアリー。しかし、その幸福は一瞬で終わり、“パーシーの世界”の汚さを痛感することにもなり、またもや苦しさを感じていきます。

そこでメアリーは“自分の世界”を自分自身で作ることを決意し、「フランケンシュタイン」を書いていく。

書き終わった「フランケンシュタイン」は匿名で世の中に出回り、皮肉なことに“自分の世界”だとは他人に認められないものの、そばにいたパーシーはそれを理解してくれる。そして、物語を読んだ大衆もいずれは彼女の存在が伝わるのではないか…そう匂わせて映画は終わります。

『少女は自転車にのって』を鑑賞済みの方なら共通性を実感できるでしょう。

「フランケンシュタイン」は聞いたことはあっても読んだことはない人も多いと思いますが、本作のメアリーの半生を知ったうえであらためて思い返すと色々と解釈が変わってきますよね。

“フランケンシュタイン”は怪物を作った人の名前ですが、この人は原作ではとくに博士として学歴があるわけでもない、普通の人間です。どうして無名の人間にしたのか。もしかしたらメアリー自身がそうだからなのかもしれません。一方の怪物は、知性も感情もある完璧さを備えながら、醜いという理由で嫌われ、作った人を憎みます。“創作主”と“創作物”の関係性は、メアリーの実人生とオーバーラップする要素が多いです。

創作物を生んだクリエーターの裏側を描く映画は、最近でも『ワンダー・ウーマンとマーストン教授の秘密』や『グッバイ・クリストファー・ロビン』とありましたが、どれも「知らなかった~」となるだけでなく、新しい読み解き方を提供してくれるのが楽しいです。個人的には好きなジャンルですね。

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伝記映画としては…

こうした実話を知って創作物の裏側から読み解く面白さがある一方で、『メアリーの総て』は伝記映画としての欠点もあるように思います。

なにより『少女は自転車にのって』と同じ構造にして良かったのかという問題です。

とくにパーシーとの関係性。『少女は自転車にのって』では少女と母の関係を軸に物語が進むのですが、『メアリーの総て』ではメアリーは母との関係性がすでに絶たれており、その役割を担うのがパーシーになっています。

結果的にどうなったのかというと、パーシーとの駆け落ちに始まるロマンス譚といういたって平凡なストーリーに落ち着いてしまい、なおかつ最終的な映画シナリオの良いところをパーシーにとられてしまっています。つまり、メアリーが男に従属した構図を最後までチラつかせてしまい、なんかスッキリしない気持ちにもなりました。

また、伝記映画としてもイマイチ味付けが薄いかなとも思います。

「ディオダディ荘の怪奇談義」と呼ばれる「フランケンシュタイン」誕生のきっかけの出来事もあっさりですし、作家として物語の創造に成功したんだというカタルシスがもっと欲しいですよね。

キャラクターも悪くはないのですが、イノセントの中に危うさを秘めたような役をやらせると抜群にハマる“エル・ファニング”は相変わらず凄いですが、彼女の魅力がそこまで最大限に引き出されたかというと、う~ん。並み…な感じです。“エル・ファニング”は『パーティで女の子に話しかけるには』で見せた奇抜キャラから正統派ヒロインまで何でもできる多才さを持つのは知っていますが、『メアリーの総て』に限って言えば、純真さに魅力が隠れた気もしないでもない。

一番ひっかかるのはバイロン卿の描写。彼は史実ではとにかく女癖が悪く、同性愛でもあったと言われ、その部分については本作でもパーシーや一緒にいるジョン・ポリドリとの接し方で匂わすことはありましたが、記号的だとも思いました。まあ、このキャラは凄く難しい存在ですが。

伝記映画はこのアレンジをどうするかが本当に悩みどころで正解がありません。題材は素晴らしいのは疑いようがないので、あとは見せ方の問題なのか。伝記映画はまだ不慣れだったのかも。“ハイファ・アル=マンスール”監督にはまだまだ成長していく希望を感じますね。

メアリーの周囲はとにかく死で満ち溢れ、呪いだと騒ぐ人もいるくらい、凄惨です(“早死に”はこの時代では普通なのかもしれないですけど)。彼女の唯一長寿で人生を全うした次男が子どもを作らず死亡したため、メアリーの子孫はこの世にいないそうです。

でも、今は彼女の功績が無数の創作物へと波及し、とてつもないジャンルの開拓を成し遂げていますし、私もそれを満喫して楽しんでいるひとり。もはやメアリーはSFやホラーファンにとって創造神に匹敵する女神です。そんなメアリーの意志を引き継げるかどうかは私たちの歩む道しだいです。

『メアリーの総て』
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 40% Audience 47%
IMDb
6.4 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 6/10 ★★★★★★

(C)Parallel Films (Storm) Limited / Juliette Films SA / Parallel (Storm) Limited / The British Film Institute 2017

以上、『メアリーの総て』の感想でした。

Mary Shelley (2017) [Japanese Review] 『メアリーの総て』考察・評価レビュー