キーラ・ナイトレイが著名な仏作家を熱演…映画『コレット』の感想&考察です。前半はネタバレなし、後半からネタバレありとなっています。
製作国:アメリカ・イギリス・ハンガリー(2018年)
日本公開日:2019年5月17日
監督:ウォッシュ・ウエストモアランド
コレット
これっと
『コレット』あらすじ
フランスの片田舎で生まれ育ったコレットは、14歳年上の人気作家ウィリーと結婚し、パリへと移り住む。芸術家たちが集うサロンで華やかな生活を送る中、コレットの文才に気づいたウィリーは、自身のゴーストライターとして彼女に小説を書かせる。そうして彼女が執筆した「クロディーヌ」シリーズはベストセラーとなるが…。
『コレット』感想(ネタバレなし)
女性が声をあげるのはダメですか?
2019年の4月、日本トップクラスの大学である東京大学の入学式で、ジェンダー研究の第一人者である上野千鶴子氏が述べた祝辞が大きな話題になりました。
その祝辞には、日本社会に存在する女性への差別に触れつつ、「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています」と現実的な問題を提示する内容の言葉が含まれており、それが論争の火種になったかたちです。その賛否両論は激しく、「一方的だ」「攻撃的だ」「偉そうだ」とかいったかなり否定的な声も少なくありませんでした。
しかし、この上野千鶴子氏の祝辞への世間の反応(とくにネガティブなもの)が結果的に日本社会に女性への偏見が根深く存在していることを証明してしまっているのがまた皮肉なものです。
名誉教授というキャリアのある人間が、自分の専門分野の研究の話題を交えながら、学問の意義を若者に唱える…いたって普通のことのはず。どこの大学でも誰でもやっています。それがたまたま“女性”が“女性らしくない”主張をしただけでこうもバッシングされるとは。ジェンダーに立ちはだかる巨大な壁の存在感をあらためて痛感する出来事でした。
以下、上野千鶴子氏の祝辞の全文。
なんでこんな話をしたかと言えば、今回の紹介映画である本作『コレット』の題材となっている、「シドニー=ガブリエル・コレット」という女性作家もまた、全く同様の壁にぶつかったから。
シドニー=ガブリエル・コレットは1900年代前半に活躍したフランスの作家であり、後にフランスで最も名誉のある最高勲章である「レジオンドヌール勲章」の「グラントフィシエ」を授与されています(女性初)。
そんな彼女ですから順風満帆なキャリア人生を歩んだのかといえば、そんなことはなく、ジェンダーの壁との戦いでした。『コレット』は伝記映画ですが、シドニー=ガブリエル・コレットの人生の初期…とくに最初の作品である「クローディーヌ」シリーズを生み出すまでを中心に描いています。この「クローディーヌ」シリーズは最初、著者の名前は“コレット”ではなく“ウィリー”という夫のペンネームを使っていました。これはもちろん“女性の名前では受け入れられない”という考えが当時はあったためです。
女性作家が“女性”ゆえに素直に作品を発表できない苦悩を描く映画は、最近でも『メアリーの総て』や『天才作家の妻 40年目の真実』がありました。
ただ、同じようなテーマに見えて、実はどれも作品ごとに魅力があって、主人公となる女性作家の立ち位置も違います。
『コレット』の場合は、非常に“自分の意見”を公然と主張していくパワフルさが印象的になっており、社会に異を唱えることで自分から道を切り開いたシドニー=ガブリエル・コレットの強さがわかる一作です。
監督は、若年性アルツハイマー病に苦しむ女性を丁寧に描いて高評価を得た『アリスのままで』を手がけた(厳密には病気だったリチャード・グラツァー監督のサポート&共同)“ウォッシュ・ウェストモアランド”。『コレット』は彼の初の単独監督作になります。
シドニー=ガブリエル・コレットを演じるのは、日本でも映画ファンの間で人気の高い“キーラ・ナイトレイ”。コレットはココ・シャネルと親交があったほど、ファッションセンスへのこだわりも強く、作中でもバラエティ豊かな衣装を披露しているので、そこも要注目です。
文学史を知るうえでも興味深いですし、女性の生き方としても面白い、今の日本にもタイムリーな映画ではないでしょうか。もしシドニー=ガブリエル・コレットが現代の日本で生きていたら、上野千鶴子氏の祝辞を聞いて、“そうだそうだ”と同調の声をあげていたでしょう。
オススメ度のチェック
ひとり | ◯(文学好きはとくに) |
友人 | ◯(興味を持ちそうな相手と) |
恋人 | ◯(大人の恋愛模様が見たいなら) |
キッズ | △(ドラマが大人向け) |
『コレット』感想(ネタバレあり)
文句はハッキリ言います
オープニングはタイトルとともに、穏やかなどこかの一室のベッドにいる猫と起き上がるひとりの女性が映し出されます。それは優雅でおしとやかな始まり…ではなく、眠れる獅子の目覚めなのでした。
1892年、フランスの田舎町サン・ソヴール。この静けさしかないような環境で暮らすコレットは、14歳も年上のウィリーと実は熱愛中。訪ねてきたウィリーと、人の目から隠れながら納屋で密会。愛を確かめ合うという、まるで物語のようなロマンチックな日々を過ごしていました。
当然のようにそのウィリーと結婚。これを機に、コレットは一緒にパリへ移り住み、自分を取り巻く環境は一変します。なにもかもゴージャスで煌びやかなパーティーに夫と一緒に出席し、その違いに言葉を失うコレット。当時のフランスは、「ベル・エポック(Belle Époque;良き時代)」と呼ばれる繁栄の真っ只中。第一次世界大戦の勃発まで富裕層のこの華美な享楽生活は続きます。
ここまでの流れを見ると、コレットの人生はいかにも王道というか、一種の“ステレオタイプ”な理想の女性の幸せそのものな感じです。結婚をして、裕福な暮らしをする…そこに何の文句もないはず。
ところが、ウィリーには浪費癖があり、結構借金をしていることが判明。しかも、極力倹約をしようと考えるコレットに対して、ウィリーは娼婦に金をつぎこみ、あげくに男というのは女と関係をもつことが大事だとかなんとか宣う態度。これに黙ることなくブチ切れたコレットは家を飛び出し、実家に帰ってしまいます。
そしてここでこのコレットらしさが光るのですが、後を追いかけてきたウィリーに対して自分(コレット)の家庭内での権利を上げるように“交渉して取引する”んですね。完全にコレットの“己の立場を譲らない姿勢”がハッキリでる瞬間です。決してコレットは“夫に付き従う妻”ではありません。
作中ではコレットはこの一件を基軸にどんどん積極的に自分の生き方を解放していきます。
犬にはなりません
また夫婦生活が再スタートした、1895年。
ウィリーは多数のゴーストライターを雇って小説を書かせていました。このゴーストライターですが、文学に限らず、映画・音楽・学術とどの業界でも代筆するのは別に稀有な事例ではないようで、本作でも特別このウィリーの行為を断罪するような話の持っていき方はしていません。
しかし、ある日、本当に何気なくコレットになんか書いてみればと勧めてしまったことで大きな変化が起こり始めます。偉そうに執筆の心得を話すウィリーでしたが、コレットは案外というか、実は向いているのか、スラスラと筆が進んでいきます。
ついに完成した小説を読んだウィリーに、コレットは感想を聞いてみますが、その答えは“まあ、悪くはない、でも出版はできないだろうね”的な冷めた言葉。フェミニンだと批評するウィリーのセリフの節々からは、そもそも女性の書く女性の物語は全然評価する気もないことが窺えます。
ところが年月が経過した1898年。
たまたまコレットの書き溜めた小説を見つけたウィリーはその出来に感心し、手直しした後、著者はウィリーとしながらもコレットの処女作「学校のクロディーヌ」が出版されます。それがまさかの大好評。絶賛の嵐で増刷も決まり、ウィリーは手のひら返しで有頂天になるのでした。ウィリーは…。
この時点ではコレットは自己表現する“小説”という世界を見つけたものの、結局は、夫という管理者の庇護のもと、成功したら家を買ってくれるようなご褒美をもらう、言ってしまえば「犬」です。
でもコレットはどちらかといば「猫」のように伸び伸びと自由気ままに生きる、芸術肌なんですね。それこそ冒頭に猫が一緒に映っていたのはそれを暗示するかのようです。
女だから、出る杭は打たれる
これ以降、コレットとウィリーは対等な立場での競争を行うようになり、最初の競技が「どっちがジョージー・ラオール=デュヴァルの愛を手に入れるか」ゲームです。互いがひとりの女性をめぐって、私こそはと体を重ねるシーンが交互に描かれるのは、なんともシュールでもありますが。
一方で、コレットは自分を新しい世界に引っ張ってくれる刺激を与える人物と巡り合います。自分の小説の舞台化が決定し、そのパーティーで出会ったのは社交界でも有名な男装のパフォーマンス・アーティストである「ミッシー」。彼女はレズビアンであり、本名は「Mathilde de Morny」といいます。
ミッシーはコレットの内に秘める才能と承認欲求を見抜き、それを解放するように誘うわけですが、その誘いにガンガン乗っていくかのごとく輝いていくコレット。それはファッションでもわかりますし、そのものズバリの舞台の世界でも自分を見せつけていきます。
しかし、ここで立ちはだかるのがジェンダーの壁。コレットがやろうとしていることは特殊でもなく、ただ当たり前に自分を認めてもらおうとしているだけ。ウィリーはゴーストライターを使っていましたが、それに頼らず自分の力で挑んでいく姿はむしろ潔いくらいです。
でも、世間の風当たりはなぜかコレットに対しての方が冷たい。本作を見ていてやはり思うことですが、コレットのような生き方をする人間は、その性別が男性か女性かで評価が変わってくるのが今も同じお決まりです。男性なら「向上心がある」とか「目標意識のレベルが高い」とかポジティブに見られがちですが、それが同じ行為でも女性なら「自由奔放」だとか「破天荒」だとか「スキャンダラス」だとかで問題性のあるネガティブな言われ方をします。本作の宣伝でも「お騒がせセレブ」と表現するものも見受けられますが、それさえも偏見が滲み出ています。“出る杭は打たれる”とは言いますが、それが性別で異なるのはただの不平等。コレットの性別が男性だったら、全然違った評価だったことでしょう。
それでも決して屈することなく、最終的にはウィリーに象徴される男性社会中心の既存価値観に対して徹底的な決別を告げたコレット。
コレットのような男性社会で堂々とキャリアを生きようとする女性を描く映画なら、最近だと『モリーズ・ゲーム』も同じでしたね。
コレットは再びペンを持ち、本当に自分の力だけで書き上げた「さすらいの女」は、散々ウィリーに言われた「女の著者ではウケない」という言葉などどこ吹く風で批評家は絶賛。映画のラストは「コレット」と呼ぶ聴衆の声に応えてステージに立つコレットの姿で終わりますが、まさに彼女のステージはここからだという真のスタートを意味する“オープニング”のようでした。
映画はここまでですが、コレットの人生はこれ以降も波乱万丈です。別の人と結婚して子どもをもうけたり、はたまた17歳年下の人と結婚したり、さらには第一次世界大戦中はジャーナリストとして活躍したり、第二次世界大戦中ではナチスのゲシュタポに連行されたり、映画があと2~3本は作れる感じ。
こんなにも自由に人生を謳歌した女性がいるのですから、現在の時代なら女性がもっと自由を謳歌しても何も悪くはないですね。本作は、コレットの生き方を通して、私たちに“抑圧に従う価値はない”という当然のことを教えてくれました。
ROTTEN TOMATOES
Tomatometer 87% Audience 70%
IMDb
6.8 / 10
シネマンドレイクの個人的評価
星 6/10 ★★★★★★
作品ポスター・画像 (C)2017 Colette Film Holdings Ltd / The British Film Institute. All rights reserved.
以上、『コレット』の感想でした。
Colette (2018) [Japanese Review] 『コレット』考察・評価レビュー